京都ではギアを鑑賞してきました。
Non-Verbal Theatre GEAR in Kyoto
ノンバーバルなので年齢も国籍も超えて楽しめるエンターテイメントとなっています。劇場となっていた建物からまずオシャレで楽しい場所でした。
個人的なノンバーバルコミュニケーションの思い出といえば、昔ウズベキスタンでお土産屋さんの店番をしていた19歳の女の子とコミュニケーションをとったこと。
私はロシア語とウズベク語は話せないし、彼女は英語も日本語も話せない。
けれどもなぜか、子守りしている子供は彼女の二人目の子どもで、お店は両親と共に営んでいること、私は日本の大学生であることなど意思疎通ができていて、会話が終わって店の外に出た時、あれ?なんで会話できたんだ?とトトロの森から出てきたメイちゃんみたいな気分になったのをよく覚えています。
さて、ノンバーバルな演劇とは、エンタメとは?とドキドキワクワクしながら鑑賞。
トトロの森に入っていくような気分で始まったと思ったら、終演後は、目から溢れそうになっていた涙をハンカチで拭って、哲学者のデリダのことを考えていました。
トトロどこいった?
ノンバーバル。そこに音声言語はない。なのに私は登場人物たちの感情に共感できるし、登場人物たちの感情に名前をつけて、自分の中で消化している。私には自分の文字言語を通して作品を楽しんでいる側面が確かにあった。
登場人物たちの会話が無音なのに理解できるこの感覚は不思議で、音声言語が優位だとかそんなことはないんじゃない?と当時の議論に異議を唱えたデリダの主張を思い出した。(そして結論、だからと言って文字言語が先立っているというわけでもないというどっちつかず感あふれる主張も)
どちらが先立っているのか全くわからない。
小さいまだ文字言語をしっかり獲得していない子どもはどう感じ取るのだろう?
海外の異なる母語をもった友人はどう思うのだろう?
でもどんな人とでも、同じような感情を共有できるような気がするし、同じような場面で感動したね!って言い合えるような気がしている。
デリダのグラマトロジーを読んでいるとき、デリダに対してはっきりしてほしい、音声言語と文字言語、どっちかは先立っているのでは?と何度も思ったけれど、全然どっちかが先立っているとか決められない。
南極と北極みたいにぐるぐるしている。
私たちは何でコミュニケーションを取っているのだろう?
顔?しぐさ?目で見えるものでコミュニケーションをとっている?
じゃあコミュニケーションは視覚的なものなの?
けれども聞こえてくる音がある。音楽や風や物が動いた時に聞こえる音、怒って机を叩く時と、楽しくて叩く時の音は何かが違う気もする。
あらゆる言語の可能性を捉え直したくなる、鑑賞後はそんな気持ちがどどっと押し寄せてきました。
京都に行く時は是非。
おやすみなさい。