くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

優秀さとは何か。あと努力のあれやこれ。 めも

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・社会人を経て、4月から大学院に入学して早7ヶ月が経過した。コロナで入学式やオリエンテーションなどは全てオンラインで行われ、先輩の顔を始めて見るのはパソコンの画面越し。顔を出さない先輩は、未だに声しかその存在は知らない。

 

・最初の授業は自分の社会人経験から前知識ばっちりで受けられる授業もあれば、初めてふみこむ世界の授業(特に哲学)も多くあった。(そしてこっちが私の主専攻となっている)哲学の原著なんて、『エミール』くらいしかもう覚えていない。かろうじてフーコーのパノプティコンか。オンライン仕様なのかこれまで通りなのかは分からないが、毎週読む文献量にひいひいしつつ、さらに毎週書くレジュメも知らない世界のことを少しの知識で読み解いたひもじい情報量で書くからひいひいしてた。

図書館がなかなか使えなかったので、分からないことは全てネットで検索。自分が学生の頃とは違うツール。他の学生に尋ねて、RPGの最初の冒険者さながらにいろいろな道具を揃えた。

今、私のPCの検索窓のトップページはgoogle scholarだ。

 

・英語が読めることは当たり前なので、課題もひょいひょいと英語ででる。毎日英語の論文、本も読んだ。去年院試のための指針的に目標において勉強していたTOEIC的英語力はあまり高まっていない気がするけど、(リスニングは全然伸びてないと思う)長文を読むスピードは上がった。全部精読するのは時間がかかるけれど、ざっくり内容を理解するだけならそこまでストレスも感じなくなった。でも夏まではひいひいしてた。毎週何か英語の文献を2本は読んでいた。

 

・夏休みにはデリダを読み始めた。もちろんまったく分からない。デリダ本人の著作に触れる前に入門書から入ったけれど、入門書も難しい。分からないけれどとりあえず読み続けた。分からなくてもまず一回読んでみることが大事、ということを何かの読書法で誰かが言っていた。愚直にまず一回めを読み進めた。分からなかったら何度でも読めばいいと思った。だって購入したし。分からないけれど大学院生やっている実感がわいて来た時間だった。

 

 

・夏のうだるような暑さがだんだんと爽やかになる頃、夏休みが終わり、後期が始まった。再びレジュメと文献の日々が始まり、前期よりも内容は濃くなったけれど、不思議と夏前よりも楽だった。文献を読んでいても、分からないことに変わりはないのだけれど、分からないことが、どのように分からないのか、なぜ分からないのか、そもそも分からない箇所が具体的にどこなのか、ということが明確に示すことができるようになった。

わからないところがわからない状態から、わからないところがわかる状態になったのだ。これは大進歩だった。分からないところを具体的に説明できる→レジュメでどのようにわからなかったのか説明できる→レジュメが書ける→授業内で教えてもらえるorその点について議論ができる。というサイクルが生まれて、授業に参加している実感が強くわくようになった。前期は議論がぜんぜん盛り上がらないことが多かったけれど、後期に入ってからは盛り上がり過ぎて時間オーバーになりそうだった回が何度かあった。そのまま議論をしていたかったくらい楽しかった。

 

 

・これが私の7ヶ月間だ。英語を読むのは遅く、なんなら避けたいなあなんて弱腰だった自分は、今は英語(非ネイティブの研究者の論文ならなおさら)もストレスではないし、むしろドイツ語やフランス語、スペイン語(そしてラテン語)ができない私にとって、救済の言語である。原著を読むことも、分からないことが分からない状態から、分からないことを言語化できるようになった。これは私自身に起きた変化だ。

 

・私の周りに起きた変化として、まず一つめは先程も書いたようにネット検索窓のトップページがgoogle scholarになったこと。たまにgoogleに戻すこともあるけれど、お気に入りの一番上のクリックしやすい位置に必ずscholarがある。

 

 

・優秀さとはなんなのか。私の周りにいる人達は優秀だ。英語を読むのも、その読解力の正確さやスピードにはまだまだ追いつけた実感はないし、英語だけでなく第二外国語で論文を読める人もいる。

でも、そこにいる人達も私が7ヶ月間でこうやって変化したように、何ヶ月も、何年もこうした(研究する、学ぶという意味で)厳しい環境の中に居たからこそ身に付いているものなのかもしれない。

 

 

・優秀さはやっぱり努力でできているんだと思う。もちろん努力だけではない。私の周りに居る彼ら、彼女らは当たり前のように中学受験を経験しているし、幼少期の遊びは豊かで、家族関係も良好そうだ。私は塾にさえ通った事がなく、彼ら彼女らの人生と比べたらすごい這い上がってきたヤツ、に分類される。けれどもその中にも運や環境は絶対あったし、そして彼らの結果にもとてつもない努力はある。

 

・なにはともあれ、苦しい7ヶ月間でもあった。成長はやっぱり苦しい。成長痛とはよくいったものだ。あれは成長しようと思う限り、一生続く。身長が伸びなくても、筋トレをしたら筋肉痛になるし、新しいものごとに取り組もうとおもうと精神や脳が疲れる。そして苦しむ。きっとこれも成長痛。

 

・そういう意味では、一生成長痛が定期的に訪れる人生にしたい。痛いのだけれど、痛みの先にある楽しさはそれまでの楽しさとはまた違うこと、そして自分が充実していくことが分かっているから。

どんな楽しさなのかも分からないけれど、充足感があることは分かっているから。

 

おやすみなさい。