お気に入りのお店でいただいたほやのお刺身。久しぶりに東北にやってきました。実家への帰省ではなく、コロナでずっと延期になっていた友人の結婚式のため。
友人は同い年の地元の人と結婚したので、結婚式はプチ同窓会状態。タイムスリップしたかのようなハラスメントラインスレスレというか、超えちゃってる来賓の挨拶にどこか懐かしさを感じつつ、美味しい海の幸たっぷりの食事と久しぶりの同級生たちとの会話を楽しみました。
同級生たちはみんな幸せそうで、地元の大学、地元の手堅い企業もしくは公務員で、家を建て、何人かは子どももいて、マイルドヤンキーが高卒で地元暮らしの幸せな人生を歩む人たちを指すなら、マイルド優等生たちとでもいえばよいのでしょうか。
東京に染まってしまったせいなのか、各種ハラスメント発言に笑えない私の横で、まあ仕方ないなという暖かな眼差しで各種催しを見つめる同級生たちが幸せそうに生きていることは友人として嬉しく思いつつも、それこそ彼女たちと一緒に読んだパウロ・フレイレの著作が頭をよぎっていました。
パウロ・フレイレは南米にて、搾取され貧しい農民たちに識字教育を行った教育者。その教育方法は、知識を詰め込み、とにかく覚えさせるという方法ではなく、教える側は対話的に彼らの暮らしを尊重しながら学んでいく対話型の教育方法を提示、実践した人です。
フレイレは、農民たちが自分達で自分の学びの価値に気づき、搾取されないために立ち上がることができるように、ということを目指していたため、革命のための教育と言われることも。
自分で学びたいと思うこと、欲求を大切にする、といったあたりはデューイっぽくもあり、今話題のアクティブラーニングにおける、対話的な学びについてどういう教育方法があるだろうか、ということを考える際に参照される人でもあります。
一見、とても良い教育方法に、農民にも理解のある良い指導者にも見えますが、フレイレの話で行くと(極端な解釈かもしれませんが)、今日の私の同級生たちは家父長制的社会から「解放」されておらず、ハラスメントは受け流す革命をしようとは思わない従順な存在で、これは真に自由ではない!学んで自由を獲得しなければならない!」と言われてしまうかもしれません。
ここでのフレイレの「解放」は学ぶこと、教わることによって、自由になる「解放」だといえるかなと思います。
一方で、違う「解放」として教わらないからこその「解放」もあるのだとも思います。
例えば彼女たちは、私がハラスメントじゃん、と思うような扱いを受けていても、幸せだと言います。
もしも学ぶことや教わることの目的が、本人が幸せになることなのだとしたら、ハラスメントを認識できるようになってしまったら今の生活が苦しいと感じるようになるかもしれません。それは本当に「解放」なのか。新しい鎖に縛り付けられるようなもの、という意味で自由ではないとすれば、教わらないほうが自由で幸せで「解放」的なのかもしれません。
教わることや学ぶことが不要だとは思っていませんが、「解放」とはなんと難しいのだろうか、と昔一緒にフレイレを読んだ仲間たちだからこそ、思うことなのかもしれません。
ある意味で私もまったく解放されていない人間だし、そもそも解放なんてものはなく、新しい何かに縛り付けられるその束縛の主が変わっていくだけのことなのかもしれません。
友人として彼女たちの幸せを願いながら、私はまた思い出すたびにフレイレの本をめくるのだとおもいます。
おやすみなさい。