くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

「絶対」を捨てること

 

減らす技術 新装版

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減らすではなく「捨てる」とはどういうことなのか。私は減らしてきたのか、捨ててきたのか。

減らすというとそこにあったものがなくなったわけではなく、最小限になったというイメージ。捨てるは0にするイメージ。

 

不要なものを処分する時の行為は完全に「捨てる」行為だと認識していた。持っていたものをゴミ袋に入れたり、リサイクルショップに持っていくなどして手元からなくなると、それはなくなる=0になっていて、感覚としては「捨てた」。この場合、売ったということであっても、そこからなくなったという意味では「捨てた」に分類されるかもしれない。

 

一方「減らす」は、なくなるわけではない感じ。ボロボロになって毛玉だらけのセーターは「捨てた」と言うけれど、洋服は「減らした」と言う。洋服は残っているし、自分が思う適正量にまで減らしたという感覚が強い。

 

そう考えると、本当に捨てられるものはとても限られていて、私たちはほとんど毎日自分のあらゆることについては減らすことしかできないのかもしれない。

セーターは捨てられるけれど、洋服という習慣は捨てられない。

食事は減らせるけれど、捨てられない。

色々なものは捨てたようでいて、捨てたんじゃなくて減らしただけのような気もする。

 

概念的なこともそんな気がする。

例えば「絶対」は捨てられるだろうか。

自分自身にとって絶対大丈夫なこと、何か非常に確信的なことは、あるからこそ生きているような気もしていて、世の中に絶対はないと思っていても、「絶対」の感覚を持っているから生きているような気もする。

そういう意味で「絶対」も減らせるけど捨てられないのかもしれない。

 

ねむくなってきた。

おやすみなさい。