くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

私たちはいつ学ぶのか

www.47news.jp

「教育虐待」という言葉はそれなりに人口に膾炙されているとは思いつつ、そこへの危機感や認識については簡単に考えられている現状はまだまだあるな、ということを実感したニュースでした。

 

ここまで追いつめることはなくても、私の友人にも「子どもには厳しい習い事をさせる、なぜなら理不尽な世界があることを実感として学ばせたいから!」という人は結構多いです。具体的な結果を求めて起きた今回のケースと、具体的な結果と言うよりはそういう経験をさせることによって学習して欲しい、という願いを求めている私の友人のケースは、一見遠いように見えますが、「経験」と「学び」をそれぞれどのように捉えるのか、という点において共通点があるように見えました。

 

例えば、「経験」について、デューイは『民主主義と教育』において、「経験とは、能動的な面では、試みること(中略)受動的な面では、被ること」と述べています。

「試みること」と「被ること」は、それぞれ、行動が意味と結びつけられた時に「経験」となることを指摘します。例としてデューイは火傷の話題を出します。火の中に指を入れるという行為だけでは、それは経験ではなく、火の中に指を入れたことが原因で火傷をした、という意味と結びつくことで「経験」になるというのです。

 

つまり、「経験」とは自分なりに、自分に起きた事象について意味付けをすることによって起きるということ。

ニュースの事例であれば、母親は一方的に娘に対して何かを押し付けていたということから、娘には意味付けの機会がもたらされなかったのではないか、という意味でデューイ的な「経験」がなく、私の友人の例であれば、理不尽な世界をとりあえず体験させる、(子どもがそこから意味付けできるかどうかの保障はできない)という意味でデューイ的な「経験」はなさそうです。

 

つづいて学びについてですが、先日読んだ『国家』(プラトン)の中で、学びは自分自身の意志が伴っている必要がある、という主旨のことが書かれていました。(下巻の第7巻あたり)

 

ニュースの事例であれば、母親に強制させられていたことから「学び」に意志があまり伴っていなかったことが読み取れますし、私の友人の話でも、とにかく××(伏せます)をやらせる、ということを言っていたので、その事象をやってみることに対する子どもの意志は働いていないと思われます。

(例えば本人がやってみたいと思った習い事について、先生を選ぶ際に、そういう教育方針の人を選ぶことができれば、子どもの意志は一定入るかも? やりたいこと=子どもの意志、先生の選択=親の意志)

 

デューイどころかプラトンの『国家』なんてだいぶだいぶ古い古典ですが、人類全体が納得しているわけでもなく、強制力をもった教育の必要性・重要性が強く語られることはアジアではしばしば。

本当はどっちがいいか、は結局結果が出てみないと分からないことなのかもしれないですが、大成した人や大きな功績を残した人は大抵そのことが大好きな人が多いので、本人がそのことを好き、というのは大成のためには重要なのかもしれません。

 

さて、「経験」とか「学び」とか、壮大な言葉を想起させられたニュースでしたが、仕事として教育に関わり、現在も教育について考え続けている身として一番気になったのは、母親のコンプレックスをここまで追いつめたものは一体なんだったのか、ということです。これはまたゆっくり考えてみよう。

 おやすみなさい。

 

民主主義と教育〈上〉 (岩波文庫)

民主主義と教育〈上〉 (岩波文庫)

 
民主主義と教育〈下〉 (岩波文庫)

民主主義と教育〈下〉 (岩波文庫)

 

 

 

国家 上 (岩波文庫)

国家 上 (岩波文庫)

 
国家 上 (岩波文庫)

国家 上 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

  • 作者:プラトン
  • 発売日: 1979/06/18
  • メディア: 文庫