まっすぐにいこう

けいぞくはちからなり

海外の料理番組で見える、日本人のいいところと悪いところ

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そもそも何がよくて、何が悪いのか。

そういうことは抜きにして、海外の料理番組を見たときに、海外と日本の文化の違いが如実に現れていて、思わず笑ってしまった。

夫がオーストラリアにいたときによくテレビで見てた、と言っていたので、よく調べていないけれど違う国でも放送されているのだろう。そもそも英語だったし。

後々調べてみると、あれは日テレのBSでの番組のようだ。タイトルはビルズキッチン。

 

もこずきっちん、絶対これぱくったやろ、っていう突っ込みは置いておいて、私達日本人の目線からすれば、もこずキッチンリアル外国人バージョン。ただし、もこずキッチンより尺は長いし、料理も1品だけでなく何品かつくる。

 

分け分からない食材がたくさん出てきても、背景が明らかに日本ではないから、気分としては世界の車窓からを見ているような、ある意味旅行番組の一つのようにみることができた。料理番組なのに。

 

衝撃をうけて、かつ海外と日本とここが違うよなーと思わず笑ってしまうポイントは多々あったのだが、一番衝撃だったのは、料理を失敗してしまった所をそのまま放送しているところだった。

 

生放送ではない。だから撮り直し、なんていくらでもできるだろうし、それができなくても編集の段階で切り貼りをうまいことやって、きれいな部分だけ見せれば良いのに。というか、もこずキッチンで「あ、ちょっと失敗しちゃった」とか絶対あり得ない。多分日本なら番組終了後クレームが来る。

 

でもビルズキッチンは、平気に結構見た感じ視聴者にも分かるレベルでの失敗を、失敗しちゃった、と写し、それをどうリカバリーするのか、そんなところまで放送してくれた。多分視聴者の中にも同じミスを犯す人がいるだろうから、そんなときにどうやってリカバリーすればいいのかまで放送してくれていると思えばとても親切だ。

というか、趣旨が見ている人が料理したくなる、真似したくなる、さらに真似したときに失敗してもリカバリーできるよってところまで伝えたいのであれば、このハプニングは美味しい。

 

しかし日本ではそういう失敗は隠すし、そもそも趣旨の中にリカバリーするときのことという部分が入っているのかどうか怪しい。リカバリー云々以前に、失敗なんてあり得ない、という強迫観念が埋め込まれているようだ。

 

何がよくて何が悪いか、なんていうところまで議論しようとは思わないけど、そんな強迫観念だらけの世界で生きていたら、そりゃ自殺者も多いよな、と思ったり。

 

 

 

 

真夜中のホールケーキ

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真夜中のホールケーキ

名実ともに、なんとも甘い響きであろうか。甘さの裏に隠された罪悪感は、食べれば食べるほど感じるのだろう。朝日が昇る頃には罪悪感が勝つか、満足感が勝つのか、それは食べてみなければ分からないのだ。

 

真夜中のホールケーキは1人で食べると大抵罪悪感に苛まれる。

それがどんなに高いケーキであっても、逆に安いケーキであってもだ。

 

高いケーキだと、美味しいのだけれどやっぱり途中で満腹になる。よほどの大食漢でない限り、確実に満腹になる。種類にも寄るが、生クリームは腹の中でだんだんと増殖をするのではないかと思うくらいに、お腹はふくれる。

高くて美味しいと言えども、同じ味がホール丸ごと続くとやっぱり飽きる。様々な種類のフルーツがのっていても、凝った装飾が上にのっていても、土台は同じケーキなのだ。

 

安いケーキだと、取っておいて明日また食べようか、とも思える。時間が経って、多少味が落ちても最初がそこそこの安いケーキだ。そう思って朝日が昇ると途端に食欲が失せたりする。あれは何の魔法なのだろうか。

そしてやっぱり安いは安いなりなのだ。高いケーキよりも早く味に飽きる。味に魅了されることがないから、自分はこのホールケーキを独り占めして食べている、と目が満足して口には以外と入らないものだ。

 

もう一生ケーキを食べなくても大丈夫、とその場では思っても、何年か経ってふと夜中にケーキが食べたくなったりするのだから、真夜中のホールケーキの魔力は侮れない。

 

 

しかし、これが不思議なことに、適切な人数、メンバーで行うと、途端に罪悪感がどこかに消えていく。

あまりにも人数が増えてしまうと、ホールケーキの特別感は薄れてしまうのだけれども、2人、3人などホールケーキを食べるにしては少し少ないくらいの人数で、真夜中のホールケーキというイベントを開催してみると、思いのほか最後まで盛り上がる。

朝日が昇る前の暗がりの時間の中で簡潔するから、朝日を浴びる部屋の中でなんとも言えない悲しい気持ちになることもない。

さらにこの場合、安いケーキよりもやはり高いケーキの方が盛り上がる上に、高いケーキであればあるほど、何か自分たちが特別な祭り事をしたような気分になり、罪悪感がどんどん消えていく。

ホール1万円のケーキを、とても中の良い3人でむさぼり食いながら、おしゃべりだったりゲームをしたりする。最高だ。

次の日に運動もしくはエステの予定なんか入れておいたらもうそれは最高に贅沢なイベントに早変わりする。

 

真夜中のホールケーキは、1人でやる魔力もなかなかに強いのだが、2人、3人でやるくらいが一番魔力を感じつつ罪悪感という、魔法の反動を受けにくい。

そんなことを考えながら、この真夜中のホールケーキの魔術は何かに似ていると考え始めた。そう、3人寄れば文殊の知恵、と何かが似ている。

何かを始めるとき、それは例えば何かプロジェクトだったり、同好会だったり、新規事業だったり、そういったものと似ている気がしてならない。

罪悪感はリスクなのだ。人数が多ければそれだけリスクは分散されるけれど、多すぎるとリスク以外の利益も考え方も分散されすぎて、目的は達成されない。

 

ああ、真夜中のホールケーキは新規事業ビジネスと同じだった。

 

 

キルフェボンのホームページを夜中に見ると、こんなことばっかり考えてしまっていけない。

9.11で検索してしまった

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16年も経つと、テレビのニュースでは扱わなくなるのだろうか。国内の出来事ならまだしも、海外での出来事だからだろうか。現場にいなくとも、当時生きていた人間としての視点としては、あの件でアメリカという国がどんどん変わっていったなー。節目だなー。と感じるのだが。

 

50年、100年と経ったときに、やっぱり大きな事件で、年号と事件名を覚えておくように歴史の授業で取り上げられそうなないような気がするんだけどな。

 

あの件があったからこそ、戦争は起きたし、しかもまだ続いているようなもんだ。日本にいながら、あんなに戦争に賛成する人って世界にいるんだ、と驚いた記憶もある。日本にいると、とにかく戦争は悲惨で苦しいものだと感じる。

戦争によって科学が進歩し、生活が豊かになったという事実があったとしても、じゃあ生活を豊かにするために戦争を選択したくなるかというと、そういう気持ちはわいてこない。

 

それは過去のことであり、未来はまだ選べるのだから、それならできるだけ苦しむ人が少ない道を取りたい。少ないだけでは足りないのかもしれない。0に近い。それが一番最適な解なのかもしれない。

 

誰かに支配されたことのない人は分からないかもしれない。けれども、親だったり、学校の先輩、場合によっては同級生、職場の上司だったりに支配されたことのある人は、きっと切に感じる人が多いのではないだろうか。誰かの権利を勝手に侵す権利は、誰ももっていない。誰もが尊重されて生きる世界がいい、と。

 

 

世界史資料集が捨てられない理由

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高校のときに学校に指定されていて購入した、世界史の資料集が未だに捨てられない。情報だってもう古いし、気に入っているならば買い替えた方が絶対良いのに、捨てられない。

ミニマリストがそばにいたら、速攻捨てた方がいいよって言われちゃいそうなくらい、多分役に立ってなんかいないのに、捨てられないのだ。

 

じゃあ全然読まない、見ないのかというとそうでもない。最近は海外旅行から帰ってくると、真剣に読み始める。

そして現代との史実のズレがないか、ネットでも検索して確認をする。という行動を繰り返している。

 

 

海外に旅行に行くと、自分が行ったその地域についていかに無知だったか知らされる。言葉は大して知らないし、向こうの歴史にも詳しくない。なんなら日本に来たことがない現地の人の方が日本に詳しい場合もある。

日本語の単語を私が現地の単語を知っている数とは比べ物にならないくらい言える。加えてなぜか、徳川家康を知っていたり、豊臣秀吉を知っていたり、国にも寄るけれど東郷平八郎さんも有名人だ。

 

しかし私は彼の国の有名人を、誰1人として名前を間違えずに言うことができなかったのだ。

 

彼はあんなにも日本のことを知ってくれているのに、私は彼の国のことを何も知らない。実際に現地まで私は足を運んだのに。

 

と自分の知識量に悲しくなって、そして開くのが世界史の資料集だ。

 

確かあれのあそこらへんのページに載っていたはず、と振り返り始める。多分別の資料集じゃだめな理由はここにある。

 

私の世界とのつながりは、良くも悪くもこの資料集から始まっているのだ。世界の歴史を初めて知った、私にとって聖書のような存在で、どこにどんなことが書いてあったのか、センター試験前に死ぬほど読んだから、大体うっすらと潜在記憶に残っているようなのだ。

 

たとえその情報が間違っていても、スタートをこの資料集から始めると、とてもスムーズに調べものも進む。

 

高校のとき、世界史の先生はおっしゃっていた。

君たちは大人になったらきっと飛行機も今以上に安くなって、どこへでも行けるようになるから、本ではなく事実を見に実際に行動しなさい、と。そのきっかけにこの資料集はなるだろう、と。

 

いつかこの資料集が捨てられる日は来るのだろうか。

 

 

おばあちゃんのまんじゅう

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黄金色の稲が刈られて、秋が深くなると田舎では大抵収穫祭がやってくる。

その時期には木の実とかきのことかもいい感じに採れる時期で、お小遣いを切らした子どもはアケビのツルを探して歩き回る季節だ。

あんまり奥に行き過ぎないように、行き過ぎたときのために熊よけの鈴を腰につけて歩いたりもした。親からのお守りのようなものだった。

 

収穫祭の当日、こどもはたくさんのおやつをもらうことができる。かっぱえびせんみたいなスナック菓子は、ちょっと遠いスーパーまで親と車で一緒に行って、かつお小遣いも潤沢じゃないと買えない代物だったから、そういうおやつがもらえるこのお祭りは子どもにとって、天国のようなお祭りだった。

 

そしてこの時期になると、わたしのおばあちゃんは必ず私にまんじゅうやら芋堅干やらのお菓子をくれた。

この時期以外はお菓子をくれたことがなかったし、お小遣いも滅多にくれない、今時の孫をかわいがるおばあちゃんとはかけ離れたおばあちゃんだったけれども、秋の収穫祭の時期だけは、お祭りでお菓子を配る風習を知って知らずか、お菓子をくれた。

 

大抵もらって持ち帰って、母に報告した後にそのまま母に回収されて、ちょっとずつ食べていくことになるのだが、その日は違った。

 

収穫祭が近づくある日、私はおばあちゃんからまんじゅうをもらった。それも6個入りの箱でもらった。1個や2個ならともかく、6個でしかも箱入りとなると、これは親にすぐにでも一言報告しなければという気持ちになった。

 

箱を持っていくと、母は困った顔をしてそしていつものようにまんじゅうの箱を奥にしまおうとしていた。

しかし、6個入りの箱だ。私は一個くらい今食べても良いか、母に尋ねた。

 

「あんた、ずっと気がついていないみたいだけど、そろそろ言うわよ。おばあちゃんがくれるお菓子はいつも賞味期限切れだよ」

 

そういっておまんじゅうの箱を見せられた。賞味期限が2、3日切れてるぐらいなら別に構わない、そういう気概で見たのだけれども、なんと期限は1年前。

さすがに口にする勇気が出なかった。というか、箱を開ける勇気もわいてこなかった。

 

思えばいつももらったお菓子はすぐに母に渡していたので、後から食べることが多かった。小さい私がお菓子をもらって喜んでいる姿を見て、こっそり期限が切れていないお菓子と交換してくれていたようだ。

 

おばあちゃんは私が嫌いだったのだろうか。

 

賞味期限が切れているものを渡すなんて、どこの嫁姑いびりだ、と思うくらいには本を読んで知識を得ている年齢だった。

 

おばあちゃんが私のことが嫌いかどうかをそのままにしたまま、私は成長しておばあちゃんに会う暇もないくらいになった。

 

その間、おばあちゃんとお母さんが何か揉めているところなんて見たことがないし、おばあちゃんも特段会わなくなったからといって私に連絡を取ってくるようなこともなかったので、おばあちゃんは近くに住んでいるはずなのに、遠いところにいるような感覚で、私は育っていった。

 

そして大学を卒業する頃、おばあちゃんが亡くなった連絡を受けた。卒論で忙しい時期だった。実の祖母のはずだが、特別呼ばれず、メールで連絡が来た。

 

両親と祖母との確執はその後、話に聞いたが、おばあちゃんが孫の私にどんな感情をもっていたのかはよく分からない。あのおまんじゅうは1年の賞味期限が切れていたけれど、その場でもらって食べて、美味しいものもあった記憶がある。

本当にたまにだったけれども、お金をもらったこともある。

 

おばあちゃんは私のことがきらいだったのか。秋の収穫祭が近づいて、まんじゅうをみかけると、私はいつも思い出して、考えてしまう。

 

 

自分にできることと自分がやりたいこと

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自分にできることと自分がやりたいことは大抵一致する。

 

できないことをやりたいと思うとき、大抵は努力不足か実は自分が本当にやりたいと思っていないときである。

やりたいと心から思ったとき、人は楽しさで他のことを忘れる。やりたいことは何もかも忘れて本当に熱中ができるのだ。だからそこまで熱中できないときや、何かをあきらめるときは、本当は自分自身がやりたいことではなかったかもしれない、と思うことも必要だ。

 

そういう意味で人には限界がある。けれども、その分野で、という意味ではあっても、自分自身がやりたいと本当に思った分野ではその限界という言葉は、大抵あまり意味をなさない。

 

しかし、人間難しいもので何かができないとき、自分の努力不足や自分の能力値の低さ、元々才能がないことに落胆はしても、自分自身が本当にそれがやりたかったのか、と顧みることは少ないような気がする。

自分自身って結局どうだったのか。

案外、失敗して自分を知るってことは自分の身の丈を知ることに加えて、自分が本当に好きなことってなんだろ、って考えるきっかけにもなっているのかもしれない。

 

 

秋の風が吹いて恋は終わるものらしい

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一夏の恋、夏の間に出会った人と夏の間だけ付き合って、涼しくなる頃には分かれてしまう恋のことを言うらしい。

本当は二夏も三夏もずっと一緒にいられるのが幸せの象徴のようにみえるのだが、人間スリルを味わいたい生き物のようで、一夏きりという限りあるものの方が美しく感じるようだ。案外、一夏の恋の需要はかなり多いのかもしれない。

 

秋風が吹くと、熱が冷めるように恋も冷めるようだ。そういう意味で、秋風というのは冷静さを取り戻させてくれる、人間にとっての理性を取り戻させる風なのかもしれない。秋風が吹かないままの方が幸せを感じられるかもしれないから、秋風が人間に取って幸せにさせてくれる素晴らしい存在かどうかは分からないけれども。

 

南国の人の気質と北国の人の気質の違いも、そんな秋風の捉え方からきているのかもしれない。