くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

10月のまとめ

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10月も終わり、明日から11月が始まる。すると今年もあと二ヶ月だ。年をまたいだからなんだという話しでもあるんだけれど、やっぱり2017年中に自分がいけるところまで、できるところまで自分自身を高めたい。

 

やりたかったことたち

*読書…10冊達成(100冊まで残り26冊)

*映画…17本(100本まで残り35本)

洋書…手付かず

*トレーニング…週4、5日ペースでホットヨガとランニング

*文章…書き続けている

 

洋書が手付かず。なんだか読みたいのに読むのに時間がかかるせいか、手付かずになっている。

今年の大きなも目標でもある読書冊数と映画本数は順調。今月と来月に飛行機に乗る機会が何個かあるからそれもうまく使いたい。

トレーニングも続けられているけれど食欲の秋の成果なのか体重は大して落ちず。あと5kgは減量してマラソン大会に挑みたいから今月は本当にがんばろう。

 

最近自分という人間が退化しているように感じてならない。あの頃はもっと読めた。あの頃はもっと吸収できた。と思わざるを得ないくらい脳のスポンジ能力が低下している気がする。

やっぱり運動もそうだけど、続けることって大事なんだなあと改めて実感。今年、映画と本を読み始めて、ようやく読書量というか吸収する量が増えてきた。気がする。

 

 

黒染めを強要した教諭に心から感謝したい

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headlines.yahoo.co.jp

いつかの日記にも書いたけれど、私は地毛が茶色い。髪も日本人にしては細い方で、程よい染まり方だね、とよく言われるし、地毛です。と答えると羨ましがられる。

 

中学校は平和だった

物心ついた頃には良い色だね、と言われるようになった。だから中学校に入学するときには緊張した。少女マンガで髪を染めた子が怒られている絵はたくさんみてきたし、大抵の小説でも髪を染めている子は注意指導されるのが定番だ。

幸い緩い上に人数も少ない田舎の中学校だったせいか、最初の面談で地毛かどうか聞かれた後は特に何も言われなかった。小学校で水泳をやっていて塩素に使った髪に加えて、中学では外の部活に入ったら日に焼けてどんどん茶色くなった。

何かあったらお母さんが先生に言うから、という母の言葉は心強かったし、極力まじめに過ごすように心がけた。

勉強も部活も優等生で過ごした結果か、本当に何事もなく卒業した。

 

次の壁、高校では

高校もなんだかんだ平和だった。同じく外の部活に入ったから日に焼けて茶色くなっていったけれど。

勉強は中の中か調子がいい時で中の上。授業は真面目に受けて課題も真面目に出す。部活も熱心に取り組んだ。さらに読書好きで図書館に通い詰める。運動部員でなく文学系の部員に間違えられるくらい髪の毛以外の風貌は地味だったと思う。

入学当初に体育のちょっと厳しい女の先生が地毛かどうか聞いてきたり、担任の先生も確認をしてきたけれど、地毛だと答えてからは特に何も言われなくなった。

母はやっぱり、何か言われたら証言するわよ、と言ってくれていて、心強かった。

何事もなく三年間が過ぎ、無事卒業することができた。

 

そして大学生。事件はここで起きた。

高校を卒業したら、もはや髪の色が何色かなんて関係なくなると思っていた。大学にはたくさんの留学生。その子たちは金から赤までカラフルだったし、何より普通の日本人学生でシルバーとか緑とか青とか。教授も突っ込む様子もない。

就活が来ても、地毛の髪の色で落とすような会社は多分これから生き残れないし、本当に日本で就職できなかったら外国に行こう。くらいに思っていた。

中学、高校とこの地毛で大丈夫だったから、教員もアリかもしれない。

 

事件は一年生の夏に起きた。

教員免許を取るために、教育実習の事前プレのような学校研修授業があった。小学校、中学校へ直接授業を見学しに行って、レポートを提出する。

教育実習プレということで、多分服装とか、学校でのマナーとかを一年のうちから慣れさせようっていう授業だったんだと思う。これを取らないと単位は出ない。

事前に学校に行く前の注意事項説明会は至って普通だった。服装やメイクの注意等、就活セミナーを前倒ししているような感じだ。

特に中学校に関しては先方の校則に準じるために、染めている学生は地毛に戻すように通達された。

校則は原則、生徒が生徒総会で定めたものということで、生徒が決めたことはこちらも守って入りましょう、という趣旨だったと思う。

金髪だった友人は染め直しにいくお金がもったいないと、黒髪スプレーを頭にかけて当日は来た。若干不自然な感じはするけれど、黒いことに変わりはない。

ただ体には悪そうだ。

服装はリクルートスーツに黒い鞄。一年生にして就活準備はばっちりだ。

 

小学校では何事もなく無事終わったのだが、中学校はそういかなかった。

授業見学が終わり、最後の講話を聞くために大きな教室に移動する時、実習プレ担当の先生に私は呼び止められた。

他にも呼び止められたのか、集められている学生がいた。何十人もが一斉にみて移動している中で、いよいよ言われた。

「大学で指導があったはずなのに、その髪色はなんだ」と。

呼び止められたメンバーには明らかに染めたものをごまかしている子もいて、その子は神妙な顔で反省していた。

 

私は自信を持って言った。

「これは地毛です。両親に確認を取ってもらっても構いません。私は一度も染めたことがないです」

他にも同じような子が、私もです。と続いた。一人じゃない安心感も生まれた次の瞬間、全員が凍った。

「地毛でも関係ありません! 生徒の前で恥ずかしいですよ。次からは必ず黒く染めてきなさい!」

生徒に怒るのと同じくらい、大きな声で、同じように見学に参加した大勢の学生が歩く廊下で、中学生たちが見ている前で、怒られた。

私を含め、地毛と言っていた人達は言葉を失った。

そして申し訳ありません、と一言言って講話へと足をすすめた。

 

ショックだった。何を言われたかよりも先に、とても大勢の前で大きな声で怒られたことにまず驚いた。

これと様々な経験がついて、この先これくらいのことでは動揺しなくなるんだけれど、当時はとても動揺したことが記憶に残っている。

しかし、だんだんと冷静になればなるほど、頭の中が混乱してきた。

 

真面目にやっていても、私は中学校の先生になることができない。

真面目にやっていても、私は否定された。

 

アンクルトムの小屋も読んだし、シンドラーのリストも観たけれど、この事件の後からの方がマイノリティの痛みがすごく分かった気がした。

ただ何をする訳でもなく、ただ真面目に過ごしていても否定される。それも自分にはどうしようもないことで。

 

もちろん黒く染めることはできる。役者さんとか、それが必要な仕事でなりきるために仕事の一部となるのであれば、自分もやりたいと思うだろうし、多分納得できる。

けれども、本当に必要なのだろうか。

黒くなければ普通ではない。

黒くなければ教壇に立てない。

黒くなければ、優秀じゃない、というのだろうか。

 

今は落ち着いたが、当時はとても落ち込んだし、自分の将来について悩んだ。

そして日常からそういう目に晒されている人の強さを尊敬した。

 

そして先日、あのニュースが流れた。

女子高生が地毛を黒染めすることを強要されたことについて訴訟するという件だ。

 

タイトルから誤解されそうだけれど、私は女子高生には涙が出るほどに感謝するのと同時に、その教諭にも感謝したい気持ちがわいた。

 

差別やマイノリティの居心地の悪さ、というのは空気のようだからだ。

私は大学生に至るまで、自分の地毛がお墨付きを頂かないと生活できないことに対して、言葉にできない居心地の悪さは抱いていたけれど、分かりやすく攻撃してくる人はいなかった。

もちろんそれは幸せだったのだけれど、何か釈然としないものがあった。

マイノリティも認める判子を押したからはいどうぞ、と言われているようで、なんでお前の判子が必要なの?と言いたいような、でも相手が何の疑問も悪気も抱いていない、そんな状況だった。

許可が出て普通に生活ができてしまえばそりゃあ文句もない。平和だ。

でもそれでいいのかな、というひっかかりだけがずっとあった。

そして大学生になって、他の中学校に行って、初めて攻撃された。突然のことで、びっくりしただけで、私は戦わずに逃げてきたけれど。

その後は別の中学校で実習を無事に終えることができたし、職業として選ばなかったからそれ以上戦うこともなかった。

 

あの黒染めを強要した教諭は、私達が戦うためのお墨付きをくれたようにも思う。こんなにも分かりやすく。空気じゃなくて、ちゃんと存在させてくれた。問題を空気からちゃんと固形にしてくれた。

ありがとう。これでやっと戦える。問題が世間の俎上にやっとのった。

 

私は戦う女子高生に全力でエールを送りたい。

 

 

 

最近の悩み

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最近食欲がとても旺盛だ。

なぜだろう。驚くほど自分の胃の中に入っていく。

 

そして太った。

 

ああ、減量したいのに。太っている。

 

というのが最近の悩み。

 

こんなときは、丁寧に暮らしたくなる、丁寧にご飯を食べたくなる食堂かたつむり、とかかもめ食堂とかの本を読んで、それでもだめなら映画も見てっていう荒治療を始めるのだけれども、どれも効かない。

 

もっと刺激的なものに頼るしかなさそうだ。

 

 

運動した後の肉はおいしい

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世の中は台風、台風。先週もきたばかりなのに。

多分家にこもってお休みを過ごす人が多いのかもしれないし、ハロウィンに繰り出す準備をしているのかもしれない。

私は台風接近に負けず、午前中だけ天気が持ちそうかも、という希望にかけて、茨城の霞ヶ浦を自転車で走ってきた。

 

いつものごとく、写真は取り忘れそうになったけれど、久しぶりに会う友達との写真だけ撮った。

 

一周は午前中だけで走れる自信がなかったので、道の駅たまつくりから、橋を渡って戻ってくるミニ霞ヶ浦

ずっと天気はもってくれて、思いのほか気持ちよく走ることができた。

久々に再会した友人も新しいパートナー(ロードバイク)を手に入れていた。まさかの同じ車種、色違い。

ロードバイクシクロクロスか迷った辺りも一緒で、やっぱり友人は大切にしたい。うん。

 

ミニ霞ヶ浦コースは途中、砂利になるところもあったけれど、回避にちょうどいいコースもあってのでストレスなく走ることができた。

多分これから舗装していくんだろうけど、ちょうどいい迂回路の看板くらい出してもらえると親切だったのになあ、とは思う。

途中、抜け道に地元の人が使っているようで普通車もすれ違ったり後ろから来たりしたけれど、そこまで多くなかったのでストレスなく完走。

 

自転車を車に積んだあとにお昼ご飯に焼き肉食べて解散しました。

 

個人的には土浦駅の東から西に抜けるあの道路が下に降りられる場所がなくて本当にびびりました。

間違えてあの道入って、いつ降りられるの〜と思う人多分いっぱいいる気がする。

 

 

休日の過ごし方、あえて負荷をかけると心地いい睡眠が取れる法則ってあるよね

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今週のお題「休日の過ごし方」

 

休日とは何たるか。それは個人が自由に表現する場であって、誰かの指図を受けようと何の関係のない一日だ。もちろん他人に迷惑をかけない範囲内で。

ごろごろ休んでも良いし、それ休みじゃねえじゃんってくらい動き回っても良い。本人の体だろうが心だろうが両方だろうが、休まればそれは休日だ。

 

そんな私の休日にやりたいことは色々あるけれど、普段会わない友達と会う時間、に充てることが多い。普段、というのは平日とか職場以外、という意味だ。

「今度遊びに行くよ!」

という言葉を交わしたっきり、遊びに行っていない友達に会いに行く。遠い時は前々から計画を立てるけれど、中距離くらいならふらっと行って、同じ趣味を楽しんだり、おいしいものを食べたりする。

住んでいる場所が違うと、普段考えることも違っていて、それが新しい刺激にもなるし、特段そういう意図はないけれど、こいつ俺に、私にわざわざ会いにきてくれる、友達を大事にする奴なんだ、という印象にもなる。

もちろん相手の都合を考えずに押し掛けたらだめだ。

 

平日仕事の付き合いなんかで行った美味しいお店は、こういうときに役立ったりもする。久しぶりに会ってみたら、自分の仕事に関係する情報がぽろっと出てきたりもする。

やっぱり人間、人と人との間で生きていて、本当の意味で一人で行きていくってことはジャングルのターザンみたいな暮らしみたいなやつだとしたら、やっぱり人は大切にしたいし、友達も大事にしたい。

気疲れしないの?

とたまに聞かれるけど、気疲れしちゃう友達とはだんだん距離を置けば良い。親しき仲にも礼儀あり、というわけで、どっちかが疲れちゃうのはどっちか、もしくはどちらとも相手のことを一生懸命考えきれていない可能性が高い訳で、それは対等な友達関係ではないから、気疲れしなくなるまでは距離を置くのが個人的なマイルール。

 

というわけで、休日は人に会いにいく。

ほどほどに心も体も使うと、結構良く眠れて次の日元気なんだよね。

 

 

 

我が家の朝ご飯について

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お題「朝ごはん」

天気のいい朝も、天気が悪い朝も、元気な朝も、二日酔いの朝も、おいしい朝ご飯があると一日がとてもいい日になりそうな気分になるから不思議だ。

 

ダイエットでも朝は王様のように、昼は庶民、夜は乞食のような食事、が一番体への負担度合いもよく、エネルギーを効率的に使うことができるというし、何より夜、食べ過ぎないと本当に朝が気持ちいい。

たまの贅沢で夜に親しい仲間と深酒するのも楽しいんだけどね。

 

そんな我が家の最近の朝ごはんと言えば、白飯にみそ汁だ。たまにお弁当の余りの卵焼きやらウィンナーがつく。めかぶがつくときもある。

朝食は王様のように、とか語っておきながらいかにも平凡な朝だ。弁当の方が豪華かもしれない。

それも夕食と比べてしまえば我が家的には王様のご飯になる。

最近ダイエット……と言うには痩せ体質の夫の筋肉増力と脂肪分解のために、夜は炭水化物はほぼ取らず、大豆や鶏肉に野菜をふんだんに使ったスープのみのメニューだ。

お弁当におにぎりを多めに入れておいて、間食、おやつ代わりに夕方に食べてもらって糖を補給した後、夜遅くに腹に入れるものに米を混ぜると、結構朝が辛い。

というわけで具沢山スープが最近の定番だ。

 

だから朝ご飯が、とても美味しく感じる。なんだかんだで米はうまい。

空腹は最大の調味料、というか米を久しぶりに味わう感覚、と言えば良いのか。

我慢した分美味しくなる、的な法則で、我が家の朝ご飯は成り立っている。

みそ汁も私がジャガイモやら白菜やらきのこやらやたら具沢山にするのが好きなので、材料と朝食のラインナップを文字でつらつら並べると貧相に見えるけれど、実際目で見ると結構満足感が大きい。

 

という訳で、我が家の朝ご飯は、ご飯とみそ汁。

 

 

金持ちになりたい、を気に入られる言葉に直してみた

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日本で金、という言葉を出すと、意地汚い人、というような印象を持たれる場合がとても多い。

いや、コミュニティに寄るんだけれども。多分まんべんなく色んな人と付き合うと、お金の話しをするのはちょっと、と思うコミュニティの方が多いと思う。

もちろんそうじゃないコミュニティでそういう話しをすればいいんだろうけど、とにもかくにも、お金は悪魔かのように扱う人が多いのはなぜだろうか。

汚職だったり、金持ちが品行方正な使い方をしていなかったり。そんなニュースばかりが耳に入ってくるせいだろうか。

 

実際本物のお金持ちは本当に心がきれいだし、募金とかに突っ込む金額も半端ない上にとても世の中を良くしてくれている人が多い。ちょっとサイコパスな人もいないわけではないけれど、迷惑をかけている度合いと世の中に貢献している度合いをパーセンテージで出したら、多分どっこいどっこいか、世の中に貢献している度合いの方が高くなると思う。

 

実際なんじゃこいつって思うような人は成金が多い。あぶく銭のように稼いでいるから人間性も微妙だし、尊敬はできない。そしてそう言う人は世の中に迷惑をかけている度合いの方が高かったりもする。大体そのうち破産する。

 

税金をたくさん納めて政府や役所の仕事がきちんと回るように誰よりも貢献してくれているし、公共の図書館やスポーツセンターに回されている税金だって、もちろん自分が払う分も入っているけれど、金持ちたちはたくさん治めてくれている。そしてそれで公共の施設は回っている。

立派な公共室が日本はたくさんあるんだから、もっと金持ちに感謝をした方が委員じゃないか、金持ちの反乱が起きたら日本終わるわ、とか私は思っているんだけれど、どうにも金持ちに日本は厳しいし、冷たい。

納税額的にすでに厳しいのだから、世間からの視線くらい温かくしても良いはずなのに。

 

お金を稼げない人がなぜ稼げないのか、ザッカーバーグが貧乏になったからといって、貧乏な人の暮らしが良くなる訳ではない、とどこぞの経済学者はおっしゃっていた。

 

金持ちになりたい、を日本人にも受け入れられる言葉に直すとしたらどんなことばだろう。

 

役所機能を保全するために金を人より多く払っている人

スポーツセンターを200円で利用できるように金を治めてくれた人

たくさん納税をしてくれる人

 

金持ちになりたい、ではなく、高額納税者になりたい、と言った方が受け入れられるのかもしれない。

 

 

それって厳密には転社じゃないかと思った件について

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最近転職のCMがよく目につく。

新しい自分へ、とか自由とか、もっとできるはず、とか何となくかっこ良く見えるし、これまでのしがらみを捨てて飛び出した先にはキラキラした世界が待ってる設計の映像は、今モヤモヤしている多くの人の心に、このままでいいのだろうか、という問いを投げかけるのだろう。

ご多分に漏れず、私も第一印象はかっこいい、と思った。

 

人は多分、誰しもが潜在的に輝きたいと思っている。たとえ、自分なんか、と思っている人でも。むしろ、自分なんか、と思っている時点で、自分はこんなもんじゃないはずという感情が内包されていることの裏返しだと思う。

私も人に褒められたら嬉しいし、思った以上にできたら自分を褒めたい。それでいて報酬が多かったら嬉しいし、それは少なからず人生にいい影響を与えてくれるとも思う。

 

けれどもふと思ったのだ。転職、転職、と言って色んなCMが流れているけれど、人材系の会社が流すこのCMはとても限定された「転職」であり、むしろ「転社」に近いのではないかと。

 

◯転職、英語でなんて言う

日本語の意味合いに困ったら他国の言語で一旦見てみる。日本国民が一番長い時間をかけて勉強しているであろう、英語で見てみることにする。

英語だと、大体、a job change、もしくはChange of occupation

jobは大抵「仕事」を指す。workは作業的な意味合いが強くなるのかな。

語源について調べてもぱっとは出てこず。今度ネイティブに聞いてみようかな。色々見ていたら、旧約聖書に登場するヨブ(Job)と同じ綴りの単語であることが判明。ヨブは神から様々な過酷な試練を与えられながらも信仰を守ったらしいので、過酷なものに耐える、みたいな意味合いもあるのかな。

occupationは職業。医師、弁護士、教師などの専門てきな職に対して使われることが多いみたい。ただ、例文に農業も立派な職業だ、とあるので、幅は広そう。

 

ここまで来たところで日本の転職がどちらを指すか。多分、a job change だろう。

サラリーマンだった人が医者になる、とか教師になる、とかでも転職した、とは言うけれど、これはレアな転職例になる。

ほとんどの人の「転職した」は、会社から会社に移った、つまり求められる能力の変更というよりはやる内容の変更に近い。

 

◯当たり前だけど、転職市場とは転社市場

考えてみれば当たり前かもしれない。日本における、いわゆる会社員の数たるや。お金を使って転職してくれる、つまりお金を落とすお客様は、人材会社からみれば基本的にサラリーマンだったり人が欲しい会社であるのだから、会社から会社へ、という流れになる。

 

言葉って難しい。

 

 

毎年、なぜか寒くなるとショートカットにしたくなる

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人生の3分の2くらいはショートヘアだったけれども、今はこてこての、誰が見ても間違いのないロングヘアをしている。

伸ばし始めてから出会った人が今でも会う友達に多いから、突然髪を切ったら、多分驚かれる。

髪の毛は細くて薄い方だ。故に色素も薄く、染めたかのように柔らかい茶色をしている。大抵の日本人に羨ましがられる髪質だけれど、将来の薄毛が酷く心配だ。

水泳もやってたから塩素にも浸かっているし、外の部活だったから真夏の日光にもガンガン当たった。

夫には猫のようだ、と言われるくらい抜け毛も多い。自分の髪の毛のために掃除ロボットの購入を検討している。頻繁に掃除機をかけるのは地味に面倒だ。

 

そう、私は面倒くさがりだ。

面倒くさがりはショートヘアの人の方に多いと思われがちだが、ロングヘアにしてみてそれは違うことが分かった。

それはしてみて分かったことだから、きっかけではない。

 

きっかけは友人たちからの一言だった。

外での部活中に雨が降った。元々薄い髪にショートヘア。ぺたっとなって、遠目からは禿げて見えたらしい。本当にない人に失礼だけれど、まだまだ若い娘にとって、禿げて見えたの一言は結構堪えた。

絶対ロングヘアの方が似合うよ、と付け足された一言から髪を伸ばし始めた。

ロングヘアは面倒そうだけど、ハゲて見えると言われるくらいなら面倒くさい方をとる。このハゲーとは言われなかったけれど、まじで傷つくから、遊びで友達にそんなことを言っている人は今すぐ止めておいた方が良い。

 

私の場合は止めなくてよかったのかもしれないけれど、やっぱりその時のハゲが気になって、ずっと髪を伸ばし続けていた。

しかし、伸ばしてみるとなんということだろう。楽なのだ。

まず朝のセット。寝癖はほぼできにくい。というか、できたとしてもすべてまとめてお団子一つにまとめてしまえば隠れてしまう。

前髪の問題もあるけれど、そもそも短い髪の寝癖を直すよりも長い方を直す方が重力も手伝って楽だ。

また、ショートヘアの時はいちいちセットをきちんとする必要があったけれど、ロングヘアは結んでしまえばおしまいだ。面倒なことが嫌いで、楽を求めた結果、お団子にしかしない私の髪のセットは夫よりも早い。

そんな私の様子をみて、セットができない、というか面倒だと思う奴はショートにしてはだめだと思う、と一言。

学生の頃はショートヘアでセットを大してしてなくても部活で崩れるからいいかなって感じだけど、さすがに社会人になるとそうもいかない。

 

それくらい面倒なはずなのに、なぜか毎年切りたくなる。

それもみんなが髪を伸ばそうか、と思う。寒くなっていく時期に。

なぜだろうか。理由を考えてみた。

 

 

理由1 新年を新しい気持ちで迎えたい

冬が近づくということは、もうすぐ新しい年がやってくるということだ。毎年新年の朝刊には資格取得の広告が載るように、大抵の人は新しいことを始めたいと思っているはずだ。

そんな流れにのって、何か新しい自分を見てみたいと思う。その手っ取り早い方法が髪を切ることだ。

そんなことを考えているときに限って、着物にショートヘアの子がちょこんと髪飾りをつけている写真なんかを雑誌で見る。個人的に、着物姿のショートカットの子がちょこんとのせている髪飾り姿がとてもツボだ。一般的にロングヘアを上げてうなじを見せるのがセクシーだと分かっていても、自分の好みという物はあるもんだ。

着物なんて毎日着るもんじゃないし、一ヶ月もショートヘアで過ごしたら慣れて、寒いなって思うことが分かっているんだけど、懲りずに毎年考えてしまう。

 

理由2 直に首にマフラーを巻く感じの可愛さに憧れる

髪の短い女性がマフラーに埋もれている姿が最高に可愛く見える。直に首に巻き付いている分、温かそうにも見えるし、静電気にも悩まされなさそうだ。

なんだかんだ、マフラーに限らず、冬物のニットやセーターも、ショートヘアの方が着膨れしないで見えている気がする。

 

理由3 なんだかんだ、乾かすの早くて楽そう

夏場はロングヘアでもそこまで面倒ではない。秘技、扇風機とドライヤーの術を使えるからだ。ダブル使いをすると思っている以上に早く乾く。

けれども冬場はそれが使えない。故に時間がかかる。さらにせっかくシャワーを浴びてあったまったのに、ちょっと寒い洗面台の前で乾かすうちに足下が冷えてくる。冬場にロングヘアを乾かすのは本当に面倒なのだ。

 

 

そんなこんなで今年も盛大に悩んだ。

悩んだあげく、決めたことがある。これによって、私はあと数年は同じ悩みを抱えなくて済みそうだ。

今年は髪を切らない。

 

何を決めたか。そう、ヘアドネーションをすることを決めたのだ。

平たく言うと、髪の寄付だ。病気なんかで髪を失った子のウィッグになるらしい。31cm以上あれば一応規定には達するらしいが、やはり長い髪の寄付は少ないらしく、特にロングヘアを希望する子には50cmほどないと難しいらしい。(その子に合わせてそれをカットしていくから)

そして50cm以上の髪の寄付というのはかなり少ないとのこと。30cmは超えるくらいだったけれど、どうせ寄付するなら超ロングにしようと思った。

それぐらい伸ばしたら多分自分も切ろうと思えるし、そこからばっさりしたほうが気持ち良さそうだ。

自分のことしか考えていないような頭で、めちゃめちゃだと自分でも思うが、形はどうあれ伸ばして寄付したら誰かが喜んでくれるなら私は嬉しくなれる。

 

いつ切るか、なぜ切るか、が自分の中で腑に落ちてすっきり。切るタイミングは決まったのでそれまでロングを楽しもう。

 

 

ネガティブは本当に悪者なのか

 

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久しぶりに友人に会った。

という日記を書こうとすると、いつもネットワークやら新しい考え方(宗教と相手が言わなくても宗教の一種だと私は思っている。政党とかもある意味宗教だと思っている)を勧められた、みたいな記事になるけれど、別にそういう友達が多い訳ではない。

普通の友達に会った時は、特段日記に書こうと思うくらい肩肘張った頭の使い方をしていない、ただそれだけだと思う。

 

前にも久しぶりに友達に会った、で、日記を書いたな、と思って引っ張ってくる。

kuro-yan.hatenablog.com

 

そう。再び。久しぶりに友達に会った。以前とは別の友人で、こちらはまだ元気そうだ。しかしやけにテンションが高くなっている気がした。

 

何かを第六感で察知していたら、やっぱりきた。新しい考え方へのお誘いだ。

別にすべてがだめな訳ではない、と思う。

一度、地の底まで沈んで、どうしようもなくなったときに、最終手段として、接種して一旦生の淵にのし上がる、くらいの使い方はしても良いと思う。一種の薬みたいなもんだと思うけれど、一生使う薬ではないかな、とも思う。

 

とりあえず、元気な人に薬は進めないのと一緒で、元気な人にこういう勧誘しても仕方がないのにな、と思いつつ、話しはうんうんと聞いてきた。

 

曰く、常にポジティブにいることの重要性をとても強く説かれた。ネガティブをいかに追い出すか、自分がいかに追い出してきたのか、それを語る姿はどこかの魔王を討伐してきた勇者のようだった。

 

ネガティブが自分を支配しているとき、つまり魔王が自分の領域を支配している時は、それを食い止める必要がある。あまりにもネガティブになりすぎると、自分そのものを否定することになり、それは命の否定になってしまうからだ。

これは自分もその周りも幸福にすることはほぼない。ほぼというか、絶対あってほしくない。

支配されている時は抵抗手段として、超絶ポジティブになることはとても大事だ。ポジティブになりまくって、一旦追い出して、そして自分を平常運転できるように環境を整えることが大事だ。

そのとき、さきほどの強い薬の役割を果たす、新しい考え方、宗教は役に立ったりもする。

イエスマン、という映画があるけれど、まさにあんな感じ。最初は必要。

 

けれども、ネガティブはなくした方がいい、というのはまた違う話しだ。きちんと悲しめる、嫌だなあという気持ちを持つことができる、というのは自分の心を気持ちよくさせるために、大切なことだからだ。というのは精神科医の卵の友人の話しだ。

 

痛み、ということがとても分かりやすいかもしれない。

私達は怪我をすると、痛いと思う。膝を擦りむいたら、痛いから消毒をして絆創膏をはったりする。

けれども、痛みが分からなければ怪我に気がつかず、そのまま放置してしまう。放置された膝はどうなるか。運が悪ければ、ばい菌がはいって、足を悪くしてしまうかもしれない。

世の中には痛みが分からなくなる病もあると聞いた。痛みがないと、大けがをして出欠をしていても気がつかず、失血死をしてしまうこともあるそうだ。

 

ネガティブは心の中における痛い、という気持ちを代弁してくれる感情だ。これを捨ててしまったら、本当に大変な怪我をしたときに、自分で気がつくことができなくなる。

 

魔王が自分の心の中に侵入、支配していたら追い出した方が良いけれど、自分の領域を出て逃げ出した魔王を追いかけて殺そう、となると話しはまたちょっと変わってくる。

 

イエスマンでも、最初は自分を変えるために、極端に判断することは大事だけれど、いつまでもそれではいけない、と言っていた。

私達はポジティブにあるために生きている訳ではない。幸せになるためであって、ポジティブは手段の一つだ。

 

インサイドヘッドでも、カナシミはいらない感情のように扱われていたのが、最後にはとても大事な感情として歓迎される。

 

友達はネガティブを捨てきって、私にそれを勧めてきていたけれど、やっぱり私にはネガティブは捨てられない。

 

そのとき、話しを聞くばかりで勧め忘れてしまったけれど、私もこの二つの映画を勧めれば良かった。