くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

おひつが妻の方に置かれる問題。

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我が家には金色のネコがいる。

正確には金色のまんまるネコの貯金箱だ。

いくらぐらい入るのかは分からないけど、結構良い大きさで、1年間この中に小銭貯金を貯める。

貯めた小銭貯金は年始に二人のお年玉、として開けて、二人で数えて、そして旅行に行ったりちょっといいレストランで食事をしたりする。

大量の小銭を数えるのはなかなか楽しくて、世の中がデジタル通過が本流になっても続けたいな、と思ったりする。

 

今年の年始は二人のお年玉を使って温泉旅行に出かけた。

小さな温泉町だけど、とても素敵な旅館がある。と勧めてくれた旅館に泊まった。

 

温泉は何種類かあって充実していたし、家族風呂も混雑なく、当日でもすんなり予約が取れて文字通り、二人で満喫することができた。

夕食時になって、部屋のテーブルの上は地元の名物の酒の肴でいっぱいになった。二人でビールで乾杯して、湯葉やら地元の川魚を堪能した。

お酒が進んで食事も後半に差し掛かった頃、おひつが登場した。

お酒の後、鍋物が出来上がる頃にご飯が欲しい旨を伝えていたので、まさにベストタイミングだ。部屋のすぐ外、ドアのところから透視していたんじゃないかと思うくらい、ぴったりなタイミングだった。

 

そして例のごとく、おひつは私の側に置かれた。

 

これが最近、自分の界隈で話題になっている。なぜ旅館では、夫婦で行くとおひつが女性側に置かれるのかと。

外国だと、妻がお酒を夫につぐなんてマナー違反。娼婦の仕事だと思われているからだ。同じ要領で考えると、おひつが女性側に置かれることは、まじで?まじで?って感じなんだと思う。

 

まあ日本だし、文化だと思えばそれはそれでいいんじゃないかな、とも思うけれど、時代に合わせて変えた方が良いって思う人が多いところが、日本って感じもした。外国よりも案外柔軟かもしれない。

おひつだって、置かれた後はどうしようが自由だし。運んでくれた人も別にそこまでチェックして、違いますよ、とか言う訳でもないしね。

 

勧めてくれた友人は男一人で行ったから、多分自分で自分の分よそったか、最初のいっぱいくらいはよそってもらえたりしたのかな。

 

ひつが私側に運ばれたことは、むしろ私にとってはラッキーよ。

私が自分のを自分で好きな量、先によそって、その後に夫。

好きによそれるのは、よそう者の特権だ。

 

 

死にたくなったらSF映画を見た方がいいと思った理由

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日本は社会へのメッセージを投票ではなく自殺で表明する、と言った人がいた。何かの雑誌か、本の受け売りなのかは知らないけれど、なんとなく、的を得ているような気がした。

会社に対して抗議をする人は少ないけど、黙って辞める人は多い気がするし、学校にしてもそうかもしれない。徹底的に戦おうっていう気概よりも、触らぬ神に祟りなし。臭いものに蓋、そんな行動の方がよく目に付くのは私だけじゃないと思う。

 

人間、体が病気になることもあれば気が病気になることだってある。ドラゴンボールでも気のパワーっていうのがあって、敵にやられると気が小さくなっている!とかってピッコロとか悟空とかよく言ってるじゃんね。多分、同じ現象は私達の世界でも起きていて、体は元気だけどなんだかやる気がないとか、そういうのって気が弱まっているんだと思う。多分。

 

先日、たまたま気が弱まっているときに、SF映画をみた。スターウォーズだ。

もちろん好きな作品であるってこともあるんだけど、それだけではない元気とやる気が自分の中に充電されていくような感じがした。SF映画は基本的に未来の話だ。バックトゥーザヒューチャーみたいに、映画が設定していた時代を超えたものも多数あるけれど、基本的には超未来の話なので、自分が見たことないもの、想像できなかったものがたくさん詰まっている。

見終わる頃には、未来を見てみたい、つまり元気に生きていたい、という気持ちがあふれんばかりとなっていた。

 

あんな発明品、みてみたい。

あの乗り物、乗ってみたい。

もしも好きな漫画家とか作家がいて、シリーズものを読んでいる途中だとすれば、あのシリーズが終わるまでは私は死ねない、みたいな、そういう感覚に近いのかもしれない。

ワンピースが終わるまでは死ねない、とか。

それこそ私はスターウォーズが完結宣言されるまで死ねないかも。

 

ただし。人類破滅もののSFだけは避けた方が良い。達観してしまう。

 

そんな、死にたい気分のときにみても心穏やかに楽しめるSFがドラえもんだと思う。手塚治虫のマンガを読もうものなら、達観しすぎてしまう可能性がある。

 

よきSF映画ライフを送りたい。

 

 

 

寒くなるにつれて本屋さんや文房具屋さんに出かけるのが楽しくなるワケ

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この時期になると、本屋さんと文房具屋さんの密度が一気に濃くなる。そう、モノにあふれるのだ。実際、数値的にあふれているのかどうかはしらないけれど、春や夏よりもモノが多いように感じる。

 

ハロウィンの飾り付けに変装グッズの数々。キャンドルとかペナントみたいな部屋の装飾品。十月が終わった途端にこれは全てクリスマス仕様に変わって、何種類ものクリスマスツリーが飾られる。電飾と飾りにあふれて、それだけでもすごい数のモノだ。

 

これに加えて、本屋さんと文房具屋さんにあるのが、手帳だ。日本はあらゆるものが四月始まりなのに、手帳売り場は一月の方が豪華に見える。

なんだかんだ、一月始まりを買う人の方が多いのだろうか。

 

厳密には手帳は大体十二月くらいから始まっていたり、最近だと十一月とか十月とか。もっと前年の手帳を大事にした方がいいんじゃないかと思うんだけど。十月はまだ分かる。転勤が多い季節だし。けれど、9月始まりってどういった人にニーズがあるんだろうか。そんなに海外に留学する人が多いとは思えない。

 

手帳が置かれ始めると同時ににぎわうのが、手帳の使い方に関する雑誌や書籍だ。なんだろうか、あの魔力。

あの一冊に沿って、手帳を使えば次の一年がバラ色のようになりそうに思える魔法。実際には年が明けて二月、三月と月日が経つに連れて手帳に書き記す内容はシンプルになって、前年の自分と大して変わらない書き方に戻るんだけどね。

色づけしてかわいくするなんて、多分図画工作とか美術が好きだった人の特権で、それに食いつくのは、図画工作や美術の時間に、上手な子の作品が素敵でそれをちょっとパクリだと言われない程度に真似していた子だったんじゃないだろうか、と思う。

自分も含めて。

そう、何を隠そう自分も色づけやら日記やら、日々の記録を手帳にかわいく、おしゃれに書き込んでいた過去がある。実際にそれができたのは高校生の時だけだった。確か勉強の記録を書いていた気がする。

事細かに、ローマの皇帝の変遷とか、生き物の解剖図とか一日一ページの手帳に記していたけれど、だんだん面倒になり、最後は先生に聞きたいことリストをシャープペンシルで記入するだけとなっていったのは懐かしい思い出だ。

 

大学生になって、一日一ページが向いていないことに気がついて、マンスリーをつかったり、足りないと思ってウィークリーを使ったり、やっぱり多いと思って今度は大きめのマンスリーを買ってみたり。

試行錯誤の四年間だった。

一日一ページさえ書けないし、ウィークリーはさぼりがちだったけれども、マンスリーの部分を見ると、一日とて空白のない、かなり充実した四年間にはなった。

手帳様々なのか、自分の行動力の賜物なのかはもはや分からない。

けれども、手帳で変わる、系の本は立ち読みはさらっとすれど、購入してじっくり読むことはなかった。

 

社会人になると、手帳はすっからかんになった。

予定はあるけれど、スマホのカレンダーに記入するようになった。仕事中の予定は勤務先内で使う予定表に全て記入していたから問題なかった。

 

結婚してからは二人で書き込めるカレンダーアプリを使い始めた。ここで手帳がもう入らないことに気がついた。

メモ帳だけは持ち歩いて、手帳はスマホ。充電切れたら見れないじゃん、というけれど、充電が切れたらカレンダーを見る以上に困ることが多いので、充電を切らさないように気をつける。

 

そして手帳が自分から離れてみて、はじめて自分が手帳に書き込みたいことが分かった気がする。

私が手帳に書き込みたいことは次のことだった。

 

1.1年間のやりたいことリスト(夢リスト)

1年のはじめに、どんなにぶっ飛んでいても良いから、人生でやりたいことリスト100を作るようにしている。100万円のワインを飲んでみたい、とかゾウ乗りの免許を取りたい、とか、やるかどうかは別としてやってみたいことを書き連ねる。

意外と毎年少しずつ変わるもんで、自分の価値観の変化を感じることができるし、4、5、6月あたりとかで中だるみをしたり、何をしたら良いか分からなくなったときに見直したりすると、100こあるうちのいくつかくらいはそのときに実行できることだったりする。

そして1年をふりかえると、半分とまでは行かなくても四分の1くらいは達成されてたりするんだから面白い。ある意味、夢の予定なんだと思う。

 

2.達成したいことに対する、月々の行動目標

教養をつけたいが、その年の目標だとしたら、じゃあ年間を通して達成のために何をしますか、が行動目標。この行動目標を月々くらいまで数字で落とす。そうすると、今月こんなことをすればいいのか、という自分の行動指針になる。そうすると、とりあえず暇で何をしたら良いか分からない時間、というものがなくなる。

全ての時間が自分にとって意味のあるものになるから、これすごく自分にとって大事。

 

3.月のものが来た時のしるし

案外これ大事。アプリもいいけど、予定を立てるときにうっかり温泉に行く計画とこれをかぶらせようものなら、まじオワタ。になる。悲しくならないように、本当は夫婦共有のカレンダーにでも記録したいけれど、仕様上年間を通してどんな動きだったのかとかは見直しにくい。紙の方が見やすい上に、予測が立てやすい。

 

今年一年は手帳をお休みした私だけれど、なくして一年過ごしたことで、自分が本当に何が書きたいか分かった気がする。

さて、こんな自分にはどんな手帳が合うのかな。

週末、ちょっと下見に行こうかな。

 

 

 

日本で一番、観光案内所が冷たい街なのに

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数年に一度はなぜか京都に行きたくなる。

生まれも育ちも京都から遠く離れた場所で、元々の縁もゆかりもないはずなのに。

 

私が京都に惹かれたのは高校一年生の時だったと思う。古典を読めば読むほど、その中心となる京都という街がとても気になった。

少女マンガやドラマをみて東京に憧れを持つ感覚と似ていたのかもしれない。周囲が夜のドラマにはまって、東京で働く女や主婦が描かれた世界に憧れるように、私は京都で生きた女性たちに憧れた。

 

初めての京都は色鮮やかで、目が離せないくらい夢中になった絵画に閉じ込められたような、そんな気分になった。

 

次の年にも京都に行った。一人で行った。

ついでに初めての一人旅だった。

前に来た時とは違った風景が見えた。前は色が鮮やかだった記憶しかないのだけれど、このときは木の香りが強く鼻に残った。

 

そこから間を空けて、二年後にまた行った。また一人だった。大阪をめぐった友達は先に帰り、京都には一人で行ったのだ。

2回目の一人の京都では、恋占いをしたのを覚えている。

1回目は大吉で、その半年後に一度もデートをしなかった、彼氏とカウントできるか怪しい彼氏と別れた。

 

2回目も大吉だったけれど、期待はしないことにした。もしかしたら、大吉しか入っていないのかもしれない。

 

3回目はそのまた三年後、友達に会いにきた。

その後一人で歩く京都はまた新しかった。結婚もして、心が穏やかだったせいもあるかもしれない。

神社を歩くスピードも、ゆっくりになった。

 

そしてまた、京都に行きたくなっている。

何度行っても全国で一番、観光案内所が冷たくて、正直おもてなしは微妙だと思っている街だけれど。

 

 

ルールはつくってもいいけれど縛られては意味がない

 

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お題「マイルール」

生活を積み重ねていくと、自然とこういうときはこう、というルールができあがる。気がつけばそれは自分だけの自分が守るルールになっていて、それは自分が自分らしくいられるような手伝いをしてくれる。

けれどもたまに、必要以上に自分を縛り付けたりもする。自分で作ったルールなのに。

だから、どんなルールがあったか、少し自分を見つめ直してみようと思う。

 

マイルール1:人の話しは最後まで聞く

途中で会話を止めないで、相手が話したいと思うがままに話す様子を止めない。話しを聞いて欲しいのか、意見が欲しくて話しているのかを、聞きながら考えることも忘れない。

 

マイルール2:好きなものを食べる

無理な減量はしない。自分が一番素敵に見えるのは、好きなものを好きなだけ食べて、幸せに浸る時だと思うから。ただし、自分の心の声だけでなく体の声もしっかり聞くのは怠らない。心は良くても、体は求めていないもの、量は口にしない。

 

マイルール3:友達や家族を大切にする

お金がなくても信用があれば大丈夫。もともとお金は信用だったから。私がみんなを必要としていて、私もみんなにとって必要、もとい大切な存在になっていれば、人生大概なんとかなる。

 

マイルール4:人に押し付けない

これが自分の中で一番大事にしているかもしれない。自分なりのマイルールも含めて、価値観や意見を誰かに何かを押し付けることはしない。その人自身が考えて答えを出すことに一番意味があると思うから。

 

自分なりのマイルール。きっとこれからも少しずつ、増えたり減ったりするかもしれないけれど、ルールに縛られないように生きていきたい。

 

 

 

 

行ってみたい場所はただ一つ

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今週のお題「行ってみたい場所」

 

高校生の時、世界史の資料集はどんな旅行ガイドブックよりも魅力的な本だった。不思議な遺跡の数々。建築の巨匠達が建てた教会や宮殿。いつ、だれが作ったのかも分からない不思議な建造物。

1、2枚の写真では物足りなくて、インターネットで検索しては現地に行って生でみることを夢見た。いつか大人になったら行きたい。

 

大人になって、時間をやりくりしてはあのスーパーガイドブックに書いてあった場所を巡るけれど、まだまだ行ききれていない。そういう意味での行ってみたい場所はたくさんある。

インドでタージマハルは絶対にみたいし、香辛料がずらりと並んでいる風景も見てみたい。スペインに行ったらアルハンブラ宮殿に行きたいし、生のパエリアが作られる様子と作る人の姿も見に行きたい。ナスカの地上絵も見に行きたいし、マチュピチュ遺跡も行ってみたい。

けれどもこれらはきっとこの先、私が行動を起こせば行けるはずだ。第三次世界大戦でも起きない限り、世界は自由に歩けるし、自分が思っている以上に行きたいと思った場所には結構すぐにいけるもんだということも、大人になるまでの間に学んだ。

 

けれども、そうではなくて、ガイドブックはもちろんなくて、前情報もないけれど、そんな事前の知識とか関係なく、ただただ好奇心で行ってみたい場所はあるだろうか、と考える。

 

 

一つだけあった。それは宇宙だ。

宇宙に行ってみたい。とてつもない金額のお金をかければ、今でも大気圏辺りまで民間人が行けるようだけれども、そういうんじゃなくて、月とかに行ってみたい。

地球ではない土をふむというのはどういう感覚なのだろうか。

 

残念ながら、宇宙の知識にも乏しいしそれを仕事にできるくらいの情熱はない私ができることは、きちんと納税をすることと、世界ができるだけ平和にいられるように知識を身につけること、そしておばあさんになるまで体力を落とさないように自分を鍛え続けることだ。

長生きすれば、火星にも行けるようになるかもしれない。孫に敬老の日のプレゼント何が良い?って聞かれたら、火星旅行!って即答できるように、自分自身の健康寿命は延ばしておきたい。

 

というわけで、私の行ってみたい場所は、宇宙。

 

 

7年寝かせた本を読んだ

 

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私は本を読むことが好きだ。

高校生の時は本を読みすぎて受験勉強ができなくなると思って、自分に読書禁止令と図書館禁止令を出して受験生を乗り切った。

体育会系の道を歩んできたのに読書量は文芸部員と会話で盛り上がれるくらいには読んでいた。

 

そんな私には、この本を読みきっちゃったらもったいない、と思っている本がいくつかある。読む前から、絶対に面白いから、とっておきの時間までとっておこう。読むときには快適な室温、クッション、等環境を整えて、さらに時間に余裕がある連休に、読んだ後の感傷にも浸れるようにとっておきの時間を用意して、というここまで手を入れて、読みたいと思っている本がある。

 

そのうちの一冊をついに今日解禁した。発刊から7年。ついにだ。

作家からみたら早く読んでくれよ、って感じかもしれないが、私としては最高の環境を整えて読みたかった一冊だった。

 

それがこちら。上橋菜穂子先生の獣の奏者、外伝だ。

 

本編は登場するごとに読み進めてきた。その後アニメもみた。

そして満を持して、今日外伝を読んだ。

 

読んだ感想はといえば、7年寝かせたかいがあったというもの。

熟成されて、とてもよかった。

7年前だったら多分自分自身が未熟過ぎて、このよさが分からなかったと本気で思う。

 

ああ読んでよかった。

 

 

 

ついに夫も引きずり込んだ

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今週から私はホットヨガにはまった。もう最高だ。

そして今日は夫も引きずりこんで、一緒に行った。元々何か誘って嫌がったりする夫ではないし、むしろ初めてのことに積極的な夫だったから、引きずり込むまでもなく一緒に行ってくれた。

 

しかし結果、夫もホットヨガにはまった。

よっぽどよかったらしい。

しばらく二人で通うことになりそうだ。

 

私の股関節はまだ固い。

ちなみに夫より固い。

悔しい。

 

 

ホットヨガにはまった

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旅行続きで気がつけば体重が4kgも増えていた。去年は体調不良も重なってゆるゆるだったお気に入りパンツがきつい....

体重が増えると服がきつくなることよりも嫌なことがある。それは脳がぼやけて、体の動きもにぶくなることだ。

適正体重より少し増えると、生産量は本当に減る。逆に適正体重もしくは少し少ないくらいだと、時間辺りの生産量がとても多くて、仕事が捗って自分の心の健康にはとてもいい。多分体の健康にもいい。

 

今回ただ旅行に行っただけでなく、途中実家に寄ったことも大いに影響している気がした。父や母というのはいつまでも娘という存在に対して多分な栄養を与えたくなるものらしい。子を宿して戻ろうものなら、すぐに妊娠中毒にならないよう気をつけなきゃな、と心の内で思った。

 

そんなこんなで私の体重は意図せず4kgも増えてしまった。なんとかこれを減量せねば。普段のジムでのランニング量も増やすし、しばらくお酒は控えよう。

 

けれどもこれを機会にもう一つ、自分自身を健康に維持する習慣を身につけたい。そう思ったとき、普段ジムでランニングマシーンに乗るばかりでプログラムなるものに一度も参加したことがないことに気がついた。

同じ月の会費を払うなら、もっと活用した方が良い。

トライアスロンのためにプールがあるジムを選んだけれど、いろんなスタジオでヨガやらエアロビクスやら、楽しそうなことをたくさんやっているではないか。

 

そして私は入会時から気になっていたホットヨガに挑戦することに決めた。

開脚からの体が床に着くくらいには体は柔らかい部分もあるのに、こと股関節に関してはその辺りのオヤジより固い。女性は他の部分は固くても股関節はみんな柔らかかったりして、密かに自分のコンプレックスでもあった。

そんな固い股関節を柔らかくしたい→ヨガやってみよう→ホットヨガやってみよう

というなんとも短絡的な思考のもとで始めてみたけれど、これがとても気持ちがいい。効果はまだ実感できるほど続けている訳ではないけれど、はまりすぎて今週は毎日参加してしまった。

今週だけではなく、来週も参加したい。毎日となると息切れするから、せめて週一でも。でもあの気持ちよさ、しばらく病み付きになりそう。

 

 

いらないものリストについて考える

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最近、ミニマリスト界隈では「いらないものリスト」というものが流行っているらしい。本棚は本に溢れているし、生きてきた中で溜め込んだ書類を整理できていない、そんなミニマリストですとは言えない生活を送る私だけれど、これは必要ないと思った者について、メモしておこう。

 

私にとって必要のなかったもの1:食器棚

これを手放したのは意外と最近のことだった。一人暮らしから二人暮らしになったのに、その時よりも広いおうちに引っ越しをしたのに、食器棚は手放した。

普通に考えたら、一人暮らしの時の方が必要なくて、二人になったら食器の数が増えてこれまでよりも必要品になるかと思いきや、その圧迫感から解放されたくて手放した。電子レンジも炊飯器も手に残したまま、工夫をしたら、万能だった食器棚はさよならとなった。

ホームパーティーが好きな我が家は、以前より食器もグラスもカトラリーも増えたけれど、それでも食器棚が必要だとは思わない。シンク下に、木材でしきりを作って、隠れたお気に入りの食器置き場が今はある。

電子レンジはカラーボックスと板を組み合わせて作ったキッチンカウンター圏作業場に収まって、炊飯器はシンクとなりに新たに置いた、コンパクトな棚の上に収まっている。

 

私にとって必要のなかったもの2:ベット

一人暮らしのとき、大切にしていたものの一つがベットだった。ソファ代わりにもしていたし、寝転がって読書をするにもとても重宝した。

結婚後、彼が布団派だったことから一緒に布団派に。後から聞くには、布団派だったかというとそういうわけでもなく、ただ単にベットを買うのが面倒だと思ったことと、引っ越しのときに運ぶのも面倒になりそうだから買わなかった、とのこと。

当初より広いおうちに引っ越してから、ベットへの変更案も出たけれど、今となっては布団への愛着もわいてそのまま布団生活実行中。

上げ下げが楽で、湿度の高い日本だと布団が一番保守点検しやすいのよね。あと実は布団を二枚並べるのって、キングサイズのベットと同じくらいのサイズがあると聞いて、広々と寝たい気持ちが一致した私達はそのまま布団生活へ。

使う頻度の少ない客間にはクイーンサイズのベットを一つ置いて、ホームパーティ時に終電を逃した友人を泊めている。たまにベットに寝たくなったときに二人で使っている。頻度が少ないからお手入れも、ベットリネンの交換も自分の思うようにできるし、定番のマットレスのカビ、にも悩まされずに済んでいる。

 

私にとって必要のなかったもの3:衣替えが必要なほどの量の服

寒いところに住んでいたときは驚くほどの衣類を持っていた。重ね着するために肌着もたくさんもっていた。

それ以外にも、ぱっと見て素敵だなと思った服は買っていた。

けれど気がついたのだ。自分はファッションにそれほど強い興味もないし、小綺麗な格好が毎日できていれば、毎日同じような格好をしていても、対して問題でもないってことに。そもそも、毎日ファッションを考えることは私にとってとてもすごい楽しみというわけでもない。たまに洋服屋で考えるのは楽しいけれど、毎日は考えたくない私は、ワードロープをスティーブジョブズ並にシンプルにして、その決断力を違う場面に使った方がいい、ということにも気がついた。

衣替えも正直面倒くさい。今はそんなに寒い地方に住んでいる訳ではないけれど、真冬の北欧に旅行に行けて、常夏のは話にも遊びに行ける洋服はそろえた上で、衣替えをしなくて済む服の量に調節することができた。

ときめかない服というものほど、自分のテンションを下げるモノはないね。

 

 

今のところ大きいものでは3つあった。モノと向き合うと、自分の心の状態がなんとなくみえる。書類が片付かない私は、いったいいつになったらこの大量の書類と向き合えるのだろう。

ダンボール二箱分も捨てたのに。