この世でおいしいご飯とはなんだろうか。
小さい頃は、お母さんと我が家では料理好きなお父さんが作る料理が最高に美味しくて、外で遊び回ってお腹を空かせて家に帰った後のご飯が最高だと思ってた。
学生の頃は何を食べていても楽しい仲間と一緒だととても美味しかった。
そして社会人になってからは、初めての東京で年上の夫に引っ張られるままに色々なおいしいを経験した。
ちょっと節約して日々の食事を抑えれば、銀座で回らない寿司食べられることが分かったし、高級なホテルのバーで飲むこともできる。友達が増えると、一見さんお断りのお店に入れる機会もゲットした。
最近よく聞く港区女子と呼ばれる彼女たちが、その美貌を持って港区界隈を闊歩する男たちにつれてってもらうようなレストランは、もちろん美味しい。
けれども、色々食べて思ったのだ。本当に旨いものは他にもある、ということを。
料理はその単品で美味しいと嬉しいけれど、他の要素もたくさんある。
一緒に食べる空気、ちょっと飲む水。食器を洗っている水。
量。そして一緒に食べる仲間。他にも色々あるけれど、料理そのもの以外の要素も、美味しく感じるための要素として確固たる地位を築いている。
とはいえやっぱり東京で食べると技がある店が多い。茶碗蒸しやお吸い物は確実に東京で食べる方が美味しい。
でも原材料に近いような物を食べるときは、その地方に行った方が美味しいし、もちろん安い。それに、本当に美味しいものというのは実は地元で食べ尽くされてしまって東京には出回らないこともある。
それから、私が生まれ育った場所は空気も水も美味しい。そして米もうまい。米は米だけで食べることができる、というのが当たり前で育った私は、毎日のように高級な物を食べている港区女子たちよりも、もしかしたら舌が肥えているのかもしれない。
さらに大勢で食べると美味しいマジック、が料理には存在する。
その代表だと私が思っているのは餅だ。特につきたてホカホカの餅は、みんなでよいしょーってついて大量につくる美味しさと、みんなで食べるからこその美味しさの相乗効果で最高級品のように思える。季節柄の寒さ、というのも美味しさを後押ししているだろう。
餅のような料理を見ると、私は思う。この世でおいしいご飯という物は何なのか。インスタとかFacebookとかのSNSに振り回されないよう、これからもその場のおいしいをちゃんと感じて生きていきたい、と思う。