くろやんの日記

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『国家』第10巻「芸術模倣説」「詩人追放論」を読んで考えさせられたやりたい仕事について

 

1年くらいかけて、プラトンの『国家』 をじっくり読んできたのですが、ついに本日最終巻10巻を読み終わりました。

全体を通しての感想はじっくりノートにまとめられたら文章化したいなと思っていますが、一先ず色々本編が終わった後の補足的な10巻がなかなか面白いテーマだったので日記にまとめておきたいと思います。

 

「芸術模倣論」と「詩人追放論」

10巻で語られている芸術と詩人の話について、一般的に「芸術模倣論」「詩人追放論」と言うようです。どんな話かと言うと、

まず9巻まででプラトンは議論する為の「国家」を建築するのですが、(どんな人が住んでいて、どんな統治者がいて、どんな自治を行っているのか、という小説でいう状況設定みたいなことをしています)その「国家」において詩人は追放する(いらない!)という話です。

なんで追放するのかというと、詩人は真似をする人であって本質的なことを国家にもたらさないから、というふうに私は読み取りました。

プラトンは寝椅子を例にして、

神様→寝椅子のイデア(大元となる実相)を1つつくる

大工→寝椅子をつくる(イデアを元に使える寝椅子をいくつでもつくる)

画家(=詩人)→寝椅子の見た目だけを真似したものを描く

としてます。

この詩人は、我々を楽しませてくれる(=快を与えてくれる)ことは分かっているけれど、有益であることが証明できない

→なので詩人は国家から追放する

という話でした。

 

模倣に関わる仕事orイデアに関わる仕事

プラトン的には、模倣ではない、イデアから直接ひっぱってくる事柄だけが仕事と見なされるようですが、現代社会においては模倣的な仕事はたくさんあります。(そして多くの人が快を得て、生活を潤わせています)

私自身も模倣から快を得ることはたくさんありますし、不要だとは思っていません。むしろ生活が便利に、豊かになった現在、そういう仕事が次の人間をつくっていくだろう、という論も一定納得しています。(そういう仕事が向いている人もたくさんいると思います)

でも自分自身はどうか、ということについて振り返ると、イデアから直接ひっぱってくるようなことが好きなのかも、ということに気がつきました。

映画や絵、小説はそれ自体大好きだけれど、それ自体で食べていくことはどうしてもイメージがわかない。たとえそれで食べていける能力や才能があったとしても、もう1つ、プラトン的に言えばイデアから引っ張ってくるような仕事もやりたいと思っている自分がいることに気がつきました。

何か実在して、直接的に生活に役立つような瞬間をみることが私にとっては快であり、喜ばしいと感じるからかもしれません。

こういう自分の仕事観に関する吟味は、中高生の頃にやってみたかったなあ、とも思ったり。吟味をしても今のようなキャリアを選ぶような気がしなくもないですが、「自分はどんな仕事がしたいのか」という問いを考える上で、プラトンのこの論は面白い示唆、視点をくれるような気がしました。

 

というわけで、プラトン『国家』第10巻の感想でした。

おやすみなさい。