「お久しぶりです、××先生。小学生のときにお世話になった、くろやんです」
「ああ、あのちょっと変な子!」
久しぶりに小学校のときの、担任ではない、算数少人数の先生に会ったときの反応でした。担任ではなかったとはいえ、とても人数が少ない学校だったので私のこともよく覚えていてくれたようです。
っていうか、「変」って(笑)
場合によってはパワハラよろしく、セクハラ発言にもなりかねない久しぶりの先生の発言ですが、信頼関係がそこそこあるのであしからず。
けれども、本音を聞くと、先生曰く私は本当に変、というか不思議な子だったそうです。
「変」とか「変わってる」と言われることはそんなに嫌いではありません。言われ続けた年数がかなり長いのと、変わっている方が人生刺激的なことが多くて自分としては楽しいのと、自分がB型であることがそう感じさせているのかもしれません(笑)
同時に、「アクティブ」ともよく言われます。
インターネットの世界に飛び込めば、日本を自転車で横断している人なんてごろごろいるし、日本どころか世界を走り回っている人がたくさんいます。
フルマラソンだって走っている人はいっぱいいるし、自転車でいろんなところを走っている人もいます。
私よりたくさんの本を読んでいる人はごろごろいるし、映画だって私よりたくさん観ている人はいっぱいいる。
が、女子で、見た目色白(東北人だからでしょうか)で文化部っぽいのに、フルマラソンが走れて、過去自転車で20日間をかけて北海道を走ったことがあるし、本とか映画もこれくらい読んだり見たりしていると言うと、現実世界では少数派のようです。
大学生くらいまでは、自分で「変」でありたい、とか「アクティブ」でありたいとか、すごく意識をしていたようにも思いますし、そう言われると、ああ自分は今自分がなりたい自分に近づいているのかもしれない、と思えました。
誰かと同じじゃ生き残れない世界がきそうだ、という第六感が働いていたのかもしれません。(笑)(実際は色んなビジネス書にそんなことが書かれていたので、自分だけの技を磨きたいと思っていたのも大きい要素)
けれども最近はもはやそんなことがどうでもよくさえなってきました。
自分が「変」「アクティブ」と思っていたことが、どうでもよくなった、というわけではありません。
「変」「アクティブ」と思っていたことが、完全に日常になったような感覚になったからかな、と思います。
ジム通いを続けて身体を鍛えるのは、健康寿命を延ばしたいからだし、本をたくさん読みたいのは将来年老いてからもきちんとした発言、表現ができる大人になりたいから。
いろんな経験をしに行くことに時間を割くのは自分自身に新しい刺激を与えて、いつでも若い人と楽しく会話をしたいから。
これは私にとって日常であり、「変」でも「アクティブ」でもない。
そのせいか、最近そういうことが良い意味でどうでもよくなっている気がします。
でも、よくよく考えてみれば、自分の周りにいる、いわゆる一般的ではない人達は、どこかで自分はちょっと変かも、とは思っていても、自分自身に対して自分のことを「変」「アクティブ」とわざわざ肯定している人はいないかも、と思いました。
それが普通だから、わざわざそう言う風に肯定する必要がないのですよね。
一般的でなくても彼らはとても幸せそうです。
私も今、とても幸せです。
以前、目が不自由な方がこんなことを言っていました。
「僕たちはジュースを飲んだ時、それがリンゴジュースと言われればそう思うけれど、そう言われない限り、それがリンゴジュースかどうかなんて分からない。僕たちは一人で何かを飲む時、飲んでその味を感じて、ああ、りんごかな、とか思う。自分がどう感じたかだけが大切っていうのは、時に目が見えている人にとっても大切な感覚なんじゃないでしょうか」
何かが見える私達は、目で見た先入観で、おいしいとかまずいとか、感覚を支配されているのかもしれません。
実際、海外のオーケストラで、これまで採用のほとんどが白人男性だった団体が、入団テストをする際に演奏者を見えなくした結果、つまり純粋に音だけで採用した結果、採用者の半分以上に女性や黒人が混ざったと言います。
ただ自分の感覚を大事にして感じること、これは自分自身が何か行動を選び取るときにも大事な考え方の一つかもしれないなあ、と思いました。