くろやんの日記

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いわゆる出産適齢期女性目線で見つめる、出生率の数字

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www.nikkei.com

 

6月になりました。早いものでもうすぐ日記をはてなで書き始めて1年が経とうとしています。最初の頃、1行ぽっきりしか書かない日もありましたが、とにかく毎日、メモにでも下書きでもいいから書き続ける、と決めて、なんとか1年続けられそうです。

 

6月1日、2017年の出生数、出生率の数字が出たよっていうニュースを見かけました。少子化少子化叫ばれているおかげか、出産に対する女性の感度(ニュースで出生率とかいう単語が出た時の反応)は高まっているんじゃないでしょうか。

 

そんな私も世間で言うところのいわゆる出産適齢期。こういうニュースには耳が思わずダンボになります。

 

ー出生数の減少幅は12年ぶりに3万人を超えた

12年、というと1世代分っていうイメージありますので、単純に親になる人の数が減っているからでしょうね。出生の動きの資料を見てみると、バブル終焉時期、平成に入るくらいで急激に下がって、そこからはじわじわ減っているように見えます。

そして平成元年〜平成4、5年が20代後半から30代に入ったあたりってかんじで、いわゆる適齢期。

平成生まれの親になる世代の人数ががつっと減っているから減少幅として反映されたって感じなんでしょうかね。来年の減り具合の結果で、何が原因なの?ってところがもっと明らかになるのかしら。

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出典:http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/81-1a2.pdf

 

ー一方で35歳以上の合計特殊出生率は上がっている

調べてみて初めて知ったんですが、日本って不妊治療患者数は世界一とのこと。ちゃんとしたソースが見つからなかったので真偽はちゃんと確かめた方が良さそうですが、最近は高齢出産も珍しいって感じではなくなってきたのかも。

 

35歳以上の合計特殊出生率が上がってるってことは、お金があれば子どもが欲しいっていう思考と、キャリアを積んでから子どもをつくるぞって思う人が多いからなのかな。確かに自分も、結婚はちょっと早めだったから、結婚歴は積み重ねてきたけれど、子どもだけはすぐにつくろうっていう考えに中々なれない。

キャリアとして好きな事を好きなだけ取り組んでから、という意識はやっぱりあるし、お金の問題も。そういう余裕がなくて、子どもにあたっちゃうのも避けたいしって思うと、どうしても遅くなってしまう。

 

ーめっちゃ早く子育てってどうなんだろう

今は、学校も全部卒業して、ある程度社会生活をしてから結婚して子ども、という流れがとても一般的だけれど、それってすごく女性への負担が大きいっていうのも最近のママを見ているとすごく感じます。

男性も女性も働き盛りで、外で働きたいけど核家族で、子どもを保育園に預けて、熱が出れば迎えに行って。

Twitterでもよく話題になっているけれど、男性にも女性にも、無理ゲーなのでは?と感じちゃいます。

 

そもそも人間って、在る程度の集団で生活してきた生き物、ってところを踏まえると、子育て=ママだけがやるものって結構最近の考え方なんじゃないかな、とも思います。

というのも、先日地元に帰った時、私が小さい頃よく面倒を見てくれていた80代の近所のおばあちゃん(2人)でさえ、子育てを一人でやるのは大変よお。って、東京で一人(イクメンがいる家庭は2人)育児に励むママは、いくらテクノロジーやサービスの発展された現代でもやっぱり大変なんじゃないかと思いました。

だって一人で見てたら、美容室も歯医者もなかなか行けない。今時ママいつ行ってるんだろう?

私の母なんて専業主婦だけど、美容院行くとき、ちょっと病院行くとき(2人めの出産とか)、近所のおばあちゃんに私を預けていたしなあ。

 

そもそも子どもはみんなで育てるものって思ったとき、出産年齢って本当に20代後半が一番いいのかなあ、とも考えさせられます。

半世紀も遡れば、15でねえやは嫁に行き、みたいな世界だった訳で、女性の身体的には女子高生くらいが元気に子ども生める時期?とも思ったり。

子育てをしてから高校、大学と勉強に励んで、キャリアを築く、という生き方がいいなって思っている人も潜在的には多いんじゃないかな、と思いました。

子育て経た女性って経験によって視点がまた大人びて、いろんなこと勉強するにも違う姿勢になれるかもしれないし。

 

ただ、今の現実、15、6で子どもができたって言うと、本当に何かの戦犯ですか?ってくらい社会から追い出されてしまう傾向があるのもまた一つ。

www.news-postseven.com

15、6で心が子どもなのに、っていうところだと思うけれど、そういう子の精神だったり、心を鍛えるようなスクールがあってもいいのかもしれないですね。

母親学級ってどんな形のものがあるんでしょ?ちょっと調べてみようかなー。

 

 

散々出生率を上げるにはどうすればいいのか?女性が生みやすくするには?

みたいな視点から意見を書いてきてなんですが、私自身は出生率は上がらなくてもいいんじゃないかな、と思っています。

急激に下がるのはよくないかなって思いますし、生みたいと思っている人が諦めなければいけない、悲しい思いをしている人に対する課題は解消された方がいいとも思います。

でも、世界的に見たら、人間ってめっちゃ増えていて、それこそ食料問題とか、住む場所の問題(もちろん未開の地はまだまだたくさんあるけれど、既に他の生態系をがんがん壊すくらいに人間の数は多い)とかのことを考えると、人間の数ってどこかでもう少し減少、横ばいになった方がいいんじゃないかなと思うからです。

そういう視点で考えると、先進国ってすごく平和的に人口が減っているんですよね。進撃の巨人でいう、住む場所と食糧難で、口減らしの為に巨人に立ち向かわせて人を殺めている、みたいなことをやっているわけじゃないですし(笑)

(自殺問題はまた別ですが)

 

というわけで、

★35歳以上でも安心して出産できる医療が発達すれば良いな(だって人間の寿命が延びているんだから、そこはバランスして欲しいよね)

★めっちゃ早く生む、遅く生む、という選択肢もアリだよね、という世の中になって欲しいな

★ってかそもそも人口は減っていいよね。日本、人口減少社会にいち早く対応した先進国になろうよ

 

っていうことを考えさせられました。

【目標振り返り】5月のまとめ

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暑くなったり涼しくなったり、気温差が大きいように感じた5月が終わりました。ここまでで大体1年の半分近くになるんですねえ。なんやかんや移動距離が多い1ヶ月だったなあ、とも感じた5月を振り返ります。

《2018年の目標》〈継続〉〈思考力のレベルアップ〉

《目標リスト》(4月末現在)

・映画150本鑑賞  ・本を100冊読む

・日記を毎日書く   ・英語力向上→スカイプ英会話  

美ジョガーになる

 

 

◎5月KPI達成率

映画20本→1本 未達

本 20冊→2冊 未達

日記31日→31日 達成

英語20日→0日 未達

身体美ジョガーになる→ー2kg 数値測定しやすい目標設定が必要

 

◎未達理由考察

・5月は移動距離が長く、落ち着いてまとまった時間を取る事が難しかった

・1日の空き時間が細切れになりやすく、スケジュール帳を見直すと、隙き間時間が無駄になっていることが分かった

・数字が明確でない目標があった

 

未達な5月ですが、1年が始まって半年。がっつり中だるみましたね(笑)

6月は、

★数値の具体化

★隙き間時間を上手に使う

ということを踏まえて過ごしたいなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

みんなファッションはどこで学ぶのか

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togetter.com

 

呟きを読みながら思った事は、

「女子はみんなどこでファッションを学ぶの?」

ということ。

 

私なんて高校から私服だったのに、なんならアパレルでバイトしたこともあるのに、祖母が洋裁系の仕事をしていた人なのに、お母さん友達にオシャレって言われているのに、自分自身は洋服の事っていまだによくわかってない。

 

学生時代にアパレルでバイトしていた時は、そのお店内で揃えればいいからすごく楽だった。ある意味オシャレだったけれど、好きな服ばかりだったかというとそういう訳でもない。

 

みんな自分に似合うスタイルの服ってどこで買うの?

そしてどこで勉強するの?

 

 

ガーデニング進んでいない問題について

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2018年はガーデニングしよう

と思い立った訳ですが、草取りはマメにするようになったものの、まだ何も植えられていないという現状(笑)

 

草取り、草刈りだけはがんばっているので、昨年よりもぼーぼー状態にはならず、キープしている状況です。

 

もう5月も終わる訳ですが、見栄えよくしたいのでそろそろ何かを植えたい……

な、なに植えようか……。

 

 

カレー派、シチュー派って言うけど、その2択は正しいのか

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カレー派?シチュー派?

たまに聞かれます。

どうしてこの2択なんでしょう。ルーが茶色か白か。野菜と肉を炒めて最後にルーを入れる、という工程が似ているからでしょうか。

 

そもそも私の中では、

カレー

=冬でも夏でも食べる事ができる

 肉かシーフードかきのこか多種多様

シチュー

=冬の食べ物

 基本的にはお肉、もしくはきのこ

 

そもそも冬以外に聞かれたら、多分カレー食べたいって答えるし、冬にならないとこの2択成立しないのでは?

 

シチューは冬派、なのに、特売で買ったシチューの元がまだ残っていてどうしよう、と悩んでます。

何かいい使い道はないだろうか。。。

 

茶髪を否定されても日本が嫌いにならない理由

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kuro-yan.hatenablog.com

 

以前、こんな日記を書きました。

私の髪は地毛で少し茶色です。友達からはセットがしやすい、とか、柔らかい印象で良いね、と言われる事が多かったのですが、公の場に出てみると、ちょっと生きにくく感じる場面もそれなりにありました。というのが上記の日記です。

中学や高校で髪型に厳しい学校が多いせいか、ちょっと茶色いだけで戦犯扱いです。

 

先日、中学校の先生と思われる方の記事の中で、『なぜ茶髪をだめなのかを説明する語り』というものを発見しました。

 

中学生の場合,茶髪にしたい,茶髪にする人というのは,自分を必要以上に強く見せよう,周囲の人に威圧感を与えようとしたいという傾向があります。

これは統計を取った訳ではないけれど、なんとなく分かったりもします。

まあでも、いわゆる『若気の至り』が、自分自身の事で完結(自分の髪を染める)するくらいならいいんじゃね、とも思ったりもしますけど。

 

驚いたのは次の言葉。

茶髪,金髪だったら,「なんか怖いな」「金出せ」とか言われたらどうしようかなあ,と思うはずです。例え実際にお金を取られたり,暴力をふるわれたりしなかったとしても,通り過ぎるだけで,周囲の人を「怖い」「不快だな」と思わせるような髪型や服装は個性とは言えません。

え?じゃあ先生は外国の金髪の子を見たら、「なんか怖いな」って思うの?青目だから外国人ってすぐ分かる?黒目(モスグリーンみたいな)の子もいるよ?

通り過ぎるだけで周囲の人を怖いと思わせる、なんて、そんなん知らねえよって思いたいけど。そんなことしてるから、外国の人に会っただけで萎縮して言葉が出てこない日本人、を量産しているんじゃないだろうか。

 

とかとか。

色々言いたい事は出てくるし、相変わらずの日本の人権意識に泣きたくなるし、もはや日本脱出しようかな、とか思うんですけど、それでも日本の事は嫌いになれないし、日本に住んでいても良いかな、って思っちゃうんです。

 

理由1:なんやかんや宗教上の激しい対立はない

日本って、複数の宗教を同時に進行する事に違和感を感じない国、なんだと思います。一時明治政府が、神道と仏教をきっちり分ける「神仏分離令」を出して、それを受けて仏教が一時、排斥される運動が起きたのですが、その後政府の声かけによって再び神道と仏教は共に歩んでいます。

仏壇と神棚が当たり前のように家の中で共存していますし。除夜の鐘を聞いて、初詣も行きますし。

イスラム系やキリスト系は少数派になるのかもしれませんが、キリストに関してはカトリック系の幼稚園とか保育園が結構多いおかげか、小さい頃に聖書に関する劇をやったよって子は結構多かったりします。

女子校なんかもキリスト系が多いしね。家族とか本人がそうでもなくても、ミサの経験ある、みたいな子もいたりする。

割とその辺は寛容だし、なんなら人様の宗教事情に突っ込むのはタブーみたいな空気もある。

外国に行くと、人によってはその辺りに窮屈感覚える人もいるんじゃないかなあ。特に経験なキリスト教の人が多い地域に住んだら、奉仕活動もかなり積極的だそうなので。日本でも田舎はそうだけど、別に宗教で括られている訳じゃないしね。

 

理由2:人権意識は高いけど、それだけ問題も起こっていたという証拠でもあったりする

日本と欧米、それは多分基本的には欧米の方が人権意識高いんだと思います。

だって先日、フランスのニュースでしばらく話題になっていたのが、某車工場の、数日17分多く残業させることへのその17分への賃金の正当性について。17時30分終業だから、17分残業しても18時前には帰れるんだけど…

って日本人なら思うけど、向こうの人からすれば、たった17分じゃなくて、大事なそれぞれの人生のうちの17分、なんだよね。

この権利意識は見習った方が良いのだろうか。

でも、こういう権利意識が生まれるくらい、差別であったりが激しいっていうのも一つあるんだと思う。

よく聞くのが、欧米系の白人中心の街に住むと、確実にアジア系って目で見られるよっていう話。夫もオーストラリア住んでたときに感じたようで、シドニーは全然そうでもないけど、メルボルンは結構差別があったりするんだよね、と言っておりました。

 

理由3:ごはんおいしい(笑)

文脈からは全然関係ないですが、真似が上手な国なので、どの国の料理もすごい高いクオリティで安く食べられるのがすごいなあって海外旅行行くたびに思います。

 

というわけで、なんやかんや総合的に考えると日本も結構生きやすいので、まだ嫌いにはなれなさそうですが、ごはんが美味しくて、差別がない国を見つけたら移住したくなっちゃうかもなー。

 

 

仕事ができると幸せ、という問題について

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diamond.jp

 

なるほど。確かに、東大出ているくせに最近の若者は仕事ができない、とか。高学歴ワーキングプア、とか言われているようなやつとついつい結びつけたくなってしまう気がします。

が、そこはぐっとこらえて、こう思ってしまう問題の本質がどこにあるのか、考えてみる事にしました。

 

―記事をみて思った事

◯そもそも成績優秀とはどこを指すのか

→どこと比べてなのかにもよるが、母数が減る中、上層の人程海外含む日本ではない場所、ステージを選ぶ事が容易になっている時代

◯仕事のミスも時間に遅れる、も昔からあったのではないか

→テクノロジーによって可視化が進んで管理しやすくなっただけで、ミス、遅れる等の行動を起こしてしまう人間の割合に変化は本当にあったのか

◯成績優秀者になればなるほど、多分いわゆる人間としてのバランスは崩れているのでは

→天才って本当に変な人多い、本人そのつもりなくても事前知識なしだったり、順を追わずにそういう人に突然会うと、免疫無いのでこいつヤバい奴って思う人多い気がする。それは今でも昔でもそうなんじゃないかなあ……

◯っていうかそもそも人間としてのバランスって何よ?

→完璧な人間の定義は人間にはできないのでは?完璧な人間を誰かが定義したとしたら、どこかにその定義した人間にとって良い、って部分が入ってしまうのでは

 

 

ーそもそも時代が違えば、適合できる人間の種類も変わってくる

狩猟時代にモテていた人と現代においてモテる人はきっと全然、タイプが違う。

狩猟時代は体力があって、力持ちで、それでいて食べ物を取ってくる能力値が高かった人がモテていたんじゃないでしょうか。つまり自然の中から稼いでこれる人。

もちろん狩る能力を発揮する為に頭脳も大切だったと思うけれど、今よりも瞬発的な判断力がすごく重要視されてただろうし。

今は体力が多少なくても、頭をしっかりつかって人間社会の中で稼いで来れる人の方がモテている気がします。

もっと時代を近づければ、日本が農業従事者が一番多かった時代と、サラリーマンが多くなった現代では、それぞれ適合できる人間の種類が違う。

農業中心で生きていた頃だったら、多少文字の読み書きなんてできなくても問題なかっただろうし、どっちかっていうと、天候の変化を肌でしっかり感じ取れる、とかそういう方が必要な力だったんじゃないかな。

でも今は読み書きは必須だし、さらに情報を読み取って考える力も大事。昔は優秀、と呼ばれていた人が、今の現代に生きていても優秀な層に入ったかどうかは分からないけれど可能性は多分低い。

 

そしてこれは時代だけでなく、場所でも大きく変わる。

 

 

ー「恵まれている」は相対的な世界の話

時代もそうだし、住む場所が違えば恵まれているの定義もかなり大きく変わる。これは今の日本という1国の中でもだいぶかわるんじゃないだろうか。

都会に住む人と地方の自然の中で暮らしている人とでは、多分幸せって違うし、生き残るための能力も少しずつ違うんだと思う。

もちろんインターネットが出てきたから、差異はもうほとんどないんだろうけれど、そもそも幸せの定義が違うから、やっぱり「恵まれている」は一概には言えない言葉。

 

ー仕事ができると幸せ、という問題について

仕事っていうのは、誰かの役に立っている事で、自分自身も心地よい事だから。苦しいのは奴隷的だよね。そして全時代の奴隷も、幸せを感じていた一部の奴隷を除いて、ほとんどそれは義務。

そういう意味で、仕事ができる人っていうのは仕事を選べる立場にも生きやすいから幸せなのかもしれない。

でもこの仕事、というのは時代によって変わる訳で、最初にリンクを貼った記事のことで言うと、前時代的な育てられ方をしたら、変化した時代の仕事に人間がマッチしていないだけでは?とも考えられる。

発達障害って、障害があるように見えるからそう名前がついたわけで。そろそろ、仕組みが人間に合っていないっていう思考の転換をしないといけないのかもしれない。

 

 

なぜ、私はパンダに生まれなかったんだろう

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ネットニュースをサーフィンしていたら、可愛らしいパンダの写真が出ていた。中国の山奥にいた黒と白模様の熊は、今や日本だけでなく全世界から愛されているアイドルだ。

世界中から愛されている上に、人間の外交にまで使われている、とんでもない経済的影響と外交的影響をもった生き物だ。

 

というか、なんで私は本気でパンダに生まれなかった事について考えているんだろう、というのはおいておく事にしようと思う。

だって思いついちゃって、考えちゃったんだもん。

 

―そもそも人間に生まれてよかったと思っているのか

私が思いついた人間のメリットはこちら

・生息域が広いため、いざとなれば違う場所へ生活場所を帰る事ができる

・趣向品の種類が多い

・割と寿命が長い方

・天敵が少ない(天敵とともに暮らすリスクを減らせる生き物)

 

デメリットは何だろう

・生きる為に必要そうに思えないような行動をしなければいけない時がある(見栄、プライド)

・他の生き物ではなく、同類の人間に殺されるリスクを考えて生活する必要がある

 

 

―じゃあ、例えば私はパンダになりたいのか

パンダのメリット

・発見されたら大体保護される

・中国以外で暮らす場合、外交問題に発展しないようだいぶ大事にされる(動物界における国賓待遇)

・保護されているので餌(食い扶持)に困らない

・ちやほやされる。アイドルだから。

 

パンダのデメリット

・いつも拘束されている

・いつも監視されている

・ゆりかごから棺桶まで、監視される

・強制移動が多い

 

メリットもデメリットも上げてみたけれど、私はパンダにはなりたくないと思った。これは都会のマダムなお宅で猫をみかけた時の気持ちと似ているのかもしれない。

 

小さい頃、猫のことが羨ましかった。

天気がいい日はごろごろとひなたぼっこをする猫。私は憂鬱な算数のテストのことを考えながら学校に入っていく。

天気がよければ日に当たりたいと思った。

雨の日は人の家の屋根の下で猫会議。傘をさすのも面倒だし、どろどろに靴が汚れるのも嫌だから、私も同じように過ごしてみたいと思った。

 

けれども、大人になって都会の猫を見て、猫になりたかった思いは全部飛んで行った。子どもの頃のにわかに思っていた、砂粒くらいの思いも全部吹き飛んだ。

都会で生きる猫はいつも何かと戦っているか、拘束されているか、どちらかのように見えてしまったからだ。

 

 

今が幸せだから、人間で良かったなあ、と思える。

けれども確実に、人生のうちの一度は、輪廻という考え方をしている日本人である以上、きっと考える事なんだと思う。

 

飼い猫、飼い犬、動物園が嫌なら、やっぱり次に生まれ変わっても、人がいいのかもしれない。

 

 

おやつという概念がなかった私が今、楽しみなおやつ

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お題「今日のおやつ」

 

振り返ると、子ども時代、私にはおやつタイムというものはなかった。

我が家の夕食の時間は5時と早めで、3時に何か食べてしまうと夕ご飯が十分に食べられないから、というのが親に言い聞かせられた理由だ。

もちろんそれも理由の一つだったんだろうけれど、多分節約もかねてだったんじゃないかな。あと、子ども達の健康のため。

 

ポテトチップスやチョコレートはクリスマスや誕生日、それから地域のお祭りに参加した時に少しもらえるくらい。

超・田舎には手軽におかしを買える場所はなく、少ない小遣いでやりくりする子どもの味方である駄菓子屋なんていうのもなかった。(コンビニが一番近かったが、小学生のお小遣いではどれも高額に感じる。せいぜい10円ガムを買う程度だ)

5円チョコでさえ、たまに都市部に住む祖母の家に行った時のお楽しみだった。

 

お腹がすく前に夕ご飯の時間が来るので、特別お腹をすかせて悲しくなった記憶はないけれど、いつか大人になったら趣向品を好きなだけ買ってやろう、とは思っていた。

ゲームもそうだけど、禁止をすると後々リバウンドが来る。

 

リバウンドが来たのは社会人になってからだった。

リバウンドと呼べる程盛大ではなかったけれど、初任給が入った日の夜。スーパーでねるねるねるね、とか。チョコレートをディップして食べるお菓子とか、色んなお菓子を買い込んでみた。

(大学生時代もチャンスはあったけれど、少ない小遣いとアルバイト代は貯金に回して旅行代にしていた)

総額は3000円もいかないくらい。ラッキーな事に、その1回以降は買っていない。きっと子どもの頃に食べたら、おいしく感じたのかもしれないけれど、お酒の味を覚えてからだったせいか、チョコレートをディップしながらするめが食べたくなって、気がつけばコンビニに缶ビールとおつまみを買いに出ていた(笑)

良い大人になってねるねるねるね中毒者にならずに済んだのは、お金がないなりにジャンキーではない、いいものを食べる機会がそこそこあったおかげかもしれない。

 

そんなおやつの時間を経験せずに育った私だけれど、今はしっかりおやつを嗜んでいる。

夫の帰宅も遅い故に夕食が遅くなるためだ。

 

といっても、日中は肌の調子を考えてフルーツなんかを食べる。

そしてたまに、夫が夜、私を喜ばせる為にコンビニスイーツを買ってくるので、夕食後のデザートがある日もある。

 

フルーツも好きだし、プリンも好きだけれど、

私は私が喜ぶ姿を想像して嬉しそうな表情で帰ってくる夫の顔が一番嬉しいし、正直プリンよりも嬉しかったりする。

 

人が最も喜びを感じる瞬間について考えてみる

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人が最も喜びを感じる瞬間ってどんな時なのか。

まず自分の場合。いつだろう、と考えて、ぱっと思いついたことがこの2つ。

・ご飯を食べているとき

・寝るとき

 

空腹を満たされれば安心感が生まれるし、それが美味しければなお幸せな気持ちは増幅する。

ものすごく疲れた時はお布団がとても気持ちがいいし、寝付きも良い。お布団がふかふかで、寝る場所の気温が適温、湿度も適当だったらさらに良い。

 

けれどもこれは生理的な欲求で、生理的な欲求というのは総じて、自分が求めている以上のものがもたらされると、ちょっときつい。

これは容量制限がある容器に水を入れているような感覚に似ているのかもしれない。食欲にも睡眠欲にも上限があって、それが一定満たされてしまえば一旦それはもういらなくなる。

お腹いっぱいになってもさらに食べさせられ続ける事は苦しいし、眠くないのに布団に入り続けるのは暇だ(笑)

 

じゃあ、最も喜びを感じる→際限がないもの、キリがないもの、として考えるとどうだろう。

あればあるほど快楽を感じる事、という縛りをつけて思いついたものはこちら。

・褒められる事

・できなかったことができるようになること

・新しい発見をした時

 

褒められたら大体の人は嬉しい。たまにぞわぞわする、という人がいるけれど、誰に褒められるか、というのも大事なんだろうし、そもそも幼稚園児や保育園児を褒めて、嫌褒められた事事体が嫌で泣いてしまう、という状況は聞いた事がない。

(照れや場面状況によって知らん顔する幼児はそりゃたくさんいると思うけど)

だから多分、褒められたら人は喜びを感じる。

 

できなかったことができるようになること、も喜びを感じる瞬間だろう。大人でも子どもでも、何かに挑戦してそれができたとき、みんな、一瞬の人もいるけれどとても素敵な笑顔を見せてくれる。

包丁が使えたとき、解けなかった問題が解けたとき、何かスポーツで得点を入れたり新しい記録を出す事ができたとき。

できなかった、という記憶があるからこそ、無条件に皆が喜びを感じる瞬間なのかもしれない。

 

できなかったこと、と少し似ているかもしれないけれど、新しい発見をした時にも人の気分は高揚する。子どもなんか分かりやすいのかもしれない。大人にとっては至極当たり前の事でも、自分自身でした発見が、自分にとってまったく新しいものである場合、世紀の大発見をしたかのように喜びを表現したりする。

 

 

色々考えてみたけれど、『最も』という設定をするならば、

『できなかったことができるようになること』

なのかもしれない。

これは、プラスのこと(発明、発見、自己探求、自己研磨)にしろ、マイナスのこと(戦争、騙し合い)にしろ、とりあえず人類が存在してきたと分かっている歴史の中で、挑戦や進歩を続ける人類自身が証明しているような気がする。

 

さて、あなたはどう考えますか。