くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

流行のドラマやマンガの女性の気持ちは、東京に住んでみないと分からない

 

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働き始める前、そして上京する前、というのは働く女性のドラマやマンガを観て、その生態について「謎」がいっぱいでした。

というのもハイパー田舎で育った自分としては、身近な働いている女性と言えば、ほぼ農家でしたし。

 

働きマン』           『サプリ』

     

『いつかティファニーで朝食を

 

関係ないですが、最近流行ってる感じのドラマやマンガの主人公達と結構対照的ですね(笑)

ワカコ酒』           『逃げるは恥だが役に立つ

         

 

東京タラレバ娘

 

ちょっと前までは、ガシガシ働くキャリア女子をターゲットにしたマンガが多かった印象ですが、こうして最近の傾向を見ると、仕事に走るよりも趣味を大事にして趣味が中心の生活をしている様子が描かれていたり、そもそも定職にちゃんとつけないという問題を取り上げていたり、そこそこお仕事もしているけれど、やっぱり女としての幸せも追い求めたいよね、みたいなストーリーが描かれていたり。

仕事第一ではない女性も世の中にいるんだよっていうところでしょうか。 

 

 

さて、『働きマン』や『サプリ』、『いつかティファニーで朝食を』に限らず、ドラマを観ていても、東京を知らないうちには共感できない事もたくさんあって、あまりドラマを見る事もありませんでした。

共感できていなかった、というよりも、想像が難しかったのはこんなこと。

・こんなに職場で恋愛ごとが発生するの?仕事は?

・そもそも東京に住んでるってだけで、それはそれで幸せってわけでもないの?田舎にいても希望が見えないし。

・あれだけ人のいる場所に住んでいれば、各方面へのチャンスなんてめっちゃ落ちてそうだけどそうでもないの?

・各種駅の関係性、場所のイメージがつかない為、青山とか言われてもピンと来ない。

・みんなめっちゃカフェ行ってる。いいなー。

・みんな毎晩のように飲んでる?楽しそう!

・終電まで飲むと男がらみの何かが起きてしまうの?

 

 

上京してから、これらのことは自分に起きずとも周囲に起こったりして、ああ、ドラマみたいなことって本当にあるんだな、と思った次第です。

 

 

 恋愛の基本は職場だし(趣味がある人はもちろんそっち方面だけど、意外とこれっていう趣味がしっかりある人って少ない)、東京に住んでいる人は東京に住んでいる人なりの悩みもある。

 

ふと、この映画を思い出しました。

そう、『かもめ食堂

この映画の途中で、夫に浮気されて傷つき、お酒に逃げる中年の女性(フィンランド人)が登場するのですが、そんな彼女を介抱しながら、日本からフィンランドにやってきた女性の一人(片桐はいり)が、

森や湖に囲まれて、のんびりしているこの国でも、こんな風に悩む人もいるんだなあ、

みたいなことを呟くのですが、まさにこれ。

 

どこにいても、その時その場所での悩みっていうのはあるもんで、それは比べられる事ではないってことなんだと思います。

 

というわけで、東京に住む人、田舎に住む人、どちらにも色々悩みはある訳で、簡単に、東京は良いよね、とも田舎はいいよね、とも言えないし、

そして舞台が基本的に都会であるドラマやマンガの女性の気持ちは、やっぱり一度都会に住んでみないと、細かいニュアンスまではよく分からなかったりするんですね。

 

 

 

 

翻訳機器が発展しても、私が英語の勉強をやめない理由

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去年の事だったかな。英語が苦手な中国の方とお話しする機会がありました。

当然ですが、私も中国語に関しては、大学の第二外国語でとった程度で、読み書きは多少覚えているものの、しゃべりはほぼムリです。英語の方がマシ。

大抵の海外の方とは母語だろうがお互いに外国語であろうが、英語を使う事が多かったのですが、彼女とは英語ではなく、翻訳アプリを駆使しての会話。

彼女が、スマホに向かって喋ればお互いの言語に訳してくれるアプリを持っていたので、それを使って会話をしました。

 

感想としては、政治的な難しい話はちょっと厳しいけれど、女子会で話されているようなことは基本的に話せる、という感じでした。(もっといいアプリもあるんだろうな、きっと)

 

 

翻訳機器、アプリは日夜進化をしていて、今後、特別英語が話せなくても、仕事にだって困らない時代が来そうだなあ、とも思ったりします。

というのも、ロシア・中国・インド辺りの人達にとっても、英語は外国語。さらにアジアの市場は大きくなってきていて、その中で仕事をしようと思ったら、共通言語としての英語はあっても、相手の心をつかみに行くならお互いの母国語を多少織り交ぜる方が、よっぽど相手の心をつかめそうだから。

 

しかも言語ってコミュニケーションにおいて、重要ではあるけれど、必須でもない、とも思っています。

学生時代、ウズベキスタンに旅行に行った事があるのですが、個人的には旅行した中で、一番英語が通じない国、でした。ロシア語圏なので、いろんなものの表記が、ウズベク語かロシア語。

一日だけ、泊まったホテルにいたホテルマンの一人が、たまたま英語が好きで大学で英語の勉強をした、という方がいて、私や友人が英語で話すと、よろこび、かつ誇らしげに英語で喋っていました。私達も母語ではないのに、聞いた事のある言葉を久しぶりに聞いて、何だか安心しちゃったよ(笑)(彼以外に英語を理解できる人がいなかった)

 

そんな中、とある市場で当時の自分と同い年の女の子と話をしました。

伝統的な雑貨を売っているお店で、私はお土産の購入の為来店。お客さんが私と友達しかいなかったのと、お互い同い年くらいに見えたところから、それとなくコミュニケーションが始まりました。

彼女は英語はぜんぜん分かりませんし、私達もロシア語とウズベク語の挨拶くらいしかしらないのですが、身振り手振りをするうちに、お互い同い年であること、彼女は結婚していて既に子どもが2人いること。私達は学生である事、などなどの意思疎通を取る事ができました。

私にとってこの時間は、

言語がなくても、究極的に人間はコミュニケーションを取る事が可能である。

ということを実体験した貴重な時間となりました。

 

そう、言語って究極必要がない上に、今後翻訳機器が発展するなら、もうあえて英語の勉強なんて、しなくてもいいんじゃないだろうかっても思ってしまいます。

 

ちなみに私は、車の運転についてはほぼ諦めました。自動運転を待つ事にしています。道路は真っ直ぐ走れるのですが、バックの駐車は苦手だし、空間把握能力は低い方だし、同時にいろいろな行動をとる事がそもそも苦手なので、運転はできてもあまり運転を長くしない方がいい人種、だと思うからです。田舎はともかく、都会は絶対運転できません。1回やってみて、もう二度としない、と誓う事にしました。

 

自動運転を待つように、優秀な翻訳機だってすぐそこなんじゃないか。

そう思えても、私はやっぱり英語を勉強しようと思うのです。

 

なぜなら、語学を学ぶという事は、究極的には文化を学ぶことに繋がっているからです。

文化を学ぶなら、その国に住む事が一番手っ取り早いです。

また、最も簡単かつ手軽なのは、その国から発信されている映画や本といったその国で生まれた芸術、他作品に触れる事だと思います。

けれども、その国を深く理解しようと思ったら、言語を学ぶ事もとても大切な事だということを、日本語と英語の違いを知る程に感じたのです。

 

英語の勉強をしていると、日本で日本人から英語を学んだ感覚の英語を使ってみようとすると、すごく堅過ぎたり、逆に日本人視点だと、え?それだけでいいの?っていうくらいの一言で済んだりしたり。とにかく、言語は言語。それよりも自分自身がどう考えているのか、という意見で喋りは飾れば良い、という印象を受けました。

日本語ってそうではなくて、例えば同じ政治的な事を話すにしても、どちらも立ててしゃべる、みたいなことが多いような気がしていて、純日本人である私が日本語で考えた事をそのまま、日本人的ニュアンスを残して英語に転換しようとすると、とにかくすごく意見を包み込んでしまって、だから何?って感じの文章になってしまい、何だかうまく伝わってない、みたいな感じになってしまうことがしばしば。

また、英語という言語の特質、特性から、正確に伝えられる単語がない、言い回しがない、みたいな場合も多いです。

 

また、英語は英語でも、イギリス圏とアメリカ圏では結構違ったり、アメリカではそう言うけど、イギリス人は絶対言わないよ、みたいな言葉もあったりします。

そんな言葉に出会って、違いをみてみると、確かにこういう言い方はアメリカっぽい、とか。イギリスっぽい、とか思えるようになって来るんだから、やっぱり言語ってすごく文化を理解する為に大事な要素の一つなんだろうな、と思います。

 

というわけで、どれだけスマホアプリが発展しても、とりあえず英語の勉強は続けたいし、人生100年時代に生きるであろう自分としては、もう一言語くらい勉強したいな、と思ったりします。

 

 

ネットで買える。それでも私が本屋に行く理由

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本なんてネットでほいほい買えるし、実際Amazonで購入した書籍は多数ありますが、それでも私は定期的に本屋さんに通っています。

本屋さんなんて、電子書籍だったり、ネット通販だったりの波を受けて、衰退産業とまで言われているようですが、それでも私は、本屋さんが無くなったら困るなあ〜と思います。

 

▼本を買う上で、私達が支払う最も高価な物

え、お金でしょ?って思いつきそうですが、私は「時間」だと思っています。本を読むという事は、本を買うだけでなく、本に書いてある事を理解する為に、自分の時間を消費しなければいけません。

学生さんだったりは、お金よりも時間の方が軽いかもしれませんが、だんだん残りの人生が削られて、もしくはとにかくやりたいことがたくさんあって、時間なんて足りないよ!と思って生きている人にとって時間はとても貴重です。

貴重だからこそ、社会人全般、はたまたワーママさん(一番時間の使い方が旨い人が多そう)は、短い時間でいかに成果(仕事の結果、家族に対してやらなければいけないこと)を出すか、ということを常に考えています。

そんな貴重な時間を使うんだから、本を読んだからには自分にとって、有用な情報をきちんと得たい。読み終わった後に、つまんなかったな、と思う事が正直一番怖かったりします。

無駄も人生のうち、とは言いますが、できれば読み終わった後に、「読んでよかったなあ」とか「勉強になったなあ」と思いたいものです。

 

▼並べ方、売り出し方、ポップ。書店によって全然違う

ニーズが違うから全然違う訳ですが……。本屋さんによって、売り出されているもの、陳列は全然違います。

何かの大きな賞をとったものなどは、どの書店でも大きく展開されていたりますが、それ以外のコーナーはその書店の人達が選んで置いているもの。正直センスが出ます。

東京に来てから、私は定期的に新宿の紀伊国屋池袋駅前の大型書店、oazo丸善、のどこかに行くようにしています。

これらの書店は、陳列数が多い事もそうですが、大規模に展開している書店であり、かつ、そのときの流行の本を様々なジャンルまんべんなく知る事ができるからです。

また、その近辺に展開されている本から、最近流行のキーワードも知る事ができたりします。

ネットではおすすめの本、として、似たような本は出て来るものの、攻めた提案はあまりありません(全然方向性の違う類似本、等)

 

 

▼友達から勧められたらネットで即購入、けれどもそれだけでは物足りない

友達から勧められた、自分が尊敬しているあの人が勧めていた、みたいな本はネットで即行買ってしまいます。

自分が信頼している人が勧めてくれている訳ですから、基本迷いがないですし、そもそもこの本!っていう狙い撃ちができている訳ですから、狙い打った本を買えば言い訳です。

けれども、それだけだと、なかなか普段自分が触れないジャンル、敬遠しがちなところ、あえて勧めて来る人もいないジャンルはほとんど読まない事になってしまいます。

そう言うときに、ふらっと本屋さんに行くと、自分が特別な興味関心がなかった分野でも手に取ってみる機会が訪れます。

最近だと、私はフェルミ推定の本を購入しました。

何か新しい事を勉強したいな、と思っていた矢先の出会い、高校生のときくらいにちらっと聞いた程度で、その後ほとんどフェルミ推定で解くような機会はなかったので、一種の脳トレ感覚で始めて見ました。

結構面白いです。また、これは特別友達から勧められた事もなかったので、本屋に行かなければ出会わなかった一冊でしょう。

 

 

他にも、

・ネットでアンケートに答えて当たった図書カードの消費のため

・衝動買いの定番雑誌の購入

という時には本屋さんを使います。こっちの理由はほぼおまけですが。

 

というわけで、本屋さんは自社の選書能力を高めて欲しいし、こちらの購買意欲をどんどん高めて欲しいな、と思います。(ただし、中身がつまんなかったら期待はずれってことで本屋への期待値も下がるけど)

 

 

感謝と愛は基本大事。けれどもやっぱり実行すべき事を考えたい。

 

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自分で言うのもなんですが、どちらかというと、私は波風を起こしたくないと思っている人間です。

何か新しい事を始めることは好きですし、冒険心もある方ですが、悪く言えば八方美人、よく言えば、無駄な争いやいざこざを起こしたくない、という気持ちから、かなり根回しをするタイプです。(もちろん失敗した事もありますが)

 

また、区別・差別も基本的にはしません。ストレングスファインダーでは『個別化』という素質が出ていたのですが、(これは人それぞれ、基本的にはジャンル分けしません、という素質です)出会った人の性的思考とかが少数派のそれであっても、そっかーって思う程度ですし、何かが不自由な人に対しても、そもそも自分の祖母を含め、親戚系にしょうがい者手帳を持って生活しているような人が多い環境で育っているので、何かしなければいけないのではないか、何かお手伝いをしなければ?という強い特別な感情、想いが生じる事はありません。

(困っていたら自分にできることで助けますが、それってお互い様ですよね。私が助けられている事もある)

 

そんなこんなで、温和、とか、優しい、とかでも仲良くなってくると、言うときはずばっと言うよね(笑)ということをよく言われます。

(ひ孫は周りの人に、何て言われる事が多いかな?自分の事って自分よりも周りの人の方がよく観察できてたりする事もあるから、鵜呑みはせずとも話は聞いた方が良いよ)

 

 

「愛」や「感謝」が大事、と思っている人はとても多いと思います。それはとても大事な事ですし、みんながこれを同程度考えていたら、世界から戦争はなくなっているかもしれません。

けれども、

同程度考えていない事が問題だから、みんな考えようよ!

と呼びかける事は、必要ではあるかもしれませんが、それが一番大事な事ではない、とも考えています。

「愛」は大事。

「感謝」も大事。

けれども、現実問題として、戦争は起きているし、そもそも全員が同じ事を思考するってロボットでもない限り、もしくは全員の利害が一致しない限り、かなり難しい事なんじゃないかと思います。

一時的に一致する事はあっても、恒久的に一致し続ける事ってかなり難しいとも思います。

それが大事な事は分かっている。だからこそ、あなたは何を実行するんですか?

ということを、考えて、そして実際の行動に移す事が大切なんじゃないかと思います。

 

 

例えば、「愛」は大事。「感謝」が大事。そう言う事が大切、と本気で思っているなら、それはそれでいいと思います。

が、それならば、相手にどうしたら響くのだろうか、伝わるのだろうか、ということもセットで真剣に考えたい。

・そもそも自分はそれを発言するにあたって、説得力のある人間になっているか

・そもそも言葉で良いのだろうか。絵や音楽、映像、表現方法はいくらでもある

ただ言うだけっていうなら、それは「愛」がない行為かな、と思うので、「愛」があるのであれば上記のことを考えて、みんなに愛のある発信をして欲しいな、と思ったりします。

 

が、基本的にはやっぱり、「言う事」よりも「何をすべきか」という実際のことを考える方が大事かな、と思います。

先ほど書いたように、人類全員の思考が一致するってそもそも全然「自然」ではないと思うし、そもそもずっと「平和」って言われているのに、達成されていない歴史を考えると、有効な手段ではないのでは?と思ってしまいます。

上二つに書いた、

・そもそも自分はそれを発言するにあたって、説得力のある人間になっているか

・そもそも言葉で良いのだろうか。絵や音楽、映像、表現方法はいくらでもある

という二つも「言う事」に限定して書きましたが、「何をすべきか」の自分が生きて行く中でやっていきたいこと、とも言える二つだと思います。

 

「愛」が大事

「感謝」が大事

それは小さい子でも言える事であり、真理でもあると思います。

けれども、大人は大人だからこそ、歴史を学び、人と触れ合った経験から具体的な行動方法を明示したり、実践したりする役目があるんじゃないかな、と思います。

 

思えば、小さい子でも、具体的な行動方法を提示してくれた作品がありましたね。

ペイ・フォワード』受けた親切を、直接お返しするのではなく、違う3人に渡そう、というお話です。

実際は原作者(大人)の経験から生まれた物語のようですが、この原作者だって、「愛」と「感謝」が大事ということを、素敵な作品に落とし込んで世界に広めた、という意味でとても素敵な行動で示してくれたと感じます。

 

 

人狼ゲームで疑似体験する、マイノリティとマジョリティ

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「昨日も人狼ゲームの事書いてる〜」と思うくらいに人狼ゲームにハマっている最近です。

kuro-yan.hatenablog.com

 

人狼ゲームとは、村に紛れ込んだ狼を村人達が協力して追い出して行くゲームです。一日で吊れるのは一人。夜が来ると、狼のターン。村人が一人、喰われます。

こうしてお互いに減らし合って、狼を全部追い出せれば村人の勝ち。

村の中の、村人と狼の数が一緒になったら狼の勝ち。

というのが基本的なルール。要は、嘘をつき、嘘を見抜くゲームです。

 

▼村人はマジョリティ、狼はマイノリティ

ゲームにおいて、村人(もしくは能力をもつ村人陣営)はマジョリティ、狼はマイノリティです。

例えば、13人のゲーム参加者がいる村であれば、大抵狼サイドは4人(狂人1人含む)で、村人陣営が9人。

村全体の人数によってもちろん狼側の人数は減りますが、基本的に狼サイドは少数派。しかも村を滅ぼすと考えられているので、狼は最初は基本、追いつめられる側です。

そんなゲーム状況から、ほとんどの初心者は最初「人狼のカードは引きたくないな」と思います。

というのも、狼サイドである場合、見つけられないように嘘をついたり、どのように嘘をつけばロジックが成り立つか、ということを考えながら、発言をしなければいけません。このことから、狼のカードを引くというのは、かなりストレスが大きいです(ま、それもまたゲームの面白さでもあるのですが……勝てたときは気持ちいいです(笑)

というわけで、初心者としては、嘘をつかなくてすむ村人側だと、かなりほっとする、というわけです。

 

▼マジョリティだと特に考えない、マイノリティは真剣に考える

もちろんゲームなので、村人陣営もみんな考えています。が、狼サイドの方が頑張って考えなければいけない、というのはゲームをやった事がある人は分かると思います。

単に嘘をつく、だけでなく、嘘に論理のほつれがないように嘘をつく、という状況を乗り越えなければいけないからです。

ゲームをやりなれている人でも、今日は2回も狼カードを引いたから、今度は村人でちょっと休憩したいな、という想いを持ったりします。

それだけ、狼は疲れて、村人はそこそこ気楽です。それはきっと、自分が考えなくても、自分と同じように考えてくれるだろう、という仲間が多い安心感からだろう、というところからくるものかもしれません。

ふと最近思ったのが、これって実生活でも同じような事が起きている時あるなってことです。

例えば、転入生、なんて分かりやすいのではないでしょうか。元々その場にいるクラスメイトは緊張しませんし、自分が毎日通っているクラスに行くのに緊張はあまりしません。しかし、転入生、特に学期の途中でクラスに入る場合は、緊張する人の方が多いでしょう。転入直後の転入生は、完全によそ者、マイノリティだからです。マジョリティ側は緊張、というよりも、どんな子がくるんだろう、というわくわくの方が大きいですよね。これは転入生以外の周りが既に自分が知っている子達であり、自分は多数派に存在しているからではないでしょうか。

他にも、突然外国に行く事になった時。最初は言葉も通じない、人種も違う、という点でとても緊張するかと思いますが、逆に日本で外国の方を迎えるときってそれほどの緊張はしないのではないでしょうか。

 

▼マイノリティが感じている緊張感の疑似体験

ゲームを通して擬似的にマイノリティになってみると、まずとにかく息苦しいです。そして酷く疲れます。それは自分とは異なる考え方で動いている人がとても多く、かつその異なる考え方で動いている人達が自分を排除しようとしてくるわけです。

それを説得するのは非常にパワーがいることで、中々に疲れます。

もちろん、日常生活に置けるマイノリティの全ての方々が、排除されようと周りから圧をかけられている訳ではないと思いますが、日常生活では無意識に排除の視線を向けられて、それと戦っている人が多いのかもしれないなあ、と感じました。

かつては(今も根は残っていますが)黒人の方の排除のされ方は壮絶な歴史があります。(日本人も島に閉じこもっていると分からないけれど、場所によってはイエローって小馬鹿にされたりします)他、何かしら障害を持つ方、同性愛他セクシャルが複雑な方。都内に住む地方出身者(その逆もしかり)。

 

また、自分が新しい場所、環境に行ったりしたことが少ない方こそ、こうした疑似体験が大事なのかなあと思います。

私は人間という生き物の本能を考えた時、安全な場所でぬくぬくと幸せに生きたい、暮らしたい、という気持ちを持つ事はとても自然な事だと思いますし、安定を求める人はある意味正しい行動をとっている、とも思います。

(ただし、現況をよく勉強すれば、今の時代では安易に公務員や大手企業を選ぶことはリスクのある行動だということも記しておきますが……)

全員が全員冒険家だったとしたら、人類は早々に滅んでいるでしょう(笑)多分、大航海時代辺りでかなり人口減ってそう(笑)

けれども、お互いに分かり合う事、というのは人間のコミュニケーションの一つとしてとても大事な事だと思いますし、それを言葉でやり取りするよりも、こうした疑似体験をする方が、身に染みるのではないかなあ、とも思います。

 

 

 

私は、私自身の人生全般を振り返った時、大体はマジョリティ的立ち位置でしたが、もちろん全部がマジョリティという訳でもなく、時にはマイノリティになることもありました。

そのマイノリティになったときのドキドキ感、と恐怖と緊張、そして数パーセントの期待、という辺りが、人狼ゲームの狼を引いたときに感じるものと似ているよ、という話しでした。

 

人狼ゲームで学んだ、自分の意見をきちんと表明する事の大切さ

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人狼ゲーム好きな友達達(人狼だけでなく様々なゲームにはまっていますが)に誘われて、夫婦で人狼ゲームに賛成する事が多い最近。

夫婦でのコミュニケーションの取り方もかなり変化してきたな、と感じます。

kuro-yan.hatenablog.com

 

どう変化してきたのか。

これまでもお互い意見はかなり言い合うし、端から見ていると喧嘩しているみたい、と言われるくらい、言いたい事はきちんと言う夫婦だったのですが、それに加えて、「理由及び、そう考えたきっかけ、原因」もはっきり言う、ということが増えたなあ、と感じています。

 

▼夫婦にとって思っている事を伝える、というのは第一段階という認識

夫婦もそうですし、カップル、はたまた友達、仕事のパートナーでもそうですが、思っている事を伝える、というのはコミュニケーションの初歩中の初歩。

思っている事を伝える、というのは、自分の想いを素直に話す、という意味合いもありますが、自分が思っている事を伝える事によって、相手にこう思ってもらって自分を理解してもらいたい、という意味合いもあるので、必ずしも、何でも正直に伝えるべき、とも思っていませんが……。(時には言い方、表現方法も大事)

言いたい事、思った事だけを言う、というのはある意味第一段階。

それが第一段階、という意識を持った上で、じゃあそれで、どうしたい。どうして欲しい。というのを、相手に丸投げするのではなく、相手にこうなって欲しい、という自分の意志を持って発言するようになってきたなあ、と思います。

 

 

▼第二段階としての、理由及び、そう考えたきっかけ、原因を述べると、お互いに認識ミス、把握ミスがなくなる

「さっきの発言の理由は、こうだったから」

ってよく、人狼ゲームでは信じてもらいたい時、または人狼で相手を騙したいときに、自分の行動理由について上記の感じで説明したりします。

これを最近夫婦でもよくやるようになった気がします(笑)

これをやっておくと、発言の意図の勘違いによる喧嘩、というか意思疎通の不一致が起きにくくなります。

そもそも、もともとの人生におけるゴールや目標地点が似たもの同士である夫婦。基本的には、お互い意見は基本的には一致するはず。ただし、その手法であったり、ゴールまでの行き方は無限にあるし、どんなときにどんな道を選ぶか、というのはそのときの状況から二人で判断すべき事。

この、どんな道を選ぶか、というところで、お互いに自主的に意見を整理して述べる事ができると、かなり話し合いはスムーズ。

かつ、人狼ゲームにおいても、まず第一段階できてない人から基本吊られる(意見を言わない、というところで狼か、市民であっても意見を持たないところから狼に利用される市民になってしまう危険から)し、その次に大事なのが、何か理由があって行動しているかという事。

何となく、であっても、「正直何となくだったよ」と、理由を明言できる人の方が信用されやすいというところから、きっかけ・原因・理由は必ず述べるようになりました。

 

 

人狼ゲームに限りませんが、こうした隠匿系のゲームを繰り返していると、コミュニケーション能力の大切さと、意見を述べる事の大切さを実感します。

そうでないと、とりあえず信用してもらえない。

案外外交、他海外との仕事の仕方とかも、こういうことなのかも知れないなーとも思います。

そりゃあ、黙ってて何考えているか分かんなかったら、仲間だとは思えないよね。日本人的だから、とかではなく、仕事の場ではちゃんと仕事してよってことだと思います。

 

というわけで、普段は東北人らしく控えめですが、言うときは言える人間になれてきたかなーと何となく自分の成長を感じる最近です。

 

 

最近流行のボードゲームカフェに行ってきた

 

友達数人でボードゲームをやる約束をしていたのですが、GMゲームマスター)をやってくれる友達がインフルエンザの為、リスケ。

元々私の家で集まってやる予定でしたが、GMがいないため予定していたボードゲームGMが持っているし、ということで、普段やったことのないゲームをしに行こう、ということでボードゲームカフェにいくことになりました。

kuro-yan.hatenablog.com

以前は友達の家で色々なゲームをやっていて、ボードゲームカフェも気になっていたのですが、ついにデビューです^^

 

今回のラインナップはこちら

▼デセプション

▼ハコ女

▼キングドミノ

バトルライン

 

 

 

▼デセプション

jellyjellycafe.com

犯人側は残された証拠カードと凶器を選び、調査員側はGMが提示したヒントカードから、犯人が残した証拠と凶器カードのペアがどれなのか、推理します。

考察力と、普段その人がどんな考え方をするのか、という相手の視点に立つ力が要求されるゲームでした。

 

 

▼ハコ女

www.comonox.com

とりあえず絵が怖過ぎ(笑)これは、とある1作者がせっせと作った物らしく、出回っている量が少ないとか。

ルールもかなり複雑で、今回はルール把握でかなり時間を消耗してしまいました。次回はもっとルールをきちんと把握し、ゲームを楽しみたいです。

 

 

▼キングドミノ

boku-boardgame.net

ハコオンナの次に選んだのはこんなほっこり系の絵柄のゲーム。5×5の陣地を作って行くのですが、算数、数学で言うところの、図形、量と測定などの力が試されます。

私は計算がとても遅いため、他メンバーに圧倒的な点差で負け続けました(笑)(計算、情報処理系は本当に苦手。そして情報処理速度も遅い)

他メンバーが圧倒的に情報処理が得意な人達だったせいもあるかもしれませんね(笑)ルールはハコオンナとは違って、かけ算が理解できれば小学生でもできるくらい単純でした。

 

バトルライン


www.tk-game-diary.net

ポーカーを何戦もやっているようなゲーム。陣地を取り合うのですが、その陣地を取り合う勝敗を決めるのが、カードの絵柄をどうそろえたか、というところから。

トランプのポーカーと違うのは、戦略カードというものによって、相手のカードを奪ったり、UNOのように、何にでも使えるカードが混ざっていたりするところ。(あ、ジョーカーみたいなものですかね?)

先にかえった友人に残された2人でプレイしました。キングドミノでは圧倒的に負けましたが、これは2戦中1勝する事ができました(笑)

相手がどんなカードを揃えにきているのか、自分の手札を見ながら確立も考えるゲームでした。

 

 

5時間くらいぶっ続けでゲームをしていたのですが、かなりあっという間に時間が経っていました。

今回は相席等はしなかったのですが、次回少人数で行く事があれば、相席なんかもしてみたいですね。

 

 

 

 

ちょっぴり私を大人にしてくれた高畑監督の作品たち

 

高畑勲監督が他界され、今日は金曜ロードショーにて『火垂るの墓』が追悼放映されました。

おもひでぽろぽろ』とか『平成狸合戦ぽんぽこ』とか、なんなら直近で監督をしている、『かぐや姫』とか、色々あると思うのですが、やっぱりこれが選ばれる、というのはなんやかんや、色んな世代の心に響いた国民的作品、だったからなんでしょうかね。

金曜ロードショーの時間帯がもう少し早い時間であれば、『パンダコパンダ』とかもありなんじゃないかなあ、とかって私は思いました(笑)あんな愉快な作品もないと思う(笑)ちょっと最近流行ってる、『ポプテピピック』とテンションだけなら似ているのでは?と思ったり^0^

※宮崎監督だったら何になるんでしょう。もはや1ヶ月かけて、『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』、そして多分監督の個人的思い入れが強そうな『風立ちぬ』の辺りなんでしょうかね。

 

色々な作品がありますが、高畑監督作品の多くで、私はちょっぴり大人になれたなあ、と感じます。

 

▼『おもひでぽろぽろ

言わずもがな、のザ・日本の田舎、の映像はもちろんですが、そこに住む人達の心情、都会から移住しようとしている主人公の心情も含めて、過去でも未来でも、今後自分探しをしたい人が導入として観ておくといいのでは?と思う作品です。

田舎をキレイに描いた作品はたくさんありますが、映像だけでなく、音や登場人物達の行動、心の移り変わり等、旅をする、ということがなかなかに奥深く描かれています。

旅の仕方が、日本人っぽく短期間滞在、とか買い物・観光、に絞らず、10日間という日本ではわりと長期で、かつ田舎の家にホームステイ的に滞在する、という欧米系の夏休みの過ごし方のようなのもポイント。

そんな旅と共に、現代の日本人、というか、先進国に住む人達みんなの悩みを、主人公のタエ子が背負っているように描かれています。

もやもやしたままの恋愛、学級委員の女の子のようにモノをはっきり言う事、お父さんに反対されてそれっきりの演劇のチャンス、ハナタレ阿部くんとのこと。

それぞれが何か、見て見ぬふりをしてしまっているような現実と向き合う、というのは特別に難しい事ではなくて、タエ子のように、きちんと過去を話せるか、話せるくらい消化できているか、というのを、しゃべりながら確認する作業なのかもしれない、と感じました。

『自分探し』は究極的には『自分と対話する』ことなんだなあ、ということを考えさせられた作品です。

 

▼『平成狸合戦ぽんぽこ

自然との共生、というのは人間の私達もよく使う言葉で、それを逆の立場から描く、というのはなるほど、画期的だし、神様が複数いる(八百万の神)っていう価値観の日本でしかなかなか描けない設定だなあ、と感じました。(他の宗教下でも描けるかもしれませんが、説得力が足りなくなりそう)

また、「自然を守ろう」「環境を守ろう」という言葉を非常にうまく、批判している作品だとも感じました。

「人間も少しは残してやる」
「僕らも花や木と同じなんだ」

自然を守ろう、という言葉は、使い方を間違えれば、「人間は自然なものではない」と言っているようにも聞こえます。実際、そういった意味合いで捉えている人も、今は少ないかもしれませんが、環境問題が認識され始めていた時代は多かったのではないでしょうか。

※この世から人間がいなくなれば良い、少なくなれば良い、と思っている環境問題の学者さんもいたりする。

けれども、たぬき達が言うように、「僕らも花や木と同じ」ということは、「人間も花や木と同じ」なのであって、常に共に生きる、共に在るためにはどうしたらいいのだろう、というのが、本当の意味での「自然との共生」、というのがこの台詞から感じる事ができました。

 

また、繰り返し観るうちに、自然との共生、というテーマは、狭い島国で、先進国でありながら、自然が身近にならざるを得ない環境で暮らす日本人だからこそ、結構身近なテーマなんだな、とも思いました。

 

▼『かぐや姫の物語

賛否両論ありましたが、私は好きです。これ。

感想ブログを徘徊してみると、そもそも「罪と罰」って何?とか、欧米系ウケを狙っての「罪と罰」にしたのか?とか何のサスペンス?みたいな感想が多かったのですが、

そもそもかぐや姫は、月で罪を犯した罰として、地球に送られた。みたいな一節があって、そこから、かぐや姫罪と罰とはなんぞや、という研究が数多くあるのは、文学系、古典系をかじったことのある人には結構メジャーな事実。

ci.nii.ac.jp

日本最古の物語、と言われる竹取物語。そもそもかぐや姫に献上される宝の数々、とか、それらを持ってくる男達は何の象徴だったのか、とか、帝の権力、とか、色々探求される幅が広い作品でもあります。

(こういう文学研究って、基本世の中の役に立っていないよね、と言われがちですが、竹取物語終盤の描写から、富士山の噴火時期や噴火の様子を知る為の資料として活用されていたりしますよね)

 

さて、この作品、もちろんかぐや姫は月での罪を忘れて地球に送り込まれます。

地球を楽しむかぐや姫ですが、物欲、権威欲の波が押し寄せてからはその暮らしぶりは一転します。

家も、綺麗な服も、そしてたくさんの男達から言いよられて、一見幸せであるはずなのに、かぐや姫はちっとも楽しさを感じる事ができません。

それはかぐや姫にとっての、本当の幸せ、というのが別のところにあったから、なのでしょう。

それは私達、特に先進国に住む人に言える事なのかもしれません。

数えきれないものに囲まれ、食べきれない程の食料に囲まれ、私達は本当に幸せになれたのだろうか。もちろん幸せな人もいるでしょう。けれども、それらに疑問を持っている人も少なからずいますし、ある意味ミレニアル世代はそういう世代になるでしょう。

 

「それって本当に幸せですか?」

というメッセージが投げかけられているように感じました。

これらのことから、かぐや姫の罪とは、月にて物欲、権威欲、などの欲を持って、それを強く持ちすぎた事から、それを強く持つという事は、どうなることなのか身を以て知るが良い、的な感じで地球に送還。

そして地球での罰は、最初に自分の心の赴くままに感じていたことは幸せでも、それ以上を望んだり、己の欲に振り回されれば、痛い目を見るんだよ。

ということを感じる事だったのかなあ、と思いました。

 

・・・・・・・というのは初見で思った事で、2度、3度と観るたびに、いろいろなことを考えさせられる、という意味で、飽きない、というところで「かぐや姫の物語」は結構好きです。 『竹取物語』ではなく『かぐや姫の物語』というタイトルにした辺りにも、意図を感じます。

 

 

どの作品も、「ああ、面白かった」だけで終らないからこそ、いつも私自身に問いをくれて、少しずつ、私を大人にしてくれるのかなあ、と思います。

それが、絵やストーリーだけでなく、登場人物達の心への注目度が高いからこそ、観賞後に自己と向き合う時間が充実するのかもしれません。

 

素敵な作品をありがとう、監督。

 

 

夫が言う、本好きなやつあんま好きじゃない、の理由がなんとなく分かった出来事

 

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私は読書が好きです。

どれくらい好きかというと、小学生の時、毎年学年、学校の読書賞(たくさん読んだ、借りた)はとりあえずもらっていたし、それは中学校、そして高校生になるまで続きました。

図書館も本屋さんも好きで、自分が住んでいる場所には本屋さんがなかったせいか、高校生以後の人生では、引っ越した後、まず一番近所の図書館で図書カードを作るのと、周辺の本屋さん探索をすることは欠かさず行っています。

 

なぜ好きなのか。

情報が閉鎖された超・ど田舎社会の中で、私の冒険心を満たす為に必要だった栄養剤的ポジションだったんじゃないかと、思います。

その後、旅が自由にできるようになってからは、本を読む事よりも実際の体験や経験の方を重視するようになったので。

 

 

さて、そんな本好きな私は、まだ彼氏ができたことがない純情乙女時代、付き合うなら本が好きな人がいいな、とぼんやり思っていました。

そう、学生時代といえば、ハキハキ喋る子、体育会系の子は大抵あまり本を読んでいません。

私としては、同じ体育会系同士、ランニングしたりできるのは楽しいのですが、やっぱり普段の会話が合わないと辛いだろう、そう思って、本を読まない人よりは、ちょっとずつでもいいから読む人がいいな、と思っていました。

 

が、ふたを開けてみて、夫(この時点ではまだ彼氏)に、私、本を読むのが好き、と言ったところ、

「俺、本、あんまり好きじゃないんだよね」

とのお返事。

 

正直この時点で、かなり夫の事が大好きだったし、色々な意味で衝撃を受けました。

というのも、かなり色んな事に関して知識が広く、深い彼は一体、何から学んだんだ、という謎と、そこそこ勉強ができる人って本が好きなイメージがあったので、それを初めて裏切られたからです。

 

しかしよくよく話を聞いてみると、

「本自体っていうか、本をたくさん読んでる人種が苦手なのかも」

とのこと。

ここまで言われても、私の中では?マーク。

 

そのときの会話は、本好きな私としては引き下がれず、なんやかんやとありましたが、

「本を読む事は大事だと思うけれど、それ以上に実際の経験も大事」

という夫の言葉で、それは私もそう思う、で一致し、会話は終了しました。

 

 

それでもやっぱり

『本をたくさん読んでいる人って基本的にいい人、視野が広い人』

だと思っていた私でしたが、先日、

ああ、夫はこういう人のことを指して、本をたくさん読んでる人種が苦手って思ったのかな、っていう人と出会いました。

 

 ▼本の世界を全てだと思っている

これを読んでないとか、ありえない。とまではいかないけれど、そういう雰囲気だしてきたり、とにかく本が中心でした。

これはあれに似てました。◯◯が好きって言って、どれくらい好きなんだよ?と試してくる系のオタク。試してきて、ちょっと分からない事があろうものなら、その程度で好きを名乗るな、的な圧をかけてくるタイプの人。

もちろん本が世界の全てでもいいと思うのですが、数人が集まって会話をする場で、それって相手の事を考えてる?傷つけてない?と冷や冷やしてしまいました。

 

▼TPOについて考えられるかどうか

超・田舎では、そもそも本を読んでいるのが勉強好きな人しかおらず、それもちびまるこちゃんのまるお君タイプ、というよりも、長山くんタイプ(知っている事をみんなに惜しみなく教えてくれる。しかも嫌味じゃない)が多かったし、その後、大学で出会った読書マニアキャラの子達も、着物着てたり、古本屋に毎日通ってたり、かなり突き抜けていたけれど、「本が好きで読書するけれど、僕は本しか知らないから」と言って、相手の話を聞きながら、「それってこういう本があって、こういう話なんだけど似てる?」とか、さり気なく、でも聞き手にも発見や面白みがあるようなことを話してくれるタイプでした。

先日出会った、試してくる系のオタクの方と、大学で出会った読書マニアキャラの友達。風貌もキャラも非常に良く似ているのですが、決定的な違いは、「相手への気遣い」だったように思います。

会話している相手が楽しんでくれているかな、っていう視点。

一人でネットに書き込んでいる分には何をどう、弾丸トークしようが自由かなと思うのですが、人と人の会話、はキャッチボールがあってこそ。

それって掲示板にその文章貼付けてみてもらうだけでもいいんじゃない?という口調だと、せっかくリアルに会って話す時間を作った労力がもったいない、と思ってしまいました。

別に言葉遣いとか、話すのが下手、とかそういうのは私的には割とどうでもいい(だって極論自分が外国人と英語でそれやれって言われたら、絶対たどたどしくなるし)のですが、その場がどんな場か、自分ばかりが楽しんで相手がつまらない場になっていないか(一方的にお金を払ってそういう場を提供してもらっているホストとかキャバクラとかなら別ですが)、という視点をもつことこそ、TPOについて考える、ということなのでは、と思います。

 

 

▼そして経験を軽視してくる

たまたま本好きな人が集まる会に行ったのですが、少ない参加人数の割には、そういうタイプの人がちらほらいたため、なるほど、夫が言っていた、苦手、というのはこういうことか、と思い、確かに、本が好き、という集まり以外では見かけた事のないタイプの人達だなあ、と感じました。

それはそれで、今日彼ら、彼女達はどんな有意義な時間にしようと私には関係ないので、基本的に聴き専で彼らの話は聞いていたのですが、その後のフリートーク中に、びっくり発言がいくつか。

普段あまり本は読まないけれど、色々な場所に旅をしていた女の子が、その経験談を話したときに、一方は、それはたまたまだったんじゃない、とか、一方は、普通こうだよね、とか。自分が本で得た知識のごり押し。

それって外国に友達が一人もいないせいで、国内に卸された本だけを読んで、外国人たちはトンデモないやつらだ、と思い込むのと同じような事ではないか!と唖然としてしまいました。

スターウォーズを始め、戦争物で大抵描かれている、戦争の始まり、にそっくりだな、と思いました。

(大抵の戦争物の、戦争の火種は、伝聞のちょっとした受け取り間違え、伝聞の順番ミス、陰謀を企んだやつが伝聞を隠す、とかそういうところからはじまる)

 

 

帰宅後、あった出来事を話すと、

そうそう、俺の周りの読書好きって大抵そんなやつばっかりで、苦手だったんだよ。

と。

なるほどね、と納得。

いかんせん出会ってきた人間の数の母数が違うので、こういう人はこんな感じ、という私の第一印象はやっぱり当てにならないな、とも思ったし、夫は夫で、私みたいな読書好きタイプとも出会った訳で、

やっぱり人間、こういう人は大抵こう!という決めつけをせず、その人自身がどういう人間か、というところをしっかり観察できる人になりたいな、と思いました。

 

慣習を壊すという経験について

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仕事をする中で、学校に通う中で、時にこれまでの慣習を変更しなければ行けない場面に直面する事がある。

それは時には良い慣習であることもあるけれど、大抵は「今」「現在」では悪い慣習だと考えられる事が多いだろう。

そう、昔はそれがよかったし、それがベストだったもの、だろうけれども、「今」「現在」という視点から見ると、今いる人たちにとって精神的に害悪であったり、状況が変わって、それがベストではなくなったりしていることがある。

 

そして大抵、慣習を壊す側というのは、大変なエネルギーが必要な上に、批判を受け易い立場になる事が多い。

これまでとは違う、今、現在に合うベストを探そうと冒険する人は、出る杭は打たれる、ということでまず叩かれる。

それは人類が冒険者達に必ずしも好意的でなかった歴史が証明している。鑑真にしろ、マルコポーロにしろ、その探検の苦労、苦しみは当時から考えれば、とてもじゃないけれど、普通の人には真似できない、と考えられるような苦行に近いものだったようだ。周囲の反対を押し切った上でなおかつそういった行動に移せるエネルギーはいったいどこから湧いていたのか、見習いたい。

また、天動説ではなく地動説を唱えた人は裁判にかけられたし、人類の祖先が猿だった、といた人も大変な迫害を受けたという。彼らは違う考え方を追求しようとした、知の冒険者達だ。

今の日本はこうした違う考え方を追求していても、命が危険に晒されるレベルにはそうそういかないから、そう言う意味では今の方が慣習は壊し易いのかもしれない。

 

多分、誰しもとまではいかなくても、多くの人が、小さい頃か大人になってからか、とにかくどこかで、「慣習が壊れる瞬間」に立ち会った事があるのではないだろうか。

時に慣習を守る側だったり、時に慣習を壊す側だったり。はたまたその状況を冷静に俯瞰していただけの人もいるのかもしれない。

 

どちらの立場になった事も、そこそこ覚えているが、どちらかというと冒険心がある私は、慣習を壊す側になることが多かった。

 

先日、学生時代の先輩が飲みの席で語っていた一言から、「慣習を壊すということ」について考えさせられた。

 

先輩は当時の状況をこう言った。

「私達の頃は、そんなことほいほいできなかったから、今は良い時代だよね」

 

私は、先輩の言う、「そんなこと」をほいほいできるようにした立場にあったため、「えっ!?そうだったの?」という衝撃と、当時、「そんなこと」をするための許可事体は、実はあっさりおりて、どっちかっていうと慣習を守りたい側の圧迫がすごかった記憶が強かったので、何があったのか、(私が手を出す前に誰かが挑戦していたのか)詳しい経緯が知りたくなって、話を聞いてみた。

 

すると、その先輩の話では、やってみてさえいない、という事が分かった。

 

私は、適当に相槌を打って、その話はおしまいにしてしまったけれど、

日本における大抵の慣習はこうやって守られているのかもしれない、と思った。

 

慣習を頑に守ってきた先輩達でさえ、「今の状況の方がいい」「恵まれている」ということがとてもよいと思っていて、かつ自分たちの時代もそうだったらよかったのに、と思っている。

けれども私は慣習を壊す側だったからよく覚えているが、許可は正式におりたのに、頑に拒否していたのはそんな上の世代の人達だ。

 

つまり、

・大抵、やってみた、試みた事はない

・実は本音はそうしたいと思っている(けど下の者に変えられることに反発心がある?)

 

きっとこれからの時代、これまでの「当たり前」を疑えるということがとても大きな能力の一つになっていくと思う。

今、私達が使っているシステムだったり、道具のほとんどが、「当たり前」の外で生まれたものだからだ。

 

そもそも宇宙や、地球や、人間が生まれた事だって、バラバラにした時計の部品をプールに投げ込んで、混ぜているうちに組み上がった、くらいの奇跡的なこと、という風に言われている。

大体の物事の起こりは、そうした偶然、奇跡でできあがっているのであれば、慣習だって、大抵偶然にできて、奇跡で壊れる。

だから、もしも今、何かの「当たり前」や「慣習」と戦うときがきたら、もしくは戦っている最中だとしたら、あきらめずに、道を歩き続けてみて欲しい、と心から思う。