くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

「上り」でも「下り」でもない坂を歩いた、私の『受験』の思い出

f:id:kuro-yan:20180121103542j:plain

 

今週のお題「受験」

 

高校受験よりも大学受験の方が記憶に残っているのは、記憶として新しい方であるから、というよりも、高校よりも必死に頑張った事と、その後に発生した奇跡的な出来事のせいかもしれない。

 

私は大学に行きたい、だから高校に行く。という決め方で行く高校を決めていたので、大学へ進学する事に関しての迷いはほぼ無かった。

大学に入る前から、卒論(というか論文)を書きたいという思いをもっていたという意味では、かなり稀な受験生だったかもしれない。

本を読みたい。もっと世界を知りたいという知的好奇心に溢れる私は、とにかく大学に行きたいと、中学生の頃から思っていた。

迷いは無かった。

 

専攻したい方面については迷いながらも最終的には教育系に決めて、夏の大会で部活を引退してからは猛烈に勉強に励んだ。

 

正直そこまで賢くもない私だったくせに、なぜか進学校の癖に年に休みは3日だけ、という鬼のような部活動に入部し、部長をこなすうちに、最初こそ学年でど真ん中くらいの学力だったのが、受験生となる3年時にはギリギリ中の下くらいとなっていた。

 

模試を受けると偏差値はぴったり50か、科目によっては50いかないくらい。まあ、スタートは割と普通だったかもしれない。

 

けれども、学費節約の為に、国立しか受験しない、といういつの時代の受験生だよという方針を決めてからは鬼のように勉強した。

自分が勉強したい分野は国立でも十分だという理由と、親に通帳を渡されていて、それでなんとかしろ、と言われていた通帳の中身だと、私立に行く場合、アルバイトをしないと、旅行にも手軽に行けない財務状況になる事が分かったためだった。

 

特に国立にしろ私立にしろ、一人暮らしをしなければいけなかった私にとって、名のある私立の立地はどこも家賃が割高の都市部に限られる事が大きな要因だった。

しかも受験料も高いし、受験した後の入学する前の前金みたいなのも高い。何もかもが高額で、国立にしよう、と心に決めた。

 

 

毎日十時間以上勉強していた。

朝5時に起きて、弁当を作り(我が家は母が朝が弱い、という理由で自主的に朝早く学校に行きたい場合のお弁当は自分で作るルールとなっていた)、5時30分頃の始発に乗って高校に行き、教室もしくは自習室で、学校が閉まる夜7時まで勉強していた。

その後は近くの空いたカフェで一時間半ほど勉強し、9時30分頃帰宅。

すぐ風呂に入り眠る。

電車に乗っている一時間もひたすら勉強に充てるという、どこかの修行僧のような生活だったように思う。

部活をとことんやった分、自分はかなり遅れている、と思ってひたすら勉強にうちこんだ。

 

センター試験を受ける頃には、国立大学の合格ラインに届くほどになっていた。あとはセンターの結果次第で、どこの国立大学にしぼるか決めるだけだった。

 

ここまでで特に何か劇的な事は無い。

ただ私が修行僧のような生活を送っていた事くらいだ。この生活で第六感が開花した訳ではないと思うけれど、この後思わぬ展開が待っていた。

 

 

センター試験が終わった後の三者面談で、その決断は執り行われた。

 

地価が安くて、東京へのアクセスも悪くなりすぎない(海外旅行にたくさん行きたいと思っていたので)、なおかつ自分が取得したい資格やらを総合して、国立大のA大とB大まで絞られた。

A大よりはB大の方が、偏差値が結構高めだったことと、私が私立を受けないことを加えて、絶対安全パイということで先生も親もA大をすすめた。

 

悪くないと思ったけれど、私はB大も中々魅力的で、捨てきれなかった。

 

そこで私は、今時分で客観的に考えれば、自分でも自分を止めてしまうかもしれない受験プランを担任と親に提案した。

 

前期試験はA大、後期試験はB大

 

 

普通、逆である。

大体前期で挑戦、後期には安全パイの志望校を配置して、勝負に挑む。

これは大富豪で、まだプレイヤーは人数いるのに、最後のカードが3とキングだけの状態でキングを出し、もしも他のプレイヤーが一人でもこれより上を持っていたら終わりだぜっていう状態だ。

 

先生も止めた。親も止めた。

だって、どう考えてもギャンブルのそれと同じような行動をとっている。

 

だが、先生も親も納得せざるを得ない数字もそこにあった。

 

どちらの大学の判定も、とても良かったのだ。

 

 

落ちるはずが無い。

 

 

そんな数字がそこに出ていた。

センターがちゃんと頑張れていた。

 

 

しかもA大もB大も当時はなぜか小論だけだった。

さらに小論はとある予備校の模範解答に選ばれるくらい、なぜか得意だった。多分記述が向いていたのだと思う。

(今思えば、小論に限らず、数学も国語も記述式の試験が得意だったから先生は私立を熱心にすすめてくれたのかもしれない…)

 

というわけで、小論に加えてセンター試験の得点がよかったという事実から、私は前期A大、後期B大を受ける事を決めた。

 

出願前に何度も確認されたけれど、なぜか私は頑に押し通した。なぜあんなに頑だったのかは今となっても説明付かない。

 

 

 

結果として、私はA大に落ちた。

 

 

 

その時点から先生は浪人生モードで私に接してきた。

そりゃそうだ。

絶対大丈夫と思っていたA大が落ちたのだ。

しかも私よりもセンターが低い子が受かっていたことを知る先生は、センターでマークシートミスかなんかがあったのだろう、と原因をセンターに見た。

マークシートのミスならセンターの得点は超絶低い。

 

私自身も浪人モードに入った。

センターでミスっているなら、よりレベルが高いB大なんて、受かりっこ無い。

 

 

B大も受けに行ったけれど、記念受験だと思って行った。

 

 

 

終わってから私は春休みを楽しもうと、遊んでいた。

なにしろ仙人……修行僧のような日々を送っていたのだ。一度、はめを外しておかないともう一年なんて頑張れない。

 

 

B大の発表の日も、友達と街に遊びに行っていた。

合格発表は帰宅してからみようと思っていた。

 

 

 

 

けれどもそうはならなかった。

 

友達と遊んでいる時、母親から電話があった。

 

 

 

 

 

 

 

あんた、B大受かってるわよ

 

 

 

 

 

 

え?

 

 

 

 

 

 

春から大学生?

 

 

 

 

 

春から大学生になることが決まっていた一緒に遊んでいた友達は祝福してくれた。

 

私はしばらく夢なんじゃないかと思っていた。

 

 

担任の先生に連絡すると、

前代未聞だと驚いていた。

そして言われた。

「あのときのお前の一見、ばかだなあ、と思う提案を否定しなくてよかった」

と。

 

 

慌ただしく部屋を決め、慌ただしく入学の準備をして、四月に私は大学生になった。

 

ちなみにセンターの自己採点ミスはなかった。だからもう、ただただ、A大に縁がなかったのだろう。小論の内容が気に食わなかったのかもしれない。

 

 

あの時、頑にB大を、後期に回してまで受けたかった私の決断は、今でもやっぱり謎だ。謎の自信にあふれていた。

いや、自信あるなら前期で受けろよって感じだけど。とにかく後期に受けたかったのだ。

自分でも自分で自分の決断を否定しなくて良かったと思った。

 

確実にあの三者面談で、自分の第六感的直感は働いていたんだと思う。それくらい、変な受験の仕方だった。

 

 

あの後、ふと、卒業式でとあるお偉いさんが短めに語った、卒業生への言葉が頭の中をぐるぐるしていた。

 

『人生の3つの坂』という話しだった。面白くて、今でも覚えているんだから、あのお偉いさんはすごい話し上手だったのかもしれない。

 

人生には3つの坂がある。

1つめは上り坂。辛い時、部活動や勉強を頑張っていて、でも結果が中々出なかった時、それは上り坂をひたすら登っているように、辛いときも会ったと思う。人生においてもそれは存在する。辛い時ってある。

2つめは下り坂。何か成功しているとき、楽チンな時ってあるよね。そういう時は下り坂。楽だけど、スピードをつけすぎると事故になるから気をつけなさいよ。

 

んで、3つめ。

 

3つめって何だと思う?

 

上りも下りもでちゃったよね。

 

 

3つめはね、「まさか」(ま坂)です。

生きていると、上ったり下ったりする他に、「まさか!」

って出来事があるんだよ。

ホント、唐突にそれは訪れる。

 

いつも突然起こるから事前に対応っていってもなかなかできない。

 

まあ、備えても備えてもやってくるのが「まさか!」だからね。

 

でも、人生この「まさか!」って時が人間の本性が出るんだよ。

「まさか!」って時に、どんな行動をとれるか、どんな考え方をする事が出来るか、それで「まさか!」はよくもなるし、わるくもなる。

人生のボーナストラップみたいなもんなんだよ。

 

 

こんな感じの話しだった。

 

私はA大に落ちた時が一度目の「まさか!」だった。

 

やる気を失ったものの、B大をきちんと受けに行ったからこそ、チャンスはきちんと繋がった。

そして、私の修行僧のような半年間の努力はちゃんと報われた。

B大が受かったのは嬉しい「まさか!」

 

 

大人になった今ではもう全てが笑い話で、小さい話しに見えてしまうんだけれど、あのときには本当に受験は世界の全てだったし、それに人生をかけていた。

 

成功したから笑い話って思うかもしれないけれど、

多分これでB大が落ちていたとしても、後悔はしなかったと思う。

 

それは自分で決断した事だったから。

 

私は修行僧のように生活を積み重ねた受験という試練から、何よりも、自分で決める事の大切さ、を実感したのかもしれない。 

たったそれだけ、かもしれないけれど、とても大きな、私にとってはとても価値のある、「たったそれだけ」だ。

 

先生や親には、私に決断させてくれてありがとう。と伝えたい。

 

 

 

宮崎監督が描く『大人』が格好良すぎると思うことについて

 

映画ネタなのでネタバレ注意です。

 

今日の金曜ロードショールパン三世 カリオストロの城

実はあの宮崎駿監督の初監督アニメ映画なんですね。これでデビューしていたとは...

そう思ってみると、遺跡の描き方とか、あと飛行機のシーンのこだわりとか、気になってついチェックしてしまいました。飛行機の描き方はさすがですね。

建物や人に飛行機が近づいたときの様子の画角って言えば良いんでしょうか、どこから見た絵を撮るか(描くか)っていうセンスがきっと良いんだろうなあと思いました。絵なのにあの臨場感はやっぱりすごい。

 

さて、原作ルパンファンからは、色々いいけど、ルパンがかっこ良すぎる(いい人すぎる)、みたいなクレームが入ったりなかったりするそうなんですが、今回のルパンに限らず、宮崎監督が描く大人ってみんなすごくかっこいいな、と思いました。

(悪役ではない大人に限りますが(笑))

(いや、悪役でもムスカ様はかっこいい、とか例外もありそうですが)

 

宮崎監督が描く作品のほとんどって、十代が主人公。

ナウシカもそうだし、シータもパズーも、千尋も。

彼らはみんな大冒険を乗り越えて、世界に対して対峙する立場として描かれている事も多い。

個人的には、「十代は思いきり冒険せよ」という宮崎監督からのメッセージなのかなあ、と受け取っています。アホやってもバカやっても、十代だしなって周りも寛容になれるし、十代でしか感じられないものや、十代のときにしか持っていない感性っていうのがあるとも思います。

 

けれども二十代以降のいわゆる大人な人達はすごくかっこいいです。

まず、代表者はこの人でしょう。

 紅の豚』のポルコ

ポルコ以外でも、ジーナさんも素敵なヒロイン。

 

それから

風の谷のナウシカクシャナ クシャナの画像は検索してください...

ナウシカと方向性は違えど、民からの信頼を集めるカリスマ性には私も惚れそうです。

 

 

天空の城ラピュタドーラ

この人が主人公でも十分物語は成立する気がする、と思っているという日記を以前に書きました(笑)

kuro-yan.hatenablog.com

「30秒で支度しな」はもう偉人の名言として登録したいくらい。

 

 

他にもあげたらきりがないくらい、サブキャラにもかっこいい大人キャラ、というのが宮崎監督作品にはいっぱい。

 

 

なぜかっこいいのか、かっこよくみえるのか。

これらの登場人物に共通していることを考えてみました。

 

・自分自身の信念(貫き通したいもの)を一本持っていて、人間としての芯ができている(子ども、十代は逆にこれがない故に柔軟とも言える)

・芯が通っているので、当たり前だけどきちんと自立している。(社会に対しても家族に対しても)

 

 

思えば、『風立ちぬ』の主人公達も、描かれていたのは学生ですが、終盤の頃は二人とも芯がきちんとあって、すごく素敵な大人に見えました。

ムスカ大佐もある意味芯が通っているので、なんだか格好良く見えてしまう面もあるのでしょう。(ただ個人的にはラピュタという存在に対して依存しているので、真に自立はしていないのかもしれない、と思う。そこが悪役の宿命?)

 

子ども達に向けて、ああいう大人になりたいっていう理想像を植え付けているのを狙っているんだとしたらすごいなあ。

 

私の、「これがないと困る!」モノ、リスト

 

どろんぱ豆さんの記事に触発されて、考えてみました。

私の「これがないと困る!」もの。

doronpa316.hatenablog.com

 

 

スターウォーズジェダイに憧れる私は、執着を捨てよ、というヨーダ様のお言葉に従って、あんまりモノに執着しないで暮らしたいなあ、とは思いつつも、個人的にはこれがないと困るっていうものが意外とありました。

(なきゃないで工夫するんでしょうけど……)

 

1. JETSTREAMの黒ボールペン

 

1本あたりの価格が安いのに、書き心地が大満足。学生時代はSARASAを使っていた時期も長かったのですが、今はもうJETSTREAM一択。

さらっと書ける書き心地もいいし、すぐに乾くので手に付く、みたいなこともないです。

ボールペンってちゃんとこだわると、本当に書くスピードが違う!というのは前職で素早く書く仕事が多かったときに痛感しました。

本当にボールペンによって書ける最高速度は変わります。はい。

 

 

2. 本、上橋菜穂子著『獣の奏者

私にとって、何かに落ち込んだときに処方する薬のような役割を果たしてもらっています。主人公および、その周りの登場人物達の言葉や見える景色に安らいだり、勇気をもらったり、色々です。

将来はジョウンのように暮らしたいな、と妄想に使ったりもします。

読み返しすぎて、記憶力の悪さに定評のある私が台詞を覚え始めました。

 

 

3.温泉

f:id:kuro-yan:20180119153032j:plain

定期的に温泉に入りたくなります。自転車旅の途中とかで温泉に入る機会があったりするんですが、入浴後は本当に足が軽くなり、すいすい漕げるようになります。本当に温泉って体を癒す効果があるんですよね。

アルカリ系よりも酸性よりの方が好みです。肌にぴりっと来る感覚が癖になっています。

 

 

断捨離やらなんやらをしてからだいぶすっきりした暮らしを続けたせいか、モノというよりも本だったり、温泉だったり、というコトに近い物が一番に思いつきました。

もうモノのほとんどはシェアが出来る時代ですもんね。

旨くシェアを活用して、生活は楽ちんで楽しく、でも持ち物はすっきり、という暮らしが出来たら良いなあと思います。

 

 

先輩の一言から、情報弱者、とはどういう状況の事か考えてみた

 

f:id:kuro-yan:20180118114859j:plain

先日、出産をした先輩が確定申告について話していた。

今の世の中、申告すれば戻ってくる税金はたくさんあったりする場合もあるのに、面倒くさがってやらない人もいるんだろうな。

やっぱり勉強するって大事だな。

と仰っていて、共感すると同時に、『情報弱者』という存在について考えさせられた。

 

 

情報弱者、と聞くと同時に情報格差というワードも思い浮かんだけれど、どう違うのだろう』

ウィキペデアでさくっと検索してみると、

情報弱者

情報環境が良くない場所に住んでいたり、情報リテラシーメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でない為に、テレビやインターネット等からひるような情報を教授てきていない、

という人(つまり情報格差がある人)が、各種の情報に疎くて上手に立ち回れていない状態の事

 

らしい。

つまり、情報格差状態にある人を総称しているのが情報弱者ということになるのかな。

 

言葉って難しいけれど、一旦『情報弱者』とはそういうこと、として話しを進める。

 

 

スマホによって全ての人にインターネットがあるような日本において、何故情弱と呼ばれる人達が多数生まれてしまうのだろうか』

もちろん経済的な理由、状況、等によって必ずしもそうならない人だっている。けれども、先ほどの先輩の確定申告の話しではないけれど、ある程度立派な企業に勤めているという人であっても、確定申告の医療控除の存在すら知らない人だって、結構いる。それは驚く程、多く。

こういうブログにアクセスするような層にはいないのだろうけれど、世の中に出てみると、驚くほど、自分が知っている事を他人が知らない事に気がつくし、その逆もまたしかり。

みんなしっかりと毎日を生きているけれど、思った以上に知らない事がある。大きな企業に勤めている人にだって、そう言う人がいたりするのだ。

 

一体なぜ。

 

様々な理由が考えられるのかもしれない。

  • 大学入学まで勉強を一生懸命したから、もう勉強はしなくても良いと思っている人が多い(そもそも学ぶ時間を会社がくれない状況にしている、という場合も多いかもしれないけれど)
  • 勉強は辛いだけだと思っている
  • 義務教育で教わった事だけ完璧にしていれば生きて行けるという思い込みがある
  • そもそも自分の年収や地位が平均と同じか、平均より上くらい、はたまた最下層ではないことに安心し、自分が知っている以上の知識の必要性を高く感じていない

 

公務員だって、一流の企業に勤めている人達だって、とても勉強は出来た人達だ。知ろうと思えば一瞬で知れるだろうし、学ぼうと思ったら誰よりも効率的に素早く学ぶ事が出来るだろう。

 

ここまで考えて、私は一つ考えた。

彼らは与えられた物を覚えたり、解決したりする方法は学習したけれど、自ら学習を続ける、というただ一つ、その能力のみをどこかに忘れてきてしまったのではないか、と。

 

 

『誰もがスマホを持っていても、地方にある情報格差が埋まらない訳は』

多くの人が言う。

もうインターネットがあって、Amazonがあるんだから、地方の人がその情報を知らない、というのは怠惰でしかない、と。

けれども地方の暮らしでは、情報を正しく得る手段をトレーニングする機会がかなり少ない。インターネットがあっても、検索ワードが思い浮かばない、調べ方が分からないという状況がかなり多く生まれている気がする。

 

これは家庭環境によってその子どもが学ぶことや考える事が変わってくることと似ていると思う。

家庭(つまり身近な大人たちとの関わり。ここでは父親と母親に限らない)で、海外ニュースの話しをしていれば、自然とWHOとか国連、なんて単語が子どもの耳に残って、いざそういう話しを耳にしたときに、自然と目が向いたりする。

人間、聞いた事のある物や、既視感があるものはやっぱり慣れているから自然に体が反応する。

毎日、ツムツムゲームの話しを聞いていれば、ディズニーのキャラの名称に耳が慣れる。

 

地方と都会という場所においても、そういう格差が存在していると私は思う。特に顕著なのが本屋さんだ。

 

私が都会に来て一番驚いて、そして毎日のように通うようになった場所の一つが本屋だ。

その時々で話題になっていることの参考本や、海外著者の訳本なんて、地方の本屋さんではなかなかお目にかかれない。

もしくはその道府県の中心まで行かないとやっぱりお目にかかれない。

 

そういったキーワードを知って、少し立ち読みできるような環境がそばにあるというだけで、私の生活はだいぶ変わった。

 

 

『つまり、情報弱者、とはどういう状況なのか。私なりの見解』

近所に本屋が一件もなかったような状況に育った私も、今、なんとか情報の波にうまく乗って、情報を活用して生きているとは思う。

よく、旅行に行くよね、どこにそんなお金があるの?といつも聞かれるけれど、

旅行の大体はポイントをうまく使ったり、航空券が安い時期に抑えたり、海外での宿泊はもっぱらAirbnbで、UberLyftもよく使う。実はそんなにお金をかけていない。

昨年は仮想通過も実際にやってみて、なかなか面白い勉強ができた

今、野菜が高騰して今月の食費ががやばいと言っている主婦には、定期的に届く野菜配送を勧めてみた。(定額でちゃんと今月も葉物が入っていました)

 

 

そんな私でも、やっぱり知らない事がたくさんあって、最近はエクセルの多重解析機能を知って、こんな便利なものがあったのかと感動したし、いつも購入していたくるみぼたんの髪留めが簡単に作れる事を知って、今後はお気に入りの布で自分で作ろうと思った。

(これまではお気に入りの柄を探す為にひたすら時間を割いていた。それはそれで楽しいけれど、それだけに時間をかけるのも、ね。時は金なり。だし)

 

大した学歴もないし、勉強も得意ではないけれど、自分がもっとこうしたいな、ということについて諦めないで、知り続けようとする姿勢を、私は大切にしていきたいと思っている。

 

ウィキペデアに書かれていた事をまとめれば、情報弱者

情報弱者→情報環境が良くない場所に住んでいたり、情報リテラシーメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でない為に、テレビやインターネット等からひるような情報を教授てきていない、

という人(つまり情報格差がある人)が、各種の情報に疎くて上手に立ち回れていない状態の事

 

になるのかもしれないけれど、色々考えた結果、

日本で言う多くの人の『情報弱者』というのは、

情報というものの価値を低く見積もって、学ぶ事を恐れたり、結果やめてしまった人

という意味なのかもしれない。

 

ヒラメの電気ショック漁ニュースを見て考えさせられた報道の在り方

f:id:kuro-yan:20180117090130j:plain

最近、朝のニュース番組を、テレ東のビジネスサテライトから、NHKのBSワールドニュースに切り替えました。

民放で流れるニュースは昔から得意ではありませんでした。というのも、芸能ニュースの比率が高いせいでしょうか。好きな芸能人がいればわくわくするのかもしれないけれど、興味のない私にとっては半分くらいがつまらない時間となってしまっていました。

 

引っ越してからはテレ東の朝のビジネスニュースが定番だったのですが、最近はNHKのBSワールドニュースにはまっています。

日本のニュースではなく、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ、韓国の現地ニュース番組が通訳と共に流れています。

 

今日、フランスのニュースを聞いていて、報道の在り方について考えさせられました。

こんなニュースです。

jcc.jp

日本で言うマグロ的ポジション、なんでしょうかね。ヒラメがオランダに電気漁で乱獲され、フランスで採れなくなってきている、というニュースです。

(日本のどこかでも聞いたような話しですね)

フランス側のニュース番組なので、フランス側の漁師が苦しんでいるインタビューなんかも出てきたのですが、同じニュースの枠で、オランダ側の動きや主張の話しもきちんと出てきました。

 

・オランダ側ではヒラメが電気漁によって大量に捕獲する事ができ、漁獲量が上がっている事

・ただし、電気漁によってヒラメに傷がつき、安く取引されたり、電気漁で捕獲されたものは購入しない業者が現れ始めている事。これはオランダ側が調査の結果、分かった事である事。

・電気漁の是非を考える材料(データ)がそろい、今後ヨーロッパ内で議論されて行くだろう、という予想(これは番組側の予想でしょう)

 

 

『まず、こういった国際的な問題が発生したときに、相手国側の状況も濃やかに流れることに新鮮さを感じました』

ということは、日本って主張の一面しか取り上げない事の方が多いのかな。多面的に取り上げるのって、池上彰さん他、コメンテーターの方がニュースについて語る夜のゴールデンタイムにやってる番組とかのイメージしかない。

朝、もしくは夕方のニュースで、一つのニュースにこれだけ時間をかけて、深堀してもらえると、すごく自分の意見を考えやすいな、と思いました。

ヒラメ漁を電気で行っているオランダの状況が分かったからこそ、じゃあフランス側はどういう行動をとるべきなのか、同じように電気漁で対抗すれば良い、みたいな単純な意見ではなく、もっと問題の根本に迫る意見が多く出そうな報道だな、と思いました。

 

なんだかんだ、同じユーロ圏だから、こういった報道ができるのかなあ、なんて思ったりもしましたが、こうして議論するにあたって双方の意見をよく聞く。吟味する、という部分がしっかりできているのは、国民の考える力を伸ばすのに、すごくいいんじゃないかな、と思いました。

なんだかんだ、テレビって影響力あるしね。ネットが主流っていうのはまだまだ都会だけの話しな気がするので、各テレビ局さんにはこういうところを真似して欲しいな、と思ったり。

 

ビル'sキッチンをパクるだけじゃなくてさ(笑)

 

もう寒いところには住みたくない、と思って出てきたのに

f:id:kuro-yan:20180116183636j:plain

最近寒いですね。

日本海側、及び北日本では各地雪がすごいようで、と人事のように日記を書ける場所に住んでいるのに、最近なぜか雪が恋しいです。

 

朝、目が覚めるたびに寒くて、ストーブダッシュを決めていたあの日々

冬場にヒールとかおしゃれなブーツとは無縁で、ファッション雑誌を眺めては冬のオシャレを夢見ていたあの日々

 

そういう日々から逃れたくて、雪のない場所に行きたくて

上京してきたはずなのに、今、私はなぜか雪をとても恋しく感じている。

 

 

ファーがもこもこ付いたオシャレブーツも楽しめるし

ヒートテックを二重に着込まなくてもいい条件下で着膨れしないコーディネートも楽しめる

防寒着としては役立たない、ただオシャレなだけのコートを着て出かける事もできる

雪かきはしなくていいし

冬でも自転車に乗る事が出来る

滑って転んで、一人で力強く立ち上がらなきゃいけない事態も起きない

 

なのになぜだろう。

こんなにも雪が恋しく感じるのは。

 

その理由をじっくり真剣に考えてみた。

 

 

理由1

『なんだかんだ、雪景色というものは綺麗』

中途半端に雪降る地域では、ただ土、泥とまざって汚らしいけれど、とことん降り続けた先に見える、全てが白い世界、というのは本当に綺麗だった。朝、新雪に太陽の光がキラキラ反射している様子も、なんとも形容しがたい美しさと儚さがある。

(何事も、中途半端ではだめってことね。降るか、降らないか、極端な物が美しいって本当かもしれない)

寒くて、もう学校行きたくない、家出たくない、と思っても、出た瞬間にきらきらの景色が見えて、うわあきれいって思ったらもう歩き始めちゃう。

 

 

理由2

『寒いからこそ、鍋等の冬の食べ物がめっちゃ旨く感じる』

もしかしたら、空気がきれいだったから。

とか、水が綺麗だったから、とか。

そういう別の理由もあるかもしれないけれど、とにかく寒さに比例して冬の食べ物という物は美味しく感じてしまう気がする。

特に鍋。みんなで具材を持ち寄って、寒い中から温かい部屋に入って、ぐつぐつ煮るうちに、みんなの体温と鍋でさらに温かくなって。

んで、外のベランダに積もった雪の中で冷やしたキンキンのビールとか酎ハイがたまらんのよ。

 

 

理由3

『寒いから、くっつきたくなる。夫と一緒なら寒いところでもいいと思えるようになった』

残念ながら、寒い場所に住んでいた時、私は彼氏という存在ができなかった。全くモテなかったのだ。

雪降る中で一人転んだときのあの悲しさと寂しさが入り交じった複雑な感情。二十代も前半という輝かしい時代、私は転んでも一人で起き上がる青春を過ごした。

 

まあ、一言で言うと、人肌恋しかった。

寒い日に一人で部屋にいると特に。

シェアハウスとかすれば、と声が上がりそうだけど。もし、今の私がタイムスリップしたら、確実に友人数人を誘ってシェアハウスしたいけど、シェアハウスをしてもいいと思えるような人達が集まれたかどうか、ちょっと自信ない。

それぐらい若い人が少ないというか、人口がそもそも少ないしね。

 

(そういえば都会に出てきたばかりの時は、エレベーターに乗るときとか、様々な場面で助けてくれる殿方が多い事に感動しました。思わず一人で頑張ろうとするときに、ささっと手を注しのべられて最初はびっくりしたけど)

 

一人だったから、寒さに耐えられなかったのかもしれない。

夫と一緒だったら、楽しいかも。

と夫婦での雪国暮らしを妄想し、夫に提案するも、南国が好きな夫には雪が降るだけで行きたくない、と即却下されました。

 

 

雪国だとここがいいってポイント、他にあるかなあ。

妄想しつつ、これからもプレゼンし続けてみたいと思います。

 

 

映画『SING』を観て考えさせられた、『やりたいこと』の意味

気をつけてはいますが、『ネタバレ注意』です。

 

 

2016年の終わりに公開された映画『SING』

映画を年間100本観よう、という目標に向けて、昨年末に字幕版で観ました。(ちょうどAmazonプライムで観る事が出来たので)

歌が入っているやつは元のやつで観た方が、歌のクオリティとかが監督に沿っていていいかな、と思ったので、歌が入っている物は毎回字幕で観ます。

 

が、年があけて先日、親しい友人との新年会で

『SING』は吹き替えもめちゃめちゃいい

と勧められて、吹き替えでも観てみる事に。

確かに、Misiaスキマスイッチの人、あと声優が本職の人達も、結構歌が上手くて思いの他よかったです。

友人から聞いたのですが、吹き替えを許された国は日本しかないそうです。歌のクオリティを保つため、他の国では字幕のみとのこと。

吹き替えをつくるための資本が集まって、制作チームをしっかり構築できる日本の企業さんに感謝です。

 

 

というわけで、『SING』は二回目の鑑賞となったのですが、観ていて、なかなかに現代の、特に先進国の若者の悩みを代弁したキャラクターがいたな、と思いました。

 それが、

大金持ちの息子で友人のエディ(ヒツジのあいつ)

 

いや、俺たちはあいつみたいにそこまで大金持ちの坊ちゃんじゃねえよ。

と各方面から突っ込みが出てきそうですが......

 

彼は先進国における、最近台頭してきた若者の悩み、をすごくよく表現しているなあと、思いました。

 

やりたいことに一生懸命、劇場という物に対して情熱を燃やす主人公のバスター・ムーン(コアラ)に対して、エディ(ひつじ)はやりたいことがなく、ただ怠惰に過ごす日々。両親には自立を促され、庭にあるガレージのような所で一応の一人暮らし。

そして人生の目的を見つけるために『ライフコーチ』が親に雇われて、一緒に人生の目的を考えるための行動プランを考えた。というところ。

 

この、怠惰に暮らしているシーンは、日本における大学生の大半の姿そっくりに見えてしまいました。

(もちろん苦学生とかもいるし、やりたい事に向かって一生懸命な人もいるけれど、最近、自分は何をやったらいいのか分からないっていう人増えている気がするんです)

あの姿は、もしかしたら先進国において平和に暮らしてきたが故に、周りの環境、社会及び世界に危機感や問題意識を持てずに自分に悩む、という人をイメージしているのかな、と感じました。

 

実際、刊行されている書籍とか、ネット上の情報の中にも、

どうやって生きるか、とか

ライフスタイル、とか

あと、コーチンっていう職業が出てきたのって、まさにこの問題を象徴するような出来事なんじゃないかなって思いました。

 

好きな事がない

好きな事はあっても仕事にするほどではない(仕事にするほど好きな訳ではない)

そう言う人って最近多いような気がします。

 

けれどもエディは最終的に、コアラの友人ムーンの夢を一緒に追いかけることで、何かに夢中になる姿、というものを最後に見せて、そしてエンドを迎えます。

これは、大切な友達とか、すごく自分が尊敬する人とか、そう言う人が描いた夢に乗っかるというのも、素敵な自己表現の一つ、というメッセージがある気がしました。

確か、ホリエモンさんだったかも、夢や好きな事がはっきりあるというのも、一つの才能だと言っていました。

 

それはエディが金持ちだったから、と思う人もいるかもしれませんが、映画の中でエディは自分でお金を出す事は一切ありませんでした。家にプールがあって、夜にゆったり泳いだりするくらいの豪邸に金持ちとして住んでいるのに、冒頭の高級なレストランに入ったときには、「僕、そんなにお金持ってない」と言い出しています(笑)

 

彼がやった事といえば、

持っていた海パンをムーンに貸してあげた事。

自分の時間と体を使ってムーンとともに洗車、という労働をした事。

そして大金持ちの自分のおばあさんのナナを紹介した事(というかきっかけを繋いだだけで、交渉はムーンが自分で一生懸命やっていましたね)

 

お金で解決しようと思えば簡単だったのに、彼は、紹介して欲しいと頼まれた人を紹介したり、友人が生きていくために始めた仕事を手伝うという選択をしたのです。

 

これくらいだったら、私達庶民でもできそうなことだなあ、と思わせられる辺り、エディはやっぱり最近のそういう悩みの象徴のような存在だったんだな、と考えさせられます。

 

あと、『ライフコーチ』の役割についても、映画の中で描かれているような気がしました。

映画をさらっとみると、『ライフコーチ』の役割なんてほぼなくて、(というかライフコーチ本人の登場もない)エディが自分で切り開いたように見えます。

が、そういえば友人ムーン(コアラ)が大金持ちのおばあさんナナに会いに行けるきっかけとなったのは、ライフコーチと毎週水曜日にはおばあさんに会いに行く、ということを決めていたから、なのです。

 

おお、ライフコーチ、めっちゃ意味あったじゃん。

と思うと同時に、ライフコーチや世の中における、誰かに相談したら人生が変わる、という類いの物は、言ってしまえばこういうことなんだろうな、とも思います。

本当に何かのきっかけに過ぎなくて、やっぱりどう変わっていくかは本人次第。ライフコーチが登場しないのは、そういう意味もあるのかな、と思いました。

エディの人生はエディの人生で、それに大きな影響を与えている人物は親友のコアラのムーンだったり、その他登場した様々な人達。

ライフコーチは助言は出来ても、その人の人生に登場して活躍する場合は、ほとんどないんだと思います。(もちろん活躍する場合もあるんだと思いますが、元々何も知らない赤の他人同士だった人達が深く親密に人生を変え合うのって相当レアな気がします。見た目は変わっても、本質の中身までは変わらないケースが多い気がします)

 

それと、いくらライフコーチがいても、良い友人がいても、行動しない人は行動しない。エディは、おばあさんのナナに会いに行くのはものすごく嫌そうだったけれど、きちんと実行しています。

嫌な事(苦手な事)だけど、とりあえずやってみる、という彼の行動力は彼自身の力ですよね。

 

『SING』は表面をなぞると、コアラのムーンが主役で、好きな事、情熱を持てる事があるって素敵だし最高だよね。

ということを主張しているようにみえるけれど、その親友の姿から、

でも、無理にやりたいことがなくても、誰かの夢に乗っかる事だってすごく素敵なことだよっていうメッセージを強く感じました。

 

余談になりますが、この映画に登場するどのキャラクターも歌がうまいし、パフォーマンスもめっちゃいいのですが、最初にトップバッターでテレビの向こうのお客さんを引きつけたブタさんコンビはもちろん最高。そしてその途中で最高にクールなDJ力を発揮したエディは、計らずもムーンに才能を発掘してもらった人の一人なんでしょうね。

DJ(とか裏方)がよくないとあんな良いステージにはなってない!

 

 

 

ペトロ女子って何者よ

 

f:id:kuro-yan:20180114120935p:plain

www.nikkei.com

けんせつ小町、農業女子、そしてペトロ女子。
なんでもかんでも女子をつければいいってもんでもないけれど、

 女子ってついただけで、
なんだかかわいい世界が広がっているように見えてしまうのはなぜだろう(笑)

 

さて、けんせつ小町、農業女子までは
字面でなんとなくわかるけど、ペトロ女子って何者?

 

ペトロ女子とは、石油業界に携わる女子のことを指すそうです。いや、そもそも、元々女性だって、化粧品関連とか、百貨店関連とか、働いてない??
でも百貨店女子、とか化粧品女子とかは言わない・・・ 

 

なんでか色々調べたところ、これまで女子の人数があまり多くなかった、特にBtoBの世界で言われる事が多いみたいですね。

化粧品や百貨店はBtoCのの業界。

 

 

◯◯女子ってつけないと、なかなかその世界で女子が増えていかないのは何だか歯がゆい気持ちもありますが、ゆっくりでも前進しているという事で、本当は働きたい、という希望を持っている人が、希望を叶えられるようになるのは素敵な事だなあ、と思いました。

 

それにしても『ペトロ女子』

字面だけ見ると、結構パワーワードですね。何だか破壊力ある。

 

 

ゲド戦記が最初に見たときよりも面白く感じた理由を考えた

 

先週に引き続き、金曜ロードショーではジブリで『ゲド戦記

見た人も多かったのか、フィルマークスのトレンドにも上がっていました。

filmarks.com

 

あれを初見で見たときはいつだったか。宮崎監督の息子さんが初監督、ということで、いろんな期待感と、今思えば何様って感じですが、息子は父を超えられるのか、という目線で見ていました。

 

初見で見たときは、正直「えっ」って思いましたし、そう思っていた人が多かったとも思います。え?ジブリ?みたいな。

最後の『おわり』も漢字でやられて、なんだかいけすかない。ジブリじゃない。みたいな。とにかく前に見たときの印象はさほどよくなかったなあ、というのが本心でした。

 

時を経て、本日鑑賞した後、

「あれ、前に見たときよりも面白いぞ」

と感じました。

 

そんなことをフィルマークス上で呟こうと他の人の感想も覗くと、そう思っている人が他にもチラホラ。

どうして前よりもなんだかいい、と感じたのか。

自分の感情を因数分解して考えてみました。

 

 

その1:『真名』という概念を始めとする、古典や文学の知識が身に付いた

つまり、以前見たときよりも、教養が身に付いた、とでも言えばいいんでしょうか。知っている事が増えて、物語の様々な伏線や、行動の意味を理解する事が出来た気がします。

自分の中でのその最もたるところは『真名』の意味の理解だったかな、と思いました。

真の名前、というのは、他の物語の中でも結構重要な役割を果たしていまして、自分自身の心の中に入る、もしくは心が込められた物の中に入り込むための鍵のような役割を果たしています。

古くは古代日本の『言霊信仰』から来ているようですね。

言葉に力がこもっている、という考え方がある中で、そのものを表現する真実の名前、というのはとても強い力がある。

そういうことを、他の様々な古典を読み込んで、理解したからこそ、『ゲド戦記』における真名の扱い方の丁寧さや、それがきちんと鍵となっているなあ、と納得感をもって物語に入り込めたな、と思います。

 

 

その2:光と闇の対立、という抽象概念を理解する素地ができた

これはスターウォーズに鍛えられたのかもしれない(笑)

ゲド戦記』でも強く描かれている光と闇。これは人々の心の中のことなので、とても抽象的で、初めて見たときはどっちがどっちで・・・と頭が混乱していたようにも思います。

これも、他の心の中の光と闇を描いた作品を見る事によって、人々の心の中の変化、というものを観察する目が育ったのかもしれません。

元々、『ゲド戦記』という話しの光と闇の対立構造が、いろんな物語(スターウォーズをはじめ)に影響を与えている作品であるとのこと。

ハリーポッターのウォルデモートも、闇の象徴として描かれていますが、その名を言ってはいけない、というのは人々の中の闇を表しているのかなあ、とかって想像できる思考段階に至ったのはつい最近。

そんな闇という概念、光という概念の理解が進んだからこそ、今回この映画一本だけで満足に理解ができたのかもしれません。

内面の心情変化、というものは人生経験をそれなりに積まないと、なかなか理解できない物なのかもしれないなあ。

 

 

その3:これらの理由に基づく伏線や、意味ある場面が結構多い事に気がついた。

その1、その2という前提知識、概念を踏まえてみると、結構意味ある場面が多かったように思います。表情の変化や街を歩く人達が考えている事。ちょっとした建物や歩いた道程。

ネタバレになっちゃう気がするので、あまり書かないようにしたいと思いますが...

 

最後がジブリのいつもの「おわり」ではなく「終」だったのは、こういうことだったのかあと納得できました。

最初は、親父とは違っておれは大人向けのちょっとコムズカシイアニメつくるぜ、的に思えてしまったのですが(ごめんなさい)

前提に知っておかないと理解が難しいという意味で、本当に大人に向けたアニメを真面目に作っていたのかな、と感じました。

光と闇が題材ってプリキュアもそうだし、マーベル系もまあそうっちゃそうだし。子ども向けにはすごく簡単に描かれている作品が多いけれど、そんなに単純な話しじゃないよねっていう風な映画だと、今回は感じました。

だから、最後が「終」で、子ども向けには、君たちが思っているほど単純な話しではないのだよ。だから大人になったらもう一度見てね、みたいなメッセージが込められているんじゃないかと思っちゃいました。

いや、そうでないとしても、私はそう感じました。

そして実際大人になってから見て、納得感があった訳だからすごい。

 

お父さんが圧倒的すぎるのは辛い事も多いだろうけど、今回こういう風に楽しむ事が出来たので、また、作品を作って欲しいなあ。

 

なんて思いました。

 

 

食の仕組み化で無理せず体調を安定させる事に成功した

 

f:id:kuro-yan:20180112113647j:plain

今週のお題「体調管理」

 

あれを食べた方が良い、これを飲んだ方が良い、運動はこれくらいした方がいい。ブラック、という言葉が大人の中でも子どもの中でも流行るほどの目まぐるしさがある世の中で、同じように健康に関する情報も溢れているはずなのになかなか自分は体調が絶好調の状態を保てていない。

 

というのが、数年前の自分でした。

体調管理に四苦八苦しはじめたのは、大学生の頃から。つまり一人暮らしを始めてからですね。

多分、野菜不足が主な原因なのですが、当時冷凍では栄養が落ちていそうだし、かといって何種類もこまこまと購入できるほどお金はない、と豆腐と納豆ばっかり食べていました。

それでもなんとか、山に山菜を採りに行ったりして、若さも手伝って乗り切る事が出来た。クレソンにはだいぶ助けられたなあ……

 

そんな学生時代を乗り越えて、社会人になってからはとにかく忙しい。

お金を得て、野菜たっぷりの毎日の食生活になるかと思いきや、ぎりぎりお米は炊く物の、総菜を食す毎日。

時にはあまりにも忙しくて、食べる事が大好きな私が睡眠を優先させる日もありました。食べるより寝る。

 

体重がどうこうって変化もちょこっとありましたが、それ以上に肌がめちゃめちゃ荒れました。

 

そして、結婚して、引っ越しをして、生活スタイルをリセットするタイミングで、色々な事を仕組み化しました。

習慣化、とも言えるかもしれません。歯磨きをするように、毎日すること。ルーティン化、というと自分がロボットになったみたいな感じがしますが、そこに彩りを加える余裕も考えて。私なりに完成した食事に関する体調管理ルールがこちら。

 

◆野菜は農家直送便の利用で月に一度だけがんばる

都会に引っ越してきて、私は野菜をあまり買わなくなりました。田舎の露地で今とってきたよ、みたいな野菜しか食べてこなかった私にとって、都内のスーパーで売られている野菜の小ささに驚くとともに、味にも満足できなかったのです。

(最近は農家直送コーナーがあったりして、自分も足りない材料があるときはたまに利用する事もありますが……)

そんな私が今使っていて、最高に楽になったのが月に一度、農家からその季節の野菜の詰め合わせを直送してもらうことです。

大根一本

ネギ二種類

里芋(十個以上が一袋に)

人参(五本くらい)

リーフレタス

かぼちゃ

かぶ

白菜

ターサイ

サラダミックス

 

毎回内容も違ったり、量産されないようなちょっと珍しい野菜が入っていたりして、とても楽しいです。しかもこれだけ入って送料込みで3000円弱。

我が家は二人なので、月々一人当たり1500円で、スーパーに野菜を買いに行く必要がなくなります。

ちなみにこれはMサイズなので、もっと少なくていい人は2000円とちょっと(送料)ほどだったと思います。

(実は田舎の方がオシャレな野菜を食べていたりします。一時期実家の周りでスイスチャードが流行し、母を含めその辺のおばちゃんたちみんな自分の畑で育てていました。そんなオシャレ野菜の流行、みたいなものも味わえて個人的には懐かしかったり)

 

そして、月に一度、我が家では大下処理祭りを開催しています(一人でですが)

これらの野菜を全てすぐに使える状態に下処理をしてしまうのです。

白菜や人参など、全部切って、ゆでて冷凍して。

イモ類はあまり何もしませんが、半分は煮っ転がしを作る等の、作り置きもしてしまいます。

それまでは冷凍すると栄養が落ちてしまうのでは、と思って野菜をたくさん買う事に躊躇していたのですが、こんな記事を読んで、野菜は一気に買って、一気に下処理をする方針に切り替えました。

www.betterhome.jp

ごはんだけ炊いて、あとは野菜を三種類に冷凍肉団子。味付けは味噌か、醤油か、麺つゆか。野菜が洋物のときはコンソメを入れます。

それだけでおかずがわりにもなる豪華な汁物が完成します。

味を変えやすいので、飽きも来ません。これを我が家では、平常食、として平日夜の夕ご飯は基本これです。

たまに気が向いた時に、きのこや豆腐をいれて鍋にしたりもします。

切って袋に小分けした状態で冷凍してあるので、忙しい時期で疲れて家に帰ってきても、お湯を沸かしながらどぼどぼいれるだけでよく、すごく楽です。

お肉やお魚も頂きますが、週末が多いです。

肉や魚は手をかけて美味しいので、週末の特別食、昔で言うところのカレーポジションに収まっています。

 

いろんな先生や、本から、よく『現代人は食べ過ぎ』と言われていますが、これくらいの食事量の方が、体も心もフットワークが良くなったように思います。体の中が重たくなっているんでしょうかね。

年末年始に豪華な食事が続くと、実際数字としても増えているだけでない、何か体の重さというのも感じたりしますが、我が家の平食に戻すと落ち着いてきます。

肌荒れもなく、野菜をたっぷり取っているせいか、お通じも良いです。最近は米に玄米を採用し始めました。たまに栄養補給がてらいれているかんじです。

 

ドレスを毎日着る訳ではないように(職業柄着る人はいるでしょうが)、食事も毎日ドレスじゃなくて、基本はユニクロでいいってことなんでしょうかね。