現在新宿武蔵野館で公開中のタイ映画『バッド・ジーニアス-危険な天才たち-』を観てきました。
たまたまツイッターで流れて来たのをみて、なんか面白そー!と思い立ち、タイ人の友達も多い関係から、今度会ったときの話のタネになるかなー?とか考えながら、結構突発的に観に行ってみました。
東南アジアを中心に8つの国や地域で大ヒット中ということもあり、エンターテイメントとしてはかなり面白かったです。
(個人的にはカメラを止めるな!よりこっちの方が好きかも)
以下、ちょっとネタバレを含む感想です。
★社会性+エンターテイメント性どちらも高い作品だった
ストーリーを簡単にまとめると、貧乏な天才女子高生がお金につられてお金持ちの友達達のカンニングを手伝う、というお話です。
・天才的頭脳を持っていても貧乏人はお金持ちに搾取されているという構図
・東南アジア諸国における、米国含む海外への留学切符のプラチナ度
・金で成績を買おうとするお金持ち達
・お金さえあればなんでもできるんだと思ってしまう、一高校生からみた世界観
・子どもの学歴の為ならいくらでも金を積んでしまう金持ちの親
という実際に東南アジアを中心の国々で起きている社会問題が、天才女子高生が鮮やかに、しかしこちらをドキドキさせながらカンニングを成功させていくストーリーにのせられて、終始惹き付けられる作品でした。
★カンニングはダメ。ではなく「どうしてこのようなことが起きたのか」を考えることの大切さを感じた
物語を観ていると、結局主人公のリンが一番悪い、とかたぶらかされたバンクもダメな部分があった、とか。いや、金持ちのパットが一番最悪でしょ、とか。
とにかく、誰が一番悪かったか?
という起きた事実への判定をついつい考えてしまう。
けれどもこの映画が伝えたいのは、「誰が悪いか?」ではなく、「どうしてこのようなことが起きたのか?」を考えること、なのではと感じました。
誰が悪いかといえば、全員それぞれ問題がある。
でも、そもそもどうしてこのようなことが起きたのか?という視点に立たないと、同じようなことは繰り返されてしまう。
ここから先は、「どうしてこのようなことが起きたのか?」私自身が考えたことです。
リンはカンニングを2回行います。
一回目は学校の試験。二回目は米国留学資格を得るための国際試験。
実は一度目のカンニングが発覚した時、リンはかなり反省します。お父さんにはこてんぱんに怒られ、シンガポールへの特別奨学留学生としての試験を受ける学校代表の座も、よきライバルであったバンクに渡ってしまいます。
さらに不正の内容が内容だけに、真面目な父には「もうお前を留学させようとなんかしない」と海外へ出ることに関してお金は今後一切出してもらえない状況に。
リンは反省し、以降カンニングを誘われても断る姿勢を見せていたのですが、より高額かつ成功すれば自分で稼いだお金だけで米国へ留学できるチャンスが目の前にぶら下がり、リンは二度目のカンニングに挑むことになります。
この一度目のカンニングの際、「ダメなものはダメ」と叱る大人はいたものの、「どうしてダメなのか」を深く共にリンと考える大人はいませんでした。
それだけでなく、「先生だって授業料以外に高額な賄賂を受け取っている」というリンの指摘を、大人達は(父親も含めて)はぐらかそうとします。
私はここに様々な問題の根っこがあるような気がするのです。
日本の学校教育でも、「ならぬことはならぬもの」の思想をもって教育にあたっている人は多いです。教育現場だけではありません。親がこのように思っている家庭もかなり多いと思います。
確かに、「人を殺してはいけない」とか「人の物を勝手に盗んではいけない」とか、文字通りだめなことですし、法治国家の日本でそのような行為を働けば罰せられます。
けれども、じゃあ「戦争」は?「貧乏なスラムの子がお腹をすかせて畑に入ることは?」と、一筋縄では説明できないことは世の中にたくさんあります。
だからこそ、「なぜ、ダメなのか」を一緒に良く考えることはとても大事なことだと思うのです。リンはこの過程を一度目の失敗でとばしてしまった為、二度目のカンニングに手を染めることになってしまったのではないかと思います。
倫理的にはこう、道徳的にはこう、でも実際の世の中ってこう。さあ、「君たちはどう生きるか?」
これを自分で考え、自分なりの答えを出すチャンスをリンは逃したために、天才でありながらも同じことを繰り返してしまったのではないでしょうか。
(つまり、倫理的・道徳的な価値観は例えどんな天才であっても、何度も自分にとって間違いだったとその後思う判別をしてしまうということも表現している気がします)
「だめなものはだめ」「ならぬことはならぬもの」は、たしかに単純でその理由や混濁を飲み込んだ大人にはいいかも知れませんが、子どもへの教育に使うには不十分なのかもしれません。
★お金より大事なことに、私達はいつ気がつくのか
生きていると、どこかでお金を稼ぐことより難しいことがあることに気がつきます。
なんだかんだ言って、お金は政府が発行した紙切れであり、お金とは自分自身が清算した価値を分かりやすく政府に数値化してもらったものなのだと言葉だけでなくその意味を認識する時があります。
信用を得ること
よき友達を得ること
強い権力を持つこと
もちろんある程度まではお金で解決できますが、お金だけでつながる信用・友達・権力ほど弱いものはない、ということは、私達は様々な小説や映画で学んでいるはずです。(それが詭弁に見えても)
お金だけで得たものは脆いです。何かの拍子に崩れると、一気にすべて崩壊してしまう、見た目はいいけど中身が空洞だらけ。災害(誰かの裏切り・お金回りが悪くなる、など)が起きたら一気に崩れることがほとんどだし、運良く災害に襲われなければそれを綺麗なまま残しておけるけれど、次の世代でガラガラと崩れたり、一族全員を不幸にしてしまったり(財産を巡る遺族の争いとか)することもとても多いです。
最近はネットの世界にいると、「お金を稼ぐ=正義、世界が広がる」のような図式が多いですが、お金じゃどうしようもならない世界の方が広いように私には見えます。
(ってかお金で全部解決するなら、世界で起こっている問題はもう少し少ないようにも思います。感情と歴史と想いが強いからこそ色んな場所で色んな問題が起こっている)
リンも最初はお金を得ることはとても重要なことだと考えているようでした。
しかし、大好きな父のように真面目で堅実だったバンクが、自分自身が巻き込んでしまったカンニングビジネスで出会った頃とは全然違う姿に変化して行くのを見て、リンは最後に、「自分自身はどうすべきか、どう行動すべきか」の決断を下し、「お金をたくさん得ることは今の自分にとってそんなに重要ではない」旨を述べるまでになりました。
自分にとって大事なことを見つけたリンは、それが正しいのか正しくないのかは置いておいて、とてもたくましく見えました。
日本では基本的に、学校でも世間(社会)でも横並びの教育のため、天才が引き抜かれてちやほやされる環境ではないため、映画への共感という部分では分かりにくい面もあるかもしれません。
(ただ、私はあの登場人物達の中の『金持ちたち』が多くの日本人に一番多い像な気がしました。特にどんなレベルであれ、大学進学までさせてもらえる家の子はみんなそうな気がします。何が本当に大切なことか、ということを考えることをせず、その時その時の幸福や自分にとってのよいことを享受するだけでいると、空っぽな大人になってしまいそうになる辺りとか)
「惑わされるのではなく、本当に自分が大切に思っているコト、モノのために自分の人生を使うこと」は、リンだけでなく、どんな立場の人であっても考えるべきことで、そういう現実・自分ときちんと向き合った人だけが、地に足をつけて、自分自身の人生を歩いて行くことが出来るのかもしれない。
そんなことを考えさせられた映画でした。
おやすみなさい。