くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

3.11を前に、いろんな概念が壊れた日

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明日は3/11。もう7年も前になりますが、それまでに起きたどんな大きな地震よりも失ったものが多すぎて、忘れられない数字となりました。

ひ孫へ

私は震災の時、岩手県にいました。
内陸の為、津波被害にはあわなかったけれど、数日間、情報からは閉ざされた世界に閉じ込められました。
ツイッター
メール?
電話?

メールと電話はパンク。
ツイッターっていうか、そもそも突然周囲が圏外になったよ。
ネットは2、3日繋がらなかった。

人間、丸一日でも誰とも繋がらない状況が続くと、普通じゃないと感じるみたいで、リアルに日本大丈夫かな、とか思った。
思わず、さいとうたかおの『サバイバル』を思い出した。

電波と電気が復旧して、まずテレビをつけた。
津波の映像がどばーっと流れる様子をみて、思っていた以上の大惨事が起きていたのと、でもテレビが普通に映って、キャスターの人もちゃんとした服を着てお化粧していて、ああ東京は大丈夫だったのか、という安心感があったのが忘れられない。

あの日を境に私もそうだし、周りの友人達には、これまでの「当たり前」を疑う人がとても多くなったと思う。
それはいい意味でも悪い意味でも。

例えば、仕事って何だっけ?
って結構みんなで考えさせられた。
当時やる仕事といえば、平常運転が出来る人はとにかく日常やっていたことをやるし、できない人で元気な人は泥の掻き出しとか各地で募集されたボランティアに出向いた。
私も支援物資を仕分けするボランティアをやっていたけれど、自分の日常が再開する目処がたったところで、日常に戻った。
それはまだ日常に戻れない人たちの願いでもあることも感じた。

そんな中で、仕事ってお金を稼ぐだけじゃないって嫌という程感じた。
今のゆとりやさとりが、お金にガツガツしていないってよく言われるけれど、
阪神淡路とか3.11とか、こういう大きな自然と向き合う機会ががっつりあったら、所詮人間が作ったものはそれくらいの大きさなんだなって思わずにはいられない気持ちはよくわかる気がする。
自然に対する畏怖とか敬意とか、すごくある。

物に対する価値観もそうかもしれない。シェアリングエコノミーが流行るのもわかる。
物はいつか壊れるし、物は物でしかない。だったらみんなで必要最低限をシェアするのもいいじゃんって思える。
他人とシェアって怖いって思うかもしれないけれど、大きな自然災害は、悪い人や意地悪な人もいるけれど、それと同じくらい、いやそれ以上に優しい人や親切な人もたくさんいる、ということも教えてくれた。

人生1つのことしかやらない、なんて無理。という気持ちもすごくよくわかる。だって法律では職業選択の自由が保証されてるし。
どうせ死ぬんだったら好きなことした方がいい。時には長く続けることも尊いし、大事な時もあるけれど、違うと思ったら転職だって自由にしたほうがいい。

生きることへの執着だけでなく、死を意識するからこそ見える世界がある。いい面でも悪い面でも、それを考えさせられ、これまでの常識をひっくり返された、というのが3.11の一面だった。

それは都会しか知らなかった人がインドに行って感じることとか、まだ民間人が宇宙に行くのなんて夢見たい、と思っていた世代が普通に宇宙に行ける世の中を目の当たりにした時に感じることと似ているのかもしれない。

私より上の世代にも、飛行機で海外に飛び回る若者に対して、戦争してた頃(冷戦も含めて)からは考えられない、と呟く人たちがいるから。

想像を超える世の中の進歩、なのだろう。今を生きる人にとっては当たり前で、その有り難みなんて逆立ちしても一生理解できないんだと思う。

それは私たち下の世代の悩みもおんなじだ。

 

それでも、分かり合えなくても、歩み寄る努力はいつでもできるはず、というのも、この7年で感じた。

 

というわけで明日で7年ですね。