くろやんの日記

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社会には時間泥棒が溢れている

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学生の時には大して気にならなかった、大人の時間泥棒。

けれども社会人になって、自分自身が持っている時間、そのものの価値を大きく感じたり、時には時間というモノサシにシビアにならなければいけない状況下に置かれるようになって、『時間泥棒』の存在を大きく感じるようになってきました。


最初から合意があれば、時間という概念を考えないで過ごす日々、というのもとても大切なものだと思います。
世界には時計を見ない部族もいるし、そもそも時間は時に人を追い詰めるものでもある為、時には時間を見ないで過ごすことも、現代人には精神衛生上必要にも思います。

そういうことは必要だし、私自身も、1分1秒を争うなんて概念なんて別次元の世界の話だと思ってしまうような田舎に生まれ育ったわけですが、大人になったからこそ、時にその概念は必要だし、合意なく、そういう概念を要求するフィールドに引きずり込んでおきながら、自分は観客かのように時間に無頓着になる大人を見るたびに、情けない気持ちにもなります。

例えば、よく聞くのが地方創生系での話。学生や若者を都会から引っ張ってくるのはいいものの、目標設定も曖昧、フィードバックも曖昧で、結局何のためにやってるの?
っていう状態のところも結構多いかなと感じます。
もちろん素晴らしいものを生み出す団体も多くあるのですが、それと同じくらい、「自分たちは地元をよく知る地元の人間」「自分たちは大人」という部分にあぐらをかいて、学生や地域協力隊の方をいいように使い、やってる風にしているけど、やりっぱなしだったり、全然PDCAを回していなくて、全然成果に結びつけていなかったり、ってところ、結構ある。

学生の時は自分自身が持っている資産の多くが時間だったため、それをとにかく使っていたけれど、今思えば、いいように使ってきた大人もチラホラいたなっても思う。
それはそれで経験になったけれど、学生の中でもきちんとした大人と一緒になって活動してきたという子をみると、経験値の幅がすごく大きかったりして、ああ、自分もちゃんと大人を見極められれば良かったなあ、という反省は常にしてしまう。


大人になった今、自分がそうならないために、心に置いている言葉がある。

受けるより与える方が幸いである
使徒言行録第20章33-35節より

私はキリスト教信者ではないんですけど、この言葉は、そうだよなあって思う。
日本人ならば、
「親切にすると、相手も気持ちいけれど自分も気持ちいい」
という感覚の方が親しみやすいかも。


時間泥棒をしてくる、自分の利益優先、自分のところだけ良くしたい(三方良しどころではない、一方良し)みたいな大人は、大抵誰にも何も与えない。

君たちが力を貸してくれるなら、ここは自由に使っていいよ
とか
こういうことをしたいなら、私はこういうことができる(協力できる)
とか、
ほぼない。
みんなが頑張ってプレーヤーとしてやっている所をただ見て、ちょっと偉そうに講評を述べるのが役割だと思っている。

わざわざきてくれてありがとう
さえ言わない人も多いかもしれない。

大人として、会社員としてそういうのを相手のするのはまだマシかもしれない。お給料入るし。
でも、学生ボランティア、とかって交通費も自腹切って足を運んでいるのにこれをやられてしまうと、とても虚しい。

時間を資産として投資するうちは、人間として与える人かどうか、しっかり見たほうがいいと思うし、私も自分自身が与える者になれるように気をつけていきたい。