くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

暗殺マンガなのに物理を勉強したくなる

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暗殺教室というジャンプのマンガにはまっている。というのも今ジャンプ+のアプリで無料話がいくつかあり、それを読んだのだ。

 

中学生に暗殺をさせている感じから、リアル鬼ごっことか王様ゲームみたいなやつを想像していたのに、全く違った。

暗殺という舞台の上で、様々な教育論がぶつかり合う、金八せんせーみたいなマンガだった。

しかも絵柄が結構女子中高生に受けているらしく、女子中高生の間で人気作らしい。普通の男性受けもジャンプだから重要なのかもしれないが、世の中の経済を回す存在として女子中高生、特に女子高生は大きい存在だ。そんな彼女たちに受けるということは世の中では勝ち組マンガなのかもしれない。

 

マンガ内では様々な暗殺方法が紹介されるし、殺せんせーの感動的な台詞も盛りだくさんで、様々な教育論について考えさせられたくなる、はずなのに、私がこのマンガを読んで一番思ったことと言えば「ああ、物理を勉強しておけば良かった」ということだった。

 

そう、殺しでも教育論でもなく、物理だ。

高校生から恐れられている物理だ。

アインシュタインだ。

 

このマンガを読んでいると、最大の謎は殺せんせーだ。

マッハ20で動けるという設定で、マッハ20であらゆる動きをこなす。

マッハ20あるから昼休みに中国に行って麻婆豆腐を食べて帰ってきたり、学校が終わるとアメリカまで野球を見に行ったり。

マッハ20のスピードで採点も終わらせて、さらに生徒一人一人に合わせた問題作成までしてしまう。

 

ここまで読むと、あらゆる疑問が浮かぶ

マッハ20で動ける、という設定だけれども、最高速度はマッハ20ではないのではないかと。

マッハ20で動けることよりも、マッハ20で動いた体にブレーキをかけられることのほうが、使うエネルギー量を考えてもすごいことなんじゃないかと。

マッハ20で採点ができるということは、マッハ20の状態で鉛筆を動かして止めることもできるということ。

なんでもそうだが、短距離走の選手も、飛行機も徐々にスピードを上げていき、最高速度というものが存在する。そして最高速度を急に止めるのは難しい。車が急ブレーキを踏むと道路には後が残る。エネルギーが放出された後だ。

 

でも殺せんせーは普通にマッハ20で行動する。つまり、マッハ20が私達の散歩速度と同じということだ。短距離走選手が全速力を急に止めることが難しくても、散歩速度であれば急でも止まれる。

 

ということは、殺せんせーの最高速度はいったいいくつなんだ?

殺せんせーがブレーキに使っているエネルギー量は?

 

知りたい。こんなとき、ネットで誰かに聞けば良いのかもしれない。

でもふと思い立つときって、本当にどうでもいい瞬間で、なんかお風呂はいりながら思いついちゃったりして、お風呂に上がってからスマホを手に取る頃には忘れちゃったりして。

 

ああ、自分に物理が少しでも分かれば、というか覚えていれば自分で求めることができるのに。

 

それがこの暗殺マンガを読んだ私の感想だ。

 

 

 

リアル、グスコーブドリだねが通じなくて

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グスコーブドリ、と聞いてすぐに、ああ宮沢賢治の童話だね、と結びつけてくれる人は意外と少数派なのか。

 

最近関東や東北はとにかく涼しい。仕事柄行ったり来たりなのだが、東京はこれまでいた期間の中で一番涼しいし、東北もここまで涼しいのは10数年前の冷夏以来じゃないだろうか。

インターハイで高校生たちが風邪を引いていないことと、間違っても東北はいつもこんなに涼しい、というか夏なのに寒いみたいな感じじゃないことを抑えておいて欲しいと切に願う。

 

今年は梅雨時期が暑かったので早く植えた稲の成長はともかく、今の時期暑くないというのは日本人のソウルフード米には大打撃だ。

貴重になった瞬間にそれが食べたくなってきてしまうんだから人間わがままだなあ、という感想は置いておいて、とにかく大打撃。まじで実がふくらまない。

 

そんなニュースをみていて、私は思ったのだ。

ああ、リアルグスコーブドリだなあ、と。

 

しかし、夫に聞かれた。グス・コーブドリ?

いや、切るとこ違うし知らないの?宮沢賢治は知ってる?

宮沢賢治は知っているけれどもグスコーブドリは知らなかったらしい。自慢ではないが夫は学校のお勉強はかなりできた方だ。しかしそんな人でもグスコーブドリを知らないということは、案外マイナーな本なのかな。

 

グスコーブドリは簡単に言うと、今の冷夏の状況にある東北地方の実態をファンタジーに置き換えたような作品だ。

今なら品種改良という手段をとっているんだけれども、グスコーブドリでは火山を噴火させてやませに対抗しちゃう、つまり天候を操るという手段に挑む。

 

でも最近の品種改良研究はだいぶ進んでいるようで、実は1ヶ月前に1ヶ月後の天気が90%の確率で当てることができたら、企業や農家は準備をすることができる、つまりなすすべありません、というわけでもないくらいだそう。

今後は気象予報の研究を進める方向にも予算や時間を費やした方が費用対効果がもしかしたら大きいかもね。

 

というところまでを含めて、リアルグスコーブドリだ。

 

グスコーブドリをもう一度読み返したくなってきた。

 

 

 

 

牛乳石けんから考える覚悟の問題

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www.youtube.com

 

牛乳石けん、懐かしい。

ムービー内容が結構賛否両論分かれているCMなようで。

まあ今のご時世、こどもの誕生日の日に居酒屋に行っていたらバッシングされるよ。と思いつつ、考えさせられたこと、つらつらまとめてみる。

 

この問題って根深いなーって思う。

ベビーカー押してたら、男性ではなく同じ女性であり子育てを終えたのであろうおばさんから、注意された、みたいな話とか。それこそ、学校で先輩はこう言っていて、俺たちも逆らわずにやってきたんだからお前たちもこうしろよ、みたいな話と、性質は似ているんじゃないかな、と思う。

 

この主人公の男性は、お父さんにそうさせられて嬉しかったのか、というと本当は一緒に遊んだりして欲しかったと思っている。

けれども一緒に遊んでくれなかったからこそ、父から伝わってきたものもあったなあ、みたいな。

 

別に、お父さんは子どもと一緒に遊んじゃだめ、とは言っていないし、お父さんは子どもと絶対一緒に遊ばなければいけない、とも言っていない。

でも、自分があのお母さんの立場だったら多分ちょっぴり拗ねるし、自分だけ飲んできやがってこのやろーとも思う。

 

でも自分だったら、自分がやりたいと思っていることに本当に向き合っているのかどうか、という点で夫を怒るかもしれない。

 

子どもはお父さんと誕生日を一緒に過ごさないと、必ずしも成長しないか、というと別にそうじゃない。お父さんと早くに死別した人でだって、立派な人は世界中たくさんいるし、お父さんが仕事忙し過ぎてなかなか会えない中育っても、大人になって周りに愛情がない人間になっているかというとそうでもない。

 

多分、一番大事なことは自分の中で一番やりたい事や、自分が本気に思ったことを本気でやってるかということだと思う。

 

この主人公が本気で後輩を慰めてやりたい、力になってやりたいという想いで居酒屋に行っているのであれば、私はよしとしたい。

それこそ明日にでもこいつ自殺しちゃわないか、とか追いつめられているような人がもしも夫を最後に頼りにして、それに応えたいと夫が言ったら、行ってこいとも思う。それは夫と妻で立場が逆でもそうであってほしいと思うけどね。

 

世界を救ってくるから誕生日一緒にいられないけどごめん、と言って宇宙船に乗る父親がいたら、尊敬できちゃうしかっこいいと思うし、それは子どもでも同じだと思う。こどもって大人が思っているよりしっかり考えているし、誰かを本気で幸せにする姿からきっとそれはそれで感じ取ってくれると思う。

 

でもなあなあな気持ちで、中途半端な気持ちで仕事側を取るなら、自分側の都合だけで取るなら、ばかやろーって思うけどね。

 

昔からそうだったから、とか。

普通そうだから、とかじゃなくて。

今、お前はどう思うんだってことは大事にして欲しいし、大事にしてやりたいとも思う。

 

そういうときに、怒るよりも先に相手にどんな言葉をかけてあげられるか、まだ思いつかないから、私もまだまだ修行が足りない。

 

 

終わりがあるから楽しいのに

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子どもの頃、夏休みが終わるくらいになるととても寂しい気持ちになった。

そして、終わらなければ良いのに、と思った。

 

きれいな星空、友達と夜暗くなってから顔を合わすだけでもなんだか特別なのに、さらに花火という名の火遊びをすること。

日中誰に怒られるでもなくずっととんぼを追いかけていても大丈夫だし、太陽光を浴びてキラキラひかる川はとても気持ちがいい。

たまの土砂降り雨は家の中から見ていると、それはそれで非日常感があっておもしろかった。ちょっと成長してくると雷が光った後から音がなるまでの秒数を数えて雷の距離を計算したりしてみた。

かき氷もおいしいし、ソフトクリームも美味しい。スイカも桃も。

夏休みは冒険に溢れていて、わくわくすることしかない毎日だった。

だから、なんだか線香のにおいがぷんぷんし始めると、ああ、そろそろ夏休みが終わりに近づいているんだな、と寂しくなる。

 

少しずつ空気がひんやりしてきて、みんなそう思っているか知らないけれど、夕日の色も少し変わってくる。

そうすると、ああ夏も終わりなんだな、今年の楽しい夏も終わるんだって、ちょっとじゃないね、結構寂しくなる。

 

これは小説を読んでいても、ゲームをしていても、漫画を読んでいても同じ現象が起こるということに最近気がついた。

だんだん終わりが近づいてくると、本をめくるスピードは落ちるし、ゲームは進めたくなくなる。漫画の最終巻も一緒だ。

そして終わった後はなんだかその世界に少し浸っていたくなって、ぼんやりする。夏休みぼけってつまりこういうことだと思う。

 

ぼんやりが少し続いた後、自分の生活とか自分がやるべきこととかがどどっとやってきて、そして前より何かをつかんで新しい自分で自分の生活が始まるわくわく感が秋にはやってくる。

 

私は最近夢中になれるゲームがない。小説も漫画も変わらず面白いエンターテイメントがあるのに、ゲームだけは子どもの頃ほどはまる物がみつからない。

 

それもそうだ。最近のゲームには終わりがないのだもの。

課金を続けても、ゲームが終了することはない。

だれが望んで一生夢の中にいたいと思い続けられるか。終わるからこそ、なんだかもう一度読みたくなったり、ゲームをやりたくなったりするんじゃないだろうか。

トランプゲームが一生続いたらいつ自分が勝つのか分からなくなって多分飽きる。将棋もオセロもそうだ。どっちが勝つのか、はらはらした状態はわくわくするけれど、それは必ず終わりがあるからその時間も楽しく感じるんだ。

 

ファイナルなファンタジーなんて、いかにも終焉をきちんと迎えそうなタイトルなのに、これさえ終わらないゲームになってしまったようだ。

 

終わるゲームはもうないのだろうか。

夏休みは終わらないで欲しい、そう思っていた私は多分間違いだった。

夏休みは終わるから貴重なんだ。

 

次にやってくる秋も楽しいし、冬も楽しいからね。

夏が終わる前に夏のキンキンビールを楽しまねば。

 

 

MARVEL映画は映画館でみたい

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最近、映画価格の高騰に驚いている。

駄菓子屋以上のインフレが起きているのではないかと私は疑っている。

 

もちろんクオリティが上がっているので、価格高騰に異議はない。

価格高騰に異議ありっと元気に主張したいのは日本の新幹線料金くらいだ。超物価が高いスイス(ついでに一人当たりGDPも超高い)より高いってヤバいでしょ。

 

最近の映画は飛び出してくると思っていたら、IMAXとやらで音質はめちゃめちゃリアルになったし、ついでにものによっては水や風も吹き出してくるようになった。

もう、一つのアトラクションだ。2時間のアトラクションに乗ると思えば、妥当な価格だと思うのだけれども、もはやこれまで通りのノリで映画館に行くと、消耗感が半端ない。終わった後は映画の内容を語り合うよりとりあえず休みたい。それぐらい、すごい。

 

こんな進化した映画館でみるアクション映画はもう半端ない。

IMAXや4DXは、ハリウッドで作られたようなごりごりのアクションをみるためにあるようなもんじゃないかと思うくらい。

マーベル作品なんかはもう金曜ロードショーでみても満足できないかもしれない。

というかアクション映画は家庭でも3Dでみたい。

 

スパイダーマンホームカミング、なかなか面白かった。

 

 

机の上の彼

 

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特別なことはないはずの1日だった。

 

仕事から帰ってきて、安売りしていた豚肉が入った袋をキッチンに置いたとき、私は気がついた。

 

いつもと違う。

何かが違う。

家に誰かいる?

 

 

辺りを見渡して、すぐに気がついた。

いつも何も置かないダイニングテーブルの上に、クリアファイルが置いてあった。

 

私がいつも座る席に、丁寧に、ただそれだけが置いてあった。

 

ただのファイルだったら、きっと私は気にしなかった。

でも、何かただならぬメッセージを感じた。

 

そもそもテーブルの上に物を置きたがらない夫が、ただ1つ、置いている。

しかも私に向けて置いている。

ファイルが私を見つめている。

 

よくみると、

「あなたが決めることが、未来になる」

というゴシック体が、主張していた。

 

ごちゃごちゃと荷物が置いてあれば、それはただのファイルだ。

でも、きれいに片付いたダイニングテーブルの上に、私のいつもの席に、見えやすいように、ただ一つだけ置かれたファイルには、何かメッセージ性がある気がしてならなかった。

 

 

中身は?

ファイルに何か挟まれていないか確認するが、空だった。

 

今日の夫の帰宅は遅い。

その前に私は寝る予定だ。

それまでに、このメッセージの意図を解きたい衝動にかられた。

 

夫は、無意味なことはしない。

 

色がピンク色だから、私が使った方がいいと思ったのだろうか。

それなら、もっと雑多にテーブルの上におく。

わざわざかしこまらせて置いたりしない。

 

何か、ファイルに入れて欲しいものがあったのだろうか。

住民票、婚姻届、戸籍謄本。

それは先週、用意してすべて渡した。

また、必要になるなら、LINEにメッセージが入るはずだ。

履歴にそんな頼まれ事はない。

 

ふと、ゴシック体の文字を確認する。

「あなたが決めることが、未来になる」

 

 

そういえば最近、将来の夢を語り合った。

 

どんな場所でどんな生活を送りたいか。

どんな仕事をしたいか。その夢を叶えるために、現状のままでいいのか。

今、やるべきことは何なのか。

 

話し合うときの約束は、それは無理って絶対に言わないこと。

たとえ相手が、億万長者になりたい、とか。

宇宙人と友達になりたい、とか。

赤レンジャーになりたい、とか言っても。

絶対に言わない。

 

無理は基本的にはない。

20年や30年で、世界はがらりと変わる。

 

ガラケーは消えてスマホになったし、ビデオはDVDに、音楽はもう電子的なやり取りが主流だ。

VRでカメハメ波も出せるようになった。

 

未来を私達は予想しきれないのだから、無理と断言するのは傲慢なのだ。

 

その話をしたとき、私は将来のキャリアについて悩んでいた。

現状維持か、それとも挑戦するか。

 

挑戦するなら、いつ、挑戦するのか。

適切な時期はいつか。

そもそもそれは、自分たちの幸せにつながるのか。

 

紙に書出しながら、頭を悩ませた。

 

でも、あれほど悩んだ先週末を忘れて、私はいつもの平日を過ごしていた。

悩まない、それも自分の頭の中をクリアにする方法だ。

 

そんな、現実から目を背けてしまったかのような行動をとる私への、メッセージなのだろうか。

「あなたが決めることが、未来になる」

決断によって未来は変わる。

目を背けず、決断せよ。そう、私に伝えたいのだろうか。

 

粛々と自分の課題を振り返りながら、私は夫より先に布団に潜り込んだ。

 

朝、目覚めると夫はまだ寝ていた。

朝ご飯を食べようとテーブルを見ると、ファイルはまだ置いてあった。

しばらくあのまま置いておくつもりなのだろうか。

私への戒めなのだろうか。

 

夫は自分に厳しい。そして自分という存在に等しい妻の私にも厳しい。

昭和終わりの生まれのくせに、たまに昭和初期生まれの日本男児のような発言をする。

真剣に考えて欲しいのだろうか。

キャリアはある意味、生きる道だ。

決断をきちんとせよ、ということなのだろうか。

 

まだ休息時間を堪能している夫に、いってきます、と声をかけて私は仕事に向かった。電車に揺られながら、自分の未来に関する決断について、考えていることを文章にして、メッセージを送った。

これでファイルは役目を果たすだろう。

 

 

特別なことはない1日だった。

 

仕事から帰ってきて、白菜が入った袋をキッチンに置いたとき、私は気がついた。

 

まだ、ファイルがある。

ファイルはまだ私を見つめ続けている。

 

慌ててLINEをチェックする。メッセージは特にない。

朝の私の考えについて、グッドポーズのスタンプが押されただけだ。

頼まれ事もない。

 

私は何かを見落としている気がする。

なぜ、このファイルだけがこんなにも丁寧に鎮座しているのか。

なぜ、このファイルが昨日から私の頭を支配しているのか。

 

「あなたが決めることが、未来になる」

この言葉以外に、目立つものは特にない。

ファイルの色はピンク色。

でも私の好きな色は黄色。

 

早く夫に、聞きたい。

なぜ、こんなにもこのファイルは丁寧に鎮座されたままなのか。

 

そして夫が帰ってきた。

 

夫から真意を聞き出すとき。

い、ざ!

 

聞いたとき、私は机の上の彼の存在にやっと気がついた。

「あなたが決めることが、未来になる」

ゴシック体よりも大きくファイルに写っていた。

私は見つめられていた。

 

夫が言いたかったことは、

妻夫木くん、かっこいいよね。

 

 

どうやったらこの呪いが解けるのか

 

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暑い日に電車に乗って空いていると、クーラーがとても気持ちがいい。

気持ちがいいまま空いている席に座ると、目の前にとても大きな白い紙袋持った男性が座っていた。 

白い大きな紙袋に、大きくI forgot と書いてあった。

主張は大きいけれど、文字の色は灰色で、若干の謙虚さがある。

 

文字だけではなかった。小さい赤い風船の絵が、Iとforgotの間を飛んでいた。

 

男性の年齢は30代前半か、疲れ切った20代後半くらい。

スーツが身の丈にきちんと合っていて、ネクタイのセンスもいい。営業マンだろうか。

 

紙袋はペシャンコで、中身は空っぽのようだった。けれども、男性はビジネスバックを足元に置いて、I forgotの大きな紙袋を手に持っていた。

ただ、投げやりに持っているのではなかった。I forgotが前に座っている人に見えやすいように持っていた。

 

 

なぜ、こんなにもI forgotが頭から離れないのだろう。この場合、きっとI forgotはデザインだ。ただ紙袋に印刷された星マークとか、ハートマークとか、ネズミのマークとかと変わりないはずだ。

 

でも、なぜ、こんなにもI forgotと書かれたあの紙袋のデザインが忘れられないのだろう。

その辺の日本人が、New Yorkとか、Speedとか書かれたTシャツを着ていても、いつもなら気にせず通り過ぎてしまうのに。

その辺の外国人が、武士道とか、烏賊とか、ぎっくり腰とか書かれたTシャツを着ていても、電車が2駅も3駅も通り過ぎるくらいに考え込むことなんてなかったのに。

 

 

そういえば、前にも、忘れられない文字によるデザインと、出会ったことがあった。

 

場所はイタリア。そのあとに行ったスイスでも見かけた。

あまりにもたくさんの人が着ていたそれには、見たこともない日本語が書かれていた。

 

異様だった。

 

金髪美女からフサフサにヒゲを蓄えた老人まで。

その文字デザインのカバンを持っている人もいた。

人が集まる駅では、必ずその文字が目に入る。

 

こう書かれていた。

 

Superdry極度乾燥(しなさい)

 

大体が黒地に白、もしくは白地に真っ黒のゴシック体で書かれていた。

いや、この場合は描かれていた、となるのだろうか。

I forgotより主張は強かった。

見た目はもちろん、意味も。

 

極度乾燥までは何とか分かる。

そんな四字熟語ないけど、原宿あたりで最近誕生したのかもしれない。

 

でも、(しなさい)はどうして?

なんで、かっこで、囲まれているんだ?

どんな意味が隠されているんだ?

そもそも極度乾燥(しなさい)ってどんな状態?

 

すぐにネット検索をしたかったけれど、ポケットwifiを持たない旅だったので、フリーwifiがある場所に着くまで、悶々と考え続けた。

 

検索をかけると、答えはすぐに見つかった。

Superdry極度乾燥(しなさい)は、服のブランドだった。

スーパーグループという会社が作ったもので、しかもこのブランドのヒットもあってか、上場もしている。

 

そしてこれは、日本ではなくイギリスのブランドだった。

 

よくある、外国人による訳し間違え、から誕生したのかと思いきや、日本語を間違えてしまった訳ではなかった。

諸説あるが、発案者がSuperdryな日本のビールにインスパイアされ、文字を並べ、しなさいに()をつけてみたら、この文字列カッコいいじゃん、という具合に誕生したらしい。意図的に(しなさい)にしていたのだ。

 

 

ここまで思い出したとき、はっと気がついた。

 

だから私は、I forgotが忘れられないのか、と。

そして、この場合I forgotが完全に勝利していることにも気がついた。

I forgotはデザインそのものなのだ。

 

今回、I forgotは紙袋に書かれている。紙袋にお店のロゴが入っている大きな理由の一つは広告効果だ。

紙袋は人が持って歩くことによって、歩く広告になる。

 

広告ということなら、見た人の目に残らなければいけない。

そしてI forgotは私の目に残った。

 

意味としては残っていない。

「私は忘れた」

日本語に訳しても意味不明だ。

でもそれはSuperdry極度乾燥(しなさい)も同じだ。

文章としての意味なんてないのだ。

カリグラフィー的な美しさとも違う。

 

ただのゴシック体なのに、美しい。

これはこの文字列でしか完成されない、デザインなのだ。

 

そしてI forgotは文字列だけで構成されたデザインではなかった。

そう、忘れてはいけない。

Iとforgotの間には赤い風船が浮かんでいた。

 

そんなことを考えている間に、電車は終点についた。

乗り換えだ。

 

紙袋を持った男性はI forgotが描かれた大きな紙袋を折ることもせずそのまま持って立ち上がった。

I forgetという言葉が電車から降りていくとき、ああ、いっちゃった。と心で呟いていた。

心の具合は、うっかり風船を自分の手から離してしまい、空に飛んでいかせてしまった時と同じだ。

それはきっと、あの赤い風船のデザインの力だ。

 

Superdry極度乾燥(しなさい)といい、I forgotといい、ここまで私の頭を支配するデザインの力は、よくよく考えると恐ろしい。

 

きっとまた乗り換えて、降りる予定の駅で降りて、目的地に着いても、その日一日I forgotを超えるものに出会わない限り、I forgotについて考えてしまうのだ。

 

 

考えていた通り、目的地である夫の実家に到着し、義母とのお茶タイムが始まっても、脳内の5%くらいをI forgotが支配していた。たまにSuperdry極度乾燥(しなさい)も顔を出す。

夫の実家で飼っている猫のブラッシングをしている間もI forgotが頭をよぎる。猫は気持ち良さそうだ。

 

これは、あれだ、暑い日にビールのことをつい考えちゃう病だ。

暑い中力仕事をしていると、終わったらキンキンに冷えたビールを飲みたいな、とか考える。考え始めると、ビールのことばっかり考えて仕事を頑張る。

 

でも、ビールは消費した瞬間に満足するけど、I forgotはどうなるの?

買いにいかないとこのデザインの呪いは解けないの?

 

結局、家に帰ってくるまで、帰りの電車の中までも悶々とI forgotについて考えてしまった。

夕ご飯を作りながらも頭の中を流れる。もはや私の脳内CMだ。

 

ドアの鍵がガシャン、と鳴って、夫が帰ってきた。

おかえり、と出迎えて、私の開口一番はこれだった。

 

「ねえ、今日さ、I forgotっていう紙袋を見てさ」

 

私は忘れた、なんて嘘だ。

夫への広告効果も発揮して、I forgotの完全勝利だわ。。

 

たまにごく健康的に、死ぬことについて考えてしまう

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死ぬ、とはどういうことなのだろうか。

 

生きていると、ふと考えるときがある。

多分個人差があるから、5歳で考えたことがあるよ、という人もいれば、70過ぎても考えたことがない、という人もいるだろう。

 

思ったとき、誰に答えを求めただろうか。

小さいうちだと、親や周りの手近な大人に聞くのかもしれない。

大人になってからは、自分で自分に聞くのかもしれない。

 

私が死ぬ、ということについて一番最初に考えたのは、幼稚園の頃だった。

多分まだ、4歳か5歳だ。

 

死ぬとはどういうことか、という問いに、一度でたどり着いた訳ではなかった。まず、季節の巡りを見て、何回これは繰り返すのか、と考えたのが始まりだった。

 

桜が咲いて、暑くなって虫が出てきて、そのうち葉っぱの色が変わって、そして落ちて、雪が降って、サンタが幼稚園にやってくる。

これを繰り返して、生きて、生きた先に死がある。

死の先は?

ここから先は、聞いた人によって答えが全く違っていて、それでいてどれも自分の腑に落ちなかったことだけは覚えている。

 

 

次に考えたのは小学生のときだった。

イスラム教研究者が書いた、こども新聞か何かのコラムに書かれていたことが、自分に衝撃を与えた。

 

イスラム教では、生まれたときから死について考える。

日常生活のうちから死について考える。死について考えるから、死の恐怖から解放される。

 

こんな内容だった。

小学生の私にとって、死とは怖いものだった。

大体漫画の登場人物が危機に迫ると、「死にたくない!」と言うし、いろんな物語で出てくる地獄の様子は本当に恐ろしい上に、大体人間が地獄に行く話が多かったからだ。

 

あの頃より大人になった今でも思う。幼少の頃から何らかに敬虔な態度を取ることを習慣づけていなければ、小学生くらいだと、大体は死ぬのって怖いなって思ってるんじゃないかなって。

 

とにかく、死を毎日考えるなんて、恐怖を毎日考えるのと同じじゃないか、世の中には不思議な人たちもいたもんだ。と、当時は思った。

 

しかし、なぜかこの「死を考え続けること」は私の心に残り続けた。

中学生になっても、高校生になっても、「死を考え続けること」とはどういうことなのか、ふとした時に気になって、自分の中で悶々と考え続けた。

 

気まぐれに思い出すものだから、特に哲学者の本を読んでみよう、とか、様々な種類の宗教の勉強してみよう、とかは思わなかった。気がついて、気が向いたときに、私は死を考えていた。

 

死が生の先にある一つのゴールのように捉えて思考をしていたせいか、私には様々なものに対してゴールや目的を考える癖がついた。

 

振り返ると、どんなことに対してもゴールと目的を求めていた私はすごく傲慢な人間になっていたと思う。ゴールと目的だけを見ていては、その人にとってそれが正しいゴールや目的であるのか、見定めることはできない。

 

ただ、理不尽なお願いだけをする人間になりかけたところで、私の目を覚ましてくれたのは友人の母の死だった。

 

私が不用意な発言をしたり、失礼な行動をとったりしたときに、怒って忠告してくれる、大切な友人だ。もちろん怒られるだけじゃなくて、楽しいことも嬉しいこともたくさん共有した上で、ちゃんと注意もしてくれる友達だ。

お母さんも私がよく知っている人で、車で駅に送ってもらったこともあった。見かけによらず、元気な運転だったのを覚えている。

とても身近で、良くしてもらっていた分、遠い身内が亡くなったときよりも、喪失感があった。

 

私は、母をなくした友人を見て、目が覚めた。

死は確かに生の先にある。だから一つのゴールとしてみたり、死に向かって生きる、という表現に間違いはないのだろう。

 

ただ、友人の姿から、「死ぬ」ということには2つの視点があるのだと感じた。

1つは自分が死の主人公になる視点。もう1つは誰かの死をみる脇役の視点だ。

 

私はいつも、自分が死の主人公になった場合のことをたくさん考えていた。死んでしまったらどこにいくんだろう。死んだ先には何があるのだろうか、と。大体この問いは堂々巡りだ。そして大抵、自分が信じているものの先に、答えを自分で構築するのだ。

 

ただ、いつも一緒にいた大切な友人を目の前に、誰かの死をみる脇役にとっての死を、私は初めて考えた。友人は静かに受け入れていた。もちろん、亡くなった日はたくさん泣いたかもしれない。まだ、心のどこかに何かがひっかかったままかもしれない。

でも、人前および私の前に立つ彼女は、既にたくさんの感情を受け入れた表情をしていた。

終わった後は、手続き色々大変だったー、リフレッシュしたいわーと行っていた彼女と旅行に行った。表情はさっぱりとしていた。

 

自分が死の主人公になって考えるよりも、誰かの死から考えることのほうが、とても悲しいと感じた。

 

小学生の私とは違って、高校生の私は、誰かの死から考えることが怖いと感じた。そして、あのイスラム教学者のコラムの「日常生活のうちから死について考える」とは、自分の死のことだけじゃなかったことに気がついた。

 

それから法律上の大人になるまで、何度か死をみたり、聞いたりした。間接的なものも直接的なものもあった。身近な人もいたし、自分との関わりが遠い人もいた。

 

その度に考えた。死の瞬間が終わっても、その時のことをふと思い出してまた考えた。考えれば考えるほど、答えは単純な気がした。死について考えることは、死の準備をしているようだった。

明日、世界が終わっても満足なように今日を生きたか、という言葉を残した人は真理をついていると思った。

 

生まれてくる準備はお母さんがしてくれるけれど、死ぬ準備は自分でしなきゃいけないのかなあ。

今日も私は、ふと、死について考えている。

 

スターといいね!の違いが分からなくて

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私は毎年、6月が来ると「ああ、今年も半分が終わったなあ」と思う。

多分他にも思う人たくさんいるんだと思うけど、色んなことが始まる4月から数えると2ヶ月ちょっとしか経っていないし、ジメジメしてなんか曇ってて暗いし、特に何かが始まる感もないせいか、私の周りの人は大抵、「6月をそう捉えたことなかったわ」って言う。

多分夏休みが終わった後の9月とかの方が、今年も夏が終わって、だんだん終わりに近づいてくるなーって思うのかも。

とにかく6月に、今年も半分終わったわーって言う人は、私の周りにはなかなか見つからなかった。

 

半分終わったなーって思ったときに、夫婦共通の友人に指摘された一言から、私は日記を書くことを決めた。

もっと、思ったことを言った方が良い。

私は何か思っても自分の中で咀嚼して自分の中で終わらせてしまうことがとても多い。結果、こいつしゃべらないやつ、と結構たくさんの人に思われているようだ。

 

勝手に自己解決は時に人間関係の交通事故を引き起こす。いらぬ誤解、思わぬケガ、離しておけば起きなかったこと、が私の周りには結構あった。

 

しかししゃべろうとして私は気がついた。そうしゃべることがよくわからない。とりあえず自分の気持ちを出すのが下手なのかもしれない、と考え、毎日日記を付けることで自分の考えをきちんと言葉にできる練習をしようと思ったのが、ブログを書こうと思ったきっかけだった。

目標は毎日書くこと。1行でも良いから、来年の6月6日までとりあえず毎日書くことを習慣にすること。

さて、2ヶ月経ってみてどうか。

びっくりするのは、2ヶ月前は何を書けば良いのかさえよく分からない状態で、マジで1行で終わらせることもたくさんあったのだが、今は内容はともかく、結構な長文で日記を書くことができるようになってきた。

自分が進化している。

 

本題の現実世界でのしゃべりはどうか。

これもちょっとマシになってきた気がする。気がするだけだし、いや、わけわかんないことしゃべってるだけだよって思われるかもしれないけれど、元来偉そうなことしゃべっている人だって実は話の内容は大したことなかったりするし、しゃべりがつたなくても幼稚園児の方がめっちゃいいこと言ったりするんだから、私ごときが気にすることではなかったのかもしれない。

 

そんなこんなで続けてきた私だけれども、最近ずっと考えていることがある。

はてなブログを利用しておいてそりゃないだろっていう疑問だと思うけど、

 

スターってなんだろう???

 

なんか面白い記事にはたくさんスターが付いているし、Facebookのいいね!的なやつなのかな?くらいの感覚で、とりあえずこの記事おもしろい!って思ったやつとか、猫の写真可愛い!とか、このレシピうまそ!とかって思ったやつにポチポチつけていたのだけれども、実際のところよく分からない。

黄色い星かわいい!って思って黄色い星つけているけれど、たまにみかける赤い星とか緑の星ってなんなんだろう。いいね!にレベルがついたのかな?

 

とにかく疑問がたくさんだった。

疑問は聞く前にまず自分で調べる、ということで調べることにした。

 

はてなブログ スター 意味

とかで検索すれば良いのに、なぜかはてなブログだけで検索してしまった。

しかもオフィシャルサイトではなくWikipediaを開いた。

はてなブログ - Wikipedia

冒頭分を読むと分かる。なにこのかっこいいキャッチコピー。

はてなブログにはそんなかっこいいキャッチコピーがあったのか。

 

「書き残そう、あなたの人生の物語」

なんて日記にぴったりなブログサービスなんだろう。これからも毎日頑張ろうと思えた。

 

気を取り直して、スターについて調べた。

topisyu.hatenablog.com

なんと分かりやすい!

そしてはてなスター奥深い!そんな色々な使い方や機能があったのか。

紹介しているとキリがなさ過ぎるのだが、そもそもこのスターが必要かどうかを論じている方もいたり、スターって結構奥深いようだ。

実はFacebookのいいね!は必要かどうかも、ここまで熱くみんなで議論されているのだろうか。

 

前よりもスターのことが分かった気がするけれど、やっぱり私には、Facebookのいいね!機能と同じような機能にしか見えないや。

 

 

目に見えないものが一番こわいのよ

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大人になると、楽しいことが増える。そして楽しいことの分くらい、自分が自分でなくなっていくような、危険なことも増える。

物が絡むような目に見える危険は分かりやすいし、元々学校でもある程度教えてもらえる。一応家庭科の教科書にはクーリングオフのやり方が載っていた記憶がある。

でも、大人になった人なら分かると思うけれど、一番危険なのは目に見えないものだ。

 

思想とか考え方とか、これは目にはっきり見える訳じゃないから、自分自身の自我がしっかりしていたり、元々宗教観がはっきりしている人以外は、自分に取って必要かそうでないかの判断が自分だけではつけられない。

そうすると、その考え方を提唱している人に聞くことになる。これって実はフェアじゃない。相手が、離れていくのもまたその人の道、とかって言って人間に執着していなければ問題ないけど、大抵人間に執着している。

一度引き入れたら離すもんかの勢いで引き込む。それが本気で相手の幸せを願っていようとも、本来幸せなんて人それぞれで、その人の幸せをコントロールしようというのは、冷静に考えると結構傲慢な態度だ。

 

そもそも人の幸せはみんな同じ、って思っている人にはこれは通用しないかもしれない。別にそう考えたければそれでもいいんだけれども、人の幸せはみんな同じ、っていう考え方は、行き着くところに殺人や差別があったりした宗教及び思想の歴史は踏まえておいて欲しい。

 

 

大人になって、昔の友人と会うとたまにこんな話になる。

これ、素晴らしい考え方なんだよ。

これやるとみんな幸せになれるよ。

宗教なのか、はたまたネットワークビジネスか。別にそれ自体を私は否定しようとは思わない。それで救われる人がいるなら救われた方が世の中平和になるかもしれない。

昔の友人を失ったような気がして、なんとなく残念な想いになる人もいると思うけど、そういう人はそういう人だ。

 

私は決まってこう声をかける。

素晴らしいし、リーダーがそんなに素晴らしい方ならマーケティングのプロをやとって様々な手法で広めたら良いよ。出版関係とかメディアの人とつながったら強いんじゃない?

ここで食い下がった人と私はまだ出会えていない。本気出したらお金なんてクラウドファウンディングで集まるし、みんなが幸せになるならみんなを幸せにしてやってくれ。

 

私は特段、自分の現状を不幸だと思っていないし、人生をわりとエンジョイしている、と思う。誰になんと言われようと、夜暗くなってから星空を眺めながらをお風呂、よりも夕方のお風呂が好きだし、風呂上がりのビールは最高だ。キンキンビールにキンキンに冷やしておいた枝豆とかもう最高。

ブータンの国では、幸せを感じるために欲を減らせ、という話があるらしいが、多分私は元々そんなに欲がないのかもしれない。いや、欲がないというわけじゃない。欲の量が現状の私に適量なのかもしれない。

 

何が嫌かって、

これ、素晴らしい考え方なんだよ。

これやるとみんな幸せになれるよ。

って誘う人は、必ず相手が現状不幸だと決めつけて、もしくはこれ以上さらに幸せになれるよ、と欲の押し売りをしてくるところだ。

最初はなんだこの傲慢な人間は!こんな人間になりたくないわ!絶対やらんわ!

と思っていたけれど、

最近、そんな相手を、自分以外の人を不幸だと思うことによって自分のことを相対的に幸せだと自分に言い聞かせているギリギリの人、と思うことにした。

というのは、誘ってきた人の話はあまり聞かないようにしていたのだけれども、ある日誘っていた人の心がプツンと切れてしまったようで、心の病気になってしまったのだ。多分、ギリギリの精神状態だったんだろう。私のことを下にすることによって心を保っていたのかもしれない。

なまじ仲が良かった人だっただけに、悲しくなった。

ギリギリのところで命はつながったようだけれども、それでもちょっと相手が肩をよっかけてもいいと感じられるような、毒気のない友達の1人でいればよかったかなあ、と思うようになった。

 

幸せの押し売りに対して嫌な気持ちは変わりないけれど、相手がそれで心が保てて生きていられるなら、存分に心を保って欲しいと最近は思う。

私は医者でもなければセラピストでもないので、できることは限られているけれど、こうして食事に行こうって、目的が何であれ楽しい時間を過ごそうと考えている人は、これからも大切にしたい。