宴会芸なんて古い。
芸をしに会社に入った訳ではないのに、どうして会社は芸を求めてくるのだろうか。
仕事ができていればいいじゃないか。
意識高い学生であれ、普通の学生であれ、こうした意見を多く聞くのはそういう世代だからだろうか。
そんな世代の真ん中にいながらも、私はこの『宴会芸』という文化については無関心だった。何の役に立つのかは分からないけれど、とりあえず言われた事だしなんかやろう。何か出来るように一芸を磨こう。
大学で一芸披露を求められる部活動に入部したせいもあってか、そういうものが当たり前だと思っていた部分もあるかもしれない。別のサークルではそういうことが一切なかったので、ああ、もう古い文化なのかもしれないな、と思いつつ、特に廃止をしようと運動したりとか、そういったことはしなかった。
伝統だしな、と流して、芸を磨いた。
おかげで社会に出てから困らなかったので、この『宴会芸』という文化をあまり疑わなかったし、問題に思った事もなかった。
つまり無関心だったのだ。
マザーテレサ曰く、愛情の反対は無関心。
圧倒的に、なんの興味も沸かず、賛成でも反対でもない、というかもはや意見を述べられるほどそれについて考えた事もない、という状況だ。
ただ、社会を楽に渡っているような気がしたので、特段反対しようという気持ちが起こらなかった、という意味では『賛成派』だったのかもしれない。
社会に出てから、幸い宴会芸にものすごいレベルを求められるような職場ではなかったので、学生時代につくった宴会芸貯金で乗り切る事が出来た。
けれども、友人の中にはものすごいレベルの高い宴会芸を職場で求められている、という友人もいた。
歌が得意な人はカラオケを頑張ればいいのだろうけれど、そうでない人は踊りの練習をしたり、何かを暗唱したり、物まねを研究したり、仕事以外の事を一生懸命になっていて、本当に大変そうだと思った。
しかし、数年経ってくると、そうやって会社の仕事以外の事にも一生懸命になった友人達は、人間としての器が大きくなったように見えた。
どちらかというと学生時代には気遣いなんて出来ない方で、方々に迷惑をかけていたのにそんなことはなくなったし、会話の幅も広がった。相手の気持ちをよく考える、素敵な大人になったようにみえた。
それが宴会芸によるものなのかどうかは分からない。けれども、こうして年相応に大人としてしっかりしている人たちは、会社の宴会芸を乗り切ったか、もしくは学生時代に思いきり、遊びに本気で夢中になった人達である傾向があるなあ、と私の周りを見ていて思う。
学校で与えられたもの、職場で与えられたものだけでなく、自分が夢中になった者に対して本気で遊びに行ったり、一見無関係そうなことに全力で取り組んだ人は、少し人とは違う視点を持っていたりする。
遊びだって、本気でやればスキルが身に付く
これは文化祭に言える事かもしれない。
文化祭の面白さは偏差値に比例する、昔誰かが言っていた。もちろん全てがそれに当てはまる訳ではないし、そうじゃない例だってあると思うけれど、いろんな高校や大学の学祭、というものを覗いてみた時、賢そうな人達が集まる学校は結構やっていることが本気だ。
例えば折り紙。幼稚園、保育園児たちの遊びのイメージが強いかもしれないけれど、ある日ネットで東大折り紙サークルの作品を見た時、度肝を抜かれた。
こんなん折り紙で作れるのか、という衝撃があった。
折り紙に限らず、歌でも、スポーツでも。何かに本気になる、夢中になる、という経験はそのスキルだったり、精神だったりを大きく成長させてくれる起爆剤なのかもしれない。
そして、もしかしたら『宴会芸』は、そんな遊びを学生を卒業するまでに本気になれなかった人達のための最後のチャンスなのかもしれない。
仕事とは何の関係もない事に夢中になって、それをみんなの前で発表する。
いや、でも本当だったらそういうバカは十代でやってこそ楽しいし、失敗の規模も小さいんだから、学生のうちに本気で遊んどいた方がやっぱりいいんじゃないかな、と思うけどな。