くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

たまにごく健康的に、死ぬことについて考えてしまう

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死ぬ、とはどういうことなのだろうか。

 

生きていると、ふと考えるときがある。

多分個人差があるから、5歳で考えたことがあるよ、という人もいれば、70過ぎても考えたことがない、という人もいるだろう。

 

思ったとき、誰に答えを求めただろうか。

小さいうちだと、親や周りの手近な大人に聞くのかもしれない。

大人になってからは、自分で自分に聞くのかもしれない。

 

私が死ぬ、ということについて一番最初に考えたのは、幼稚園の頃だった。

多分まだ、4歳か5歳だ。

 

死ぬとはどういうことか、という問いに、一度でたどり着いた訳ではなかった。まず、季節の巡りを見て、何回これは繰り返すのか、と考えたのが始まりだった。

 

桜が咲いて、暑くなって虫が出てきて、そのうち葉っぱの色が変わって、そして落ちて、雪が降って、サンタが幼稚園にやってくる。

これを繰り返して、生きて、生きた先に死がある。

死の先は?

ここから先は、聞いた人によって答えが全く違っていて、それでいてどれも自分の腑に落ちなかったことだけは覚えている。

 

 

次に考えたのは小学生のときだった。

イスラム教研究者が書いた、こども新聞か何かのコラムに書かれていたことが、自分に衝撃を与えた。

 

イスラム教では、生まれたときから死について考える。

日常生活のうちから死について考える。死について考えるから、死の恐怖から解放される。

 

こんな内容だった。

小学生の私にとって、死とは怖いものだった。

大体漫画の登場人物が危機に迫ると、「死にたくない!」と言うし、いろんな物語で出てくる地獄の様子は本当に恐ろしい上に、大体人間が地獄に行く話が多かったからだ。

 

あの頃より大人になった今でも思う。幼少の頃から何らかに敬虔な態度を取ることを習慣づけていなければ、小学生くらいだと、大体は死ぬのって怖いなって思ってるんじゃないかなって。

 

とにかく、死を毎日考えるなんて、恐怖を毎日考えるのと同じじゃないか、世の中には不思議な人たちもいたもんだ。と、当時は思った。

 

しかし、なぜかこの「死を考え続けること」は私の心に残り続けた。

中学生になっても、高校生になっても、「死を考え続けること」とはどういうことなのか、ふとした時に気になって、自分の中で悶々と考え続けた。

 

気まぐれに思い出すものだから、特に哲学者の本を読んでみよう、とか、様々な種類の宗教の勉強してみよう、とかは思わなかった。気がついて、気が向いたときに、私は死を考えていた。

 

死が生の先にある一つのゴールのように捉えて思考をしていたせいか、私には様々なものに対してゴールや目的を考える癖がついた。

 

振り返ると、どんなことに対してもゴールと目的を求めていた私はすごく傲慢な人間になっていたと思う。ゴールと目的だけを見ていては、その人にとってそれが正しいゴールや目的であるのか、見定めることはできない。

 

ただ、理不尽なお願いだけをする人間になりかけたところで、私の目を覚ましてくれたのは友人の母の死だった。

 

私が不用意な発言をしたり、失礼な行動をとったりしたときに、怒って忠告してくれる、大切な友人だ。もちろん怒られるだけじゃなくて、楽しいことも嬉しいこともたくさん共有した上で、ちゃんと注意もしてくれる友達だ。

お母さんも私がよく知っている人で、車で駅に送ってもらったこともあった。見かけによらず、元気な運転だったのを覚えている。

とても身近で、良くしてもらっていた分、遠い身内が亡くなったときよりも、喪失感があった。

 

私は、母をなくした友人を見て、目が覚めた。

死は確かに生の先にある。だから一つのゴールとしてみたり、死に向かって生きる、という表現に間違いはないのだろう。

 

ただ、友人の姿から、「死ぬ」ということには2つの視点があるのだと感じた。

1つは自分が死の主人公になる視点。もう1つは誰かの死をみる脇役の視点だ。

 

私はいつも、自分が死の主人公になった場合のことをたくさん考えていた。死んでしまったらどこにいくんだろう。死んだ先には何があるのだろうか、と。大体この問いは堂々巡りだ。そして大抵、自分が信じているものの先に、答えを自分で構築するのだ。

 

ただ、いつも一緒にいた大切な友人を目の前に、誰かの死をみる脇役にとっての死を、私は初めて考えた。友人は静かに受け入れていた。もちろん、亡くなった日はたくさん泣いたかもしれない。まだ、心のどこかに何かがひっかかったままかもしれない。

でも、人前および私の前に立つ彼女は、既にたくさんの感情を受け入れた表情をしていた。

終わった後は、手続き色々大変だったー、リフレッシュしたいわーと行っていた彼女と旅行に行った。表情はさっぱりとしていた。

 

自分が死の主人公になって考えるよりも、誰かの死から考えることのほうが、とても悲しいと感じた。

 

小学生の私とは違って、高校生の私は、誰かの死から考えることが怖いと感じた。そして、あのイスラム教学者のコラムの「日常生活のうちから死について考える」とは、自分の死のことだけじゃなかったことに気がついた。

 

それから法律上の大人になるまで、何度か死をみたり、聞いたりした。間接的なものも直接的なものもあった。身近な人もいたし、自分との関わりが遠い人もいた。

 

その度に考えた。死の瞬間が終わっても、その時のことをふと思い出してまた考えた。考えれば考えるほど、答えは単純な気がした。死について考えることは、死の準備をしているようだった。

明日、世界が終わっても満足なように今日を生きたか、という言葉を残した人は真理をついていると思った。

 

生まれてくる準備はお母さんがしてくれるけれど、死ぬ準備は自分でしなきゃいけないのかなあ。

今日も私は、ふと、死について考えている。