くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

慣習を壊すという経験について

f:id:kuro-yan:20180413104601j:plain

仕事をする中で、学校に通う中で、時にこれまでの慣習を変更しなければ行けない場面に直面する事がある。

それは時には良い慣習であることもあるけれど、大抵は「今」「現在」では悪い慣習だと考えられる事が多いだろう。

そう、昔はそれがよかったし、それがベストだったもの、だろうけれども、「今」「現在」という視点から見ると、今いる人たちにとって精神的に害悪であったり、状況が変わって、それがベストではなくなったりしていることがある。

 

そして大抵、慣習を壊す側というのは、大変なエネルギーが必要な上に、批判を受け易い立場になる事が多い。

これまでとは違う、今、現在に合うベストを探そうと冒険する人は、出る杭は打たれる、ということでまず叩かれる。

それは人類が冒険者達に必ずしも好意的でなかった歴史が証明している。鑑真にしろ、マルコポーロにしろ、その探検の苦労、苦しみは当時から考えれば、とてもじゃないけれど、普通の人には真似できない、と考えられるような苦行に近いものだったようだ。周囲の反対を押し切った上でなおかつそういった行動に移せるエネルギーはいったいどこから湧いていたのか、見習いたい。

また、天動説ではなく地動説を唱えた人は裁判にかけられたし、人類の祖先が猿だった、といた人も大変な迫害を受けたという。彼らは違う考え方を追求しようとした、知の冒険者達だ。

今の日本はこうした違う考え方を追求していても、命が危険に晒されるレベルにはそうそういかないから、そう言う意味では今の方が慣習は壊し易いのかもしれない。

 

多分、誰しもとまではいかなくても、多くの人が、小さい頃か大人になってからか、とにかくどこかで、「慣習が壊れる瞬間」に立ち会った事があるのではないだろうか。

時に慣習を守る側だったり、時に慣習を壊す側だったり。はたまたその状況を冷静に俯瞰していただけの人もいるのかもしれない。

 

どちらの立場になった事も、そこそこ覚えているが、どちらかというと冒険心がある私は、慣習を壊す側になることが多かった。

 

先日、学生時代の先輩が飲みの席で語っていた一言から、「慣習を壊すということ」について考えさせられた。

 

先輩は当時の状況をこう言った。

「私達の頃は、そんなことほいほいできなかったから、今は良い時代だよね」

 

私は、先輩の言う、「そんなこと」をほいほいできるようにした立場にあったため、「えっ!?そうだったの?」という衝撃と、当時、「そんなこと」をするための許可事体は、実はあっさりおりて、どっちかっていうと慣習を守りたい側の圧迫がすごかった記憶が強かったので、何があったのか、(私が手を出す前に誰かが挑戦していたのか)詳しい経緯が知りたくなって、話を聞いてみた。

 

すると、その先輩の話では、やってみてさえいない、という事が分かった。

 

私は、適当に相槌を打って、その話はおしまいにしてしまったけれど、

日本における大抵の慣習はこうやって守られているのかもしれない、と思った。

 

慣習を頑に守ってきた先輩達でさえ、「今の状況の方がいい」「恵まれている」ということがとてもよいと思っていて、かつ自分たちの時代もそうだったらよかったのに、と思っている。

けれども私は慣習を壊す側だったからよく覚えているが、許可は正式におりたのに、頑に拒否していたのはそんな上の世代の人達だ。

 

つまり、

・大抵、やってみた、試みた事はない

・実は本音はそうしたいと思っている(けど下の者に変えられることに反発心がある?)

 

きっとこれからの時代、これまでの「当たり前」を疑えるということがとても大きな能力の一つになっていくと思う。

今、私達が使っているシステムだったり、道具のほとんどが、「当たり前」の外で生まれたものだからだ。

 

そもそも宇宙や、地球や、人間が生まれた事だって、バラバラにした時計の部品をプールに投げ込んで、混ぜているうちに組み上がった、くらいの奇跡的なこと、という風に言われている。

大体の物事の起こりは、そうした偶然、奇跡でできあがっているのであれば、慣習だって、大抵偶然にできて、奇跡で壊れる。

だから、もしも今、何かの「当たり前」や「慣習」と戦うときがきたら、もしくは戦っている最中だとしたら、あきらめずに、道を歩き続けてみて欲しい、と心から思う。