若者の死因、自殺が1位。なんとも悲しいニュースです。
色んな見方があるとは思いますが、女性だからでしょうか。もしも自分が生んだ命が自ら死にいったら…と想像するだけで、ものすごく悲しい気持ちになります。
私は基本的にポジティブな人間なので、あんまり死にたいとか考えたことはないのですが、人生で全く考えたことがないかというと、そうでもないです。
小学生の時、意地悪された時は泣いてもう人生終わらせても良い、とか思ったことありますし、思春期のときも相応に人生について悩んで、死にたくなったときもあります。(死にませんでしたが、10円ハゲができるくらいにストレスだったようです)
死にたくなりそうになりながらも、こうして生き延びている訳ですが、その理由の一つとして、自分の命と向き合う時、必ず世界とも向き合っている、というのが一つある気がします。
▼世界と向き合う。それは地球を感じるということ。
文字にするとだいぶ怪しいですね(笑)
地球を感じる、というのは何も怪しいことでもなく、すごく身近なところで言うと、超田舎で回りに電球も何もない場所で天の川を見たときに感じるもの、のようなものです。つまり、人間以外のものの存在を大きく感じる瞬間、とでも言えば良いのでしょうか。
当たり前ですが、この世の中に生きているのは人間だけではありません。
私達の大多数は人間の中で、もっと言うと人間のシステムの中で生きていますが、自然の中に入ると、そんな人間のシステムがとてもちっぽけに感じます。
今晩星を見上げて、その光っている星の場所で起きていることなんて、私達に想像できないように、あちらの星から私達のことをみれば、今自分が感じている悩みなんて、すごくちっぽけに思えてきます。
平たく言えば、世界はまだまだ広いって感じる、ということなんでしょうかね。
本気で逃げたければ、実際に一旦、地球の裏側まで逃げてみればいい、とさえ思えます。
お金がない、時間がない、家族が心配する、会社・学校がある。
色々あると思いますが、それも人間が作った物なので、究極的には抜け道が必ずどこかにあるものです。
神様が作った宗教でさえ、まだ完璧に機能していないので(戦争とか宗教のせいでおこったのもあるよね)、人間が作った物がそりゃ完璧になんて、幻想もいいところです。
▼世界は果てしない、まだまだ行くところはたくさんある
人間以外の物、自然の存在を大きく感じると、私は不思議と好奇心も湧いてきます。なぜ、自分はここにいるんだろう、という哲学的な好奇心から、この川の水はどうしてこの幅で流れているのだろう、とかどこまでどれくらいの距離を流れているのだろう、とかこの風はどこから吹いてきたのだろう、という自然科学的なものまで。
疑問で溢れると、死んでる場合ではなくなっています。なんやかんやで自分という存在をつかって地球を遊んでいるのだと思うと、気楽です。
誰かが、地球は遊び場、人生は壮大な暇つぶし、という言葉を残していますが、死にたくなったときはまさにこの言葉がてきめんだったりします。
▼迷惑をかけない人、はいない
そもそも迷惑ってなんでしょう。人が嫌がることをする、それも一つの回答です。
けれども、生まれてから死ぬまで、迷惑をかけない人、なんていないし、もしもいたとしたら、その人のそう言う思考回路が一番迷惑な気もします(笑)
だって、俺は誰にも迷惑なんてかけたことないぜーって言っている人、絶対自分が何か迷惑をかけていても、それは迷惑じゃないってこじつけているパターンだし、迷惑をかけているかもしれないなあ、と謙虚な人の方が人としては多くの人が付き合い易い人、だと思います。
なんやかんやと書きましたが、自分についての生死を考えることも、必要なことではあると思います。
とある国では、生きるということと一緒に、どう死ぬべきか、ということも考える風習があるそうです。日本でも過去、武士なんかはそういう思考をしていたようにも思います。
死ばかりを考えるのはバランスが良くないですが、同じように生きることばかり考えているのもあまりバランスが良いものではないようにも思います。
生きるのと同じくらい死のこともたまには考えた方が良いでしょうし、死ばかり考えている人は、たまには生のことも考えてみるのも、思考がクリアになると思います。
そして、自分自身の生死がミニマムに自分の内面の極地にあるとすれば、果てしない世界のことについて考える、という行為は外側の極地を指すかもしれません。
私は、バランスよく、どちらのことも考えているうちに、人生がわくわくしてきますので、何かに悩んだ人はぜひ、お試しあれ。