今週のお題「受験」
高校受験よりも大学受験の方が記憶に残っているのは、記憶として新しい方であるから、というよりも、高校よりも必死に頑張った事と、その後に発生した奇跡的な出来事のせいかもしれない。
私は大学に行きたい、だから高校に行く。という決め方で行く高校を決めていたので、大学へ進学する事に関しての迷いはほぼ無かった。
大学に入る前から、卒論(というか論文)を書きたいという思いをもっていたという意味では、かなり稀な受験生だったかもしれない。
本を読みたい。もっと世界を知りたいという知的好奇心に溢れる私は、とにかく大学に行きたいと、中学生の頃から思っていた。
迷いは無かった。
専攻したい方面については迷いながらも最終的には教育系に決めて、夏の大会で部活を引退してからは猛烈に勉強に励んだ。
正直そこまで賢くもない私だったくせに、なぜか進学校の癖に年に休みは3日だけ、という鬼のような部活動に入部し、部長をこなすうちに、最初こそ学年でど真ん中くらいの学力だったのが、受験生となる3年時にはギリギリ中の下くらいとなっていた。
模試を受けると偏差値はぴったり50か、科目によっては50いかないくらい。まあ、スタートは割と普通だったかもしれない。
けれども、学費節約の為に、国立しか受験しない、といういつの時代の受験生だよという方針を決めてからは鬼のように勉強した。
自分が勉強したい分野は国立でも十分だという理由と、親に通帳を渡されていて、それでなんとかしろ、と言われていた通帳の中身だと、私立に行く場合、アルバイトをしないと、旅行にも手軽に行けない財務状況になる事が分かったためだった。
特に国立にしろ私立にしろ、一人暮らしをしなければいけなかった私にとって、名のある私立の立地はどこも家賃が割高の都市部に限られる事が大きな要因だった。
しかも受験料も高いし、受験した後の入学する前の前金みたいなのも高い。何もかもが高額で、国立にしよう、と心に決めた。
毎日十時間以上勉強していた。
朝5時に起きて、弁当を作り(我が家は母が朝が弱い、という理由で自主的に朝早く学校に行きたい場合のお弁当は自分で作るルールとなっていた)、5時30分頃の始発に乗って高校に行き、教室もしくは自習室で、学校が閉まる夜7時まで勉強していた。
その後は近くの空いたカフェで一時間半ほど勉強し、9時30分頃帰宅。
すぐ風呂に入り眠る。
電車に乗っている一時間もひたすら勉強に充てるという、どこかの修行僧のような生活だったように思う。
部活をとことんやった分、自分はかなり遅れている、と思ってひたすら勉強にうちこんだ。
センター試験を受ける頃には、国立大学の合格ラインに届くほどになっていた。あとはセンターの結果次第で、どこの国立大学にしぼるか決めるだけだった。
ここまでで特に何か劇的な事は無い。
ただ私が修行僧のような生活を送っていた事くらいだ。この生活で第六感が開花した訳ではないと思うけれど、この後思わぬ展開が待っていた。
センター試験が終わった後の三者面談で、その決断は執り行われた。
地価が安くて、東京へのアクセスも悪くなりすぎない(海外旅行にたくさん行きたいと思っていたので)、なおかつ自分が取得したい資格やらを総合して、国立大のA大とB大まで絞られた。
A大よりはB大の方が、偏差値が結構高めだったことと、私が私立を受けないことを加えて、絶対安全パイということで先生も親もA大をすすめた。
悪くないと思ったけれど、私はB大も中々魅力的で、捨てきれなかった。
そこで私は、今時分で客観的に考えれば、自分でも自分を止めてしまうかもしれない受験プランを担任と親に提案した。
前期試験はA大、後期試験はB大
普通、逆である。
大体前期で挑戦、後期には安全パイの志望校を配置して、勝負に挑む。
これは大富豪で、まだプレイヤーは人数いるのに、最後のカードが3とキングだけの状態でキングを出し、もしも他のプレイヤーが一人でもこれより上を持っていたら終わりだぜっていう状態だ。
先生も止めた。親も止めた。
だって、どう考えてもギャンブルのそれと同じような行動をとっている。
だが、先生も親も納得せざるを得ない数字もそこにあった。
どちらの大学の判定も、とても良かったのだ。
落ちるはずが無い。
そんな数字がそこに出ていた。
センターがちゃんと頑張れていた。
しかもA大もB大も当時はなぜか小論だけだった。
さらに小論はとある予備校の模範解答に選ばれるくらい、なぜか得意だった。多分記述が向いていたのだと思う。
(今思えば、小論に限らず、数学も国語も記述式の試験が得意だったから先生は私立を熱心にすすめてくれたのかもしれない…)
というわけで、小論に加えてセンター試験の得点がよかったという事実から、私は前期A大、後期B大を受ける事を決めた。
出願前に何度も確認されたけれど、なぜか私は頑に押し通した。なぜあんなに頑だったのかは今となっても説明付かない。
結果として、私はA大に落ちた。
その時点から先生は浪人生モードで私に接してきた。
そりゃそうだ。
絶対大丈夫と思っていたA大が落ちたのだ。
しかも私よりもセンターが低い子が受かっていたことを知る先生は、センターでマークシートミスかなんかがあったのだろう、と原因をセンターに見た。
マークシートのミスならセンターの得点は超絶低い。
私自身も浪人モードに入った。
センターでミスっているなら、よりレベルが高いB大なんて、受かりっこ無い。
B大も受けに行ったけれど、記念受験だと思って行った。
終わってから私は春休みを楽しもうと、遊んでいた。
なにしろ仙人……修行僧のような日々を送っていたのだ。一度、はめを外しておかないともう一年なんて頑張れない。
B大の発表の日も、友達と街に遊びに行っていた。
合格発表は帰宅してからみようと思っていた。
けれどもそうはならなかった。
友達と遊んでいる時、母親から電話があった。
あんた、B大受かってるわよ
え?
春から大学生?
春から大学生になることが決まっていた一緒に遊んでいた友達は祝福してくれた。
私はしばらく夢なんじゃないかと思っていた。
担任の先生に連絡すると、
前代未聞だと驚いていた。
そして言われた。
「あのときのお前の一見、ばかだなあ、と思う提案を否定しなくてよかった」
と。
慌ただしく部屋を決め、慌ただしく入学の準備をして、四月に私は大学生になった。
ちなみにセンターの自己採点ミスはなかった。だからもう、ただただ、A大に縁がなかったのだろう。小論の内容が気に食わなかったのかもしれない。
あの時、頑にB大を、後期に回してまで受けたかった私の決断は、今でもやっぱり謎だ。謎の自信にあふれていた。
いや、自信あるなら前期で受けろよって感じだけど。とにかく後期に受けたかったのだ。
自分でも自分で自分の決断を否定しなくて良かったと思った。
確実にあの三者面談で、自分の第六感的直感は働いていたんだと思う。それくらい、変な受験の仕方だった。
あの後、ふと、卒業式でとあるお偉いさんが短めに語った、卒業生への言葉が頭の中をぐるぐるしていた。
『人生の3つの坂』という話しだった。面白くて、今でも覚えているんだから、あのお偉いさんはすごい話し上手だったのかもしれない。
人生には3つの坂がある。
1つめは上り坂。辛い時、部活動や勉強を頑張っていて、でも結果が中々出なかった時、それは上り坂をひたすら登っているように、辛いときも会ったと思う。人生においてもそれは存在する。辛い時ってある。
2つめは下り坂。何か成功しているとき、楽チンな時ってあるよね。そういう時は下り坂。楽だけど、スピードをつけすぎると事故になるから気をつけなさいよ。
んで、3つめ。
3つめって何だと思う?
上りも下りもでちゃったよね。
3つめはね、「まさか」(ま坂)です。
生きていると、上ったり下ったりする他に、「まさか!」
って出来事があるんだよ。
ホント、唐突にそれは訪れる。
いつも突然起こるから事前に対応っていってもなかなかできない。
まあ、備えても備えてもやってくるのが「まさか!」だからね。
でも、人生この「まさか!」って時が人間の本性が出るんだよ。
「まさか!」って時に、どんな行動をとれるか、どんな考え方をする事が出来るか、それで「まさか!」はよくもなるし、わるくもなる。
人生のボーナストラップみたいなもんなんだよ。
こんな感じの話しだった。
私はA大に落ちた時が一度目の「まさか!」だった。
やる気を失ったものの、B大をきちんと受けに行ったからこそ、チャンスはきちんと繋がった。
そして、私の修行僧のような半年間の努力はちゃんと報われた。
B大が受かったのは嬉しい「まさか!」
大人になった今ではもう全てが笑い話で、小さい話しに見えてしまうんだけれど、あのときには本当に受験は世界の全てだったし、それに人生をかけていた。
成功したから笑い話って思うかもしれないけれど、
多分これでB大が落ちていたとしても、後悔はしなかったと思う。
それは自分で決断した事だったから。
私は修行僧のように生活を積み重ねた受験という試練から、何よりも、自分で決める事の大切さ、を実感したのかもしれない。
たったそれだけ、かもしれないけれど、とても大きな、私にとってはとても価値のある、「たったそれだけ」だ。
先生や親には、私に決断させてくれてありがとう。と伝えたい。