まっすぐにいこう

けいぞくはちからなり。将来ひ孫に見せる私の日記

自分自身にとっての『知る』ということについて思考整理してみた

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人生は何もしないには長すぎるが、 何かをするには短すぎる

 

山月記』の作者として知られている中島敦の言葉です。

無為徒食に日々を過ごすのと、志を立てて日々を過ごすのでは時間の流れが異なる。
それは「毎日の充実度」とも関係があるのだろう。
同じ時間を過ごすのであれば、少しでも充実した時間にしたいものだ。

 

 

私はまだまだ人生それなりに生きた、と言えるにはほど遠い年齢ですが、何もしなかった時期にはだんだんと人生を長く感じ始めたし、何かに一生懸命なときほど人生って短いな、と強く感じました。

学校の授業なんかもそうかも知れません。何かを学ぼう、頭に入れよう、と思うと、授業一コマ、45分であったり90分はとても短い。

けれども、早く終わらないかな、と思って過ごすととても長く感じる。

学ぼうと思っても長く感じる、という人は、多分一度目標を具体的にしてみると良いんだと思う。

暇、と思っている人は、45分後、あるいは90分後に同じテーマの授業もしくは講義を、このことを全く知らない人、例えばその授業を取っていない友人だったり、この授業を理解するための素地はあるであろう身近な大人、や兄弟に説明して分かってもらう、というアウトプットを一度してみるといい。

アウトプットしようとすると、本当に理解していないとできないから。

 

 

暇だ暇だ、と人生を生きるか、

楽しい、面白い、密度が濃い!と人生を生きるか、

どっちだいい?

と聞いたら、多分9割くらいの人は後者がいいってえらぶんじゃないだろうか。アンケートを取った事がある訳ではないけれど、直感的に三秒で選んで!みたいな感じで聞いたら、ほぼほぼ9割が多分後者だと思う。

人ってやっぱり役割が与えられた方が生き生きとして、幸せ度が高そうだなっていうのは、定年退職で引退した多くのおじ様がたが証明してくれたように感じる。

こんなデータもあるし。

www.dentsu.co.jp

 

じゃあ、楽しい、面白い、密度が濃い!

と思って生きるためにはどうしたらいいのだろうか。

そこで出てくるのが最初のこの言葉。

『人生は何もしないには長すぎるが、 何かをするには短すぎる』

そう、何かをすればいい。

 

何かをするにはどうしたら良いか。

それには何をしたいのか、自分を良く知らなければ行けないし、自分をよく知るには自分が今いる場所についてもよく知る必要が出てくる。

自分が立っている場所が森の中なのか、街の中なのかで、もしも南の島に行きたい場合、行き方、辿り着き方って全然違う。

そもそもどこに辿り着きたくなるかでさえ、物事を知る過程でだいぶ変わる。

 

ドラえもんを知っている子はドラえもんがいる世界に行きたいと思うけれど、コロ助しか知らなかったらコロ助のいる世界に行きたい、と一番に思う。

どっちの世界に行きたい、というのはそれぞれで良いと思うけれど、コロ助しかしらなくてコロ助と出会った人の中で、後からドラえもんの世界に行きたいと思う人は、いるかもしれないし、逆もしかり。

 

話しがそれた。元に戻そう。

 

だから、社会の学習というのは小学三年生でまず自分が住んでいる家の周りの事から始まって、自分が住む市内、県内(もしくは都、道、府内)、国、そして世界へと広がって行く。

広い意味でとらえれば、世界を知るという行為は実は自分を知る、という行為に繋がっている。

 

私達は、今、自分の住んでいる世界についてどれくらい知っているだろうか。

いや、ぶっちゃけよく知らないな、とも思うし、

遠くから友達が家に泊まりにきたりすると、この辺の事について自分も詳しくなったなあ、とも思う。

 

昔、CLAMPxxxHolicというマンガを読んでいた時、

『セカイはそれを知るものの前にはヒトツじゃないのよ』

という台詞があった。 

まさにこれ。

 

その辺にいる小学生や中学生よりは、多分長く生きてきて、色々な場所・地域に住んだ経験もある私は、見えている世界は少し違う。

ど田舎に行くとコンビニがとてもありがたい存在であることを知っているし、

雪はとても重くて時には家をつぶすこともある、楽しいだけの存在でない事も知っている。

けれども、ニュース解説でおなじみの池上彰さんが見ている世界と私が見えている世界も絶対違う。

あんなに世界が動く現場にいた人の見ている世界は、きっと世界は色々大変で一人一人が出来る事はこんな事もあんな事もある、という想いにあふれている、と思う。

 

 

『人生は何もしないには長すぎるが、 何かをするには短すぎる』

密度濃く、楽しく生きて行くためにはやっぱり勉強ができなければいけないんじゃないか。

と思うけれど、割り算でひっかかる、という小学校の卒業さえ不安を覚えた私が、学校を無事卒業してなんとか社会で生きてきた短い経験談から、

 

『勉強ができなきゃいけない訳ではない』

 

ということも分かりました。

もちろんできるに越した事はないけれど、世の中に出ると大体自分より勉強ができる奴というのはわんさかいる。

全国模擬で一位とりました、とかでないかぎり、あまり自分を勉強面で特別視しない方が良いんだろうな、とも思いました。

だって、競争相手は同学年だけでなくて、その下の学年とか上の学年とかにだっている訳で。

 

私が短い社会経験で一番実感したのは、

『勉強はできなくても良いけれど、続ける事が大事』

ということでした。

大学生までは勉強する人がそれなりにまだ日本人の半分くらいはいるけれど、社会人になってからもそれなりにハイペースで勉強を続ける人は、結構少数派。

割り算で引っかかっていた田舎の少女も、みんなが勉強をやめた後もなお続けた成果によって、世の中で言う勉強がよくできた人達と中の良い友達になり、さらなるいい学習体験を得る事が出来る、という好循環に入る事が出来ました。

一度で理解できなくてもいい。

今、賢い人達の中には、学ぼうとする姿勢がある人が好き、という人も結構います。(オバカを排除しようとする人も0ではありませんが)そう言う人は、なんだか分かっていないんだけど、理解しようとする気持ちはあるんだよ、という姿勢に対して、一生懸命答えようともしてくれます。

 

自分で言うのもなんですが、気がつけば今、自分はものすごく得をして生きる事が出来ているなあ、と感じます。

昔、ドラゴン桜で読んだ、『搾取されたくなければ勉強しろ』という言葉通り、別に大学もそれほどの所に言った訳でもないけれど、勉強を続けていたら、そんなに高年収でなくても海外旅行を楽しんだり、たまにいいレストランに行ったりできているなあと思います。

 

何か特別な才能が明らかにあるならば、それがきっと、人生における何かをすることの『何か』であるし、もしもまだ『何か』が分からなかったら、自己認識を深める時期なんだろうな、と思って、知る事をやめないことが大切なんだろうな、と思います。

 

私の『何か』は何だろう。新年の始まりに一度は考えるのですが、これが毎年変わったり、固まったり。まだまだ私も修行が足りないという事で、成人の日を前に自分の頭の中の整理整頓をしてみた日記でした。

いったんおしまい。