一体どうやって私は生きていこうか
という問いは、大人になる過程で誰もが通る道じゃないだろうか。もう通り抜けたよ、という人もいれば、何十年経っても抜けられない道でもある。
今の時代は高校は多分何の疑いもなくほぼ全ての人が進学して、早い人で大学か専門学校か就職かで悩み、次の余波は就活時期。
それから働き始めて2、3年が立った頃。ふと、思う時がくるのかもしれない。
どうやって生きていこうか、のどうやってには色んな意味が込められている。
もっと自分に出来ることはあるんじゃないだろうか。
もっと良い会社で働けるんじゃないだろうか。
もっと良いお給料もらえるんじゃないだろうか。
もっと楽しく毎日を過ごすことは出来ないだろうか。
プライベートを充実させたい。仕事を充実させたい。恋愛を充実させたい。なんならプライベートも仕事も境目がないような楽しい暮らしがしたい。
もはや仕事をしたくない。
現状に不満があったり、足りないものへの欲求が強くなった時、人は変わろうとする。逆にそう言うものが無くなってくると、人の心は落ち着いてくる。
数年前、好きなことを仕事にして、結婚もして、毎日楽しく過ごしているのだけれども自分の向かうべきところや目標が見つからなくて、しあわせな毎日なはずなのに、私はイライラして過ごしていた。
結婚式も終えたらいよいよだ。次は何をがんばればいいのか。仕事を頑張れば良いのだろうけど、どうも頑張り方がしっくりこない。
疑いの目を持たずに行こうと、ネットワークに誘われてみて行ってみたものの、しっくりこなかった。ただ物を買う、という行為を友達からするだけで、それが世界を平和にするようにも思えなかったし、それって誰の何を幸せにするの?と問うと、私と友達とそのネットワークに入っている人に限られる。
他にもいろんなセミナーに行ってみたし、多くの本を読んでみた。なかなかしっくりこない。
ミニマリストのブログも、シンプリストのブログも片っ端から読んだし、海外暮らしのブログも読んだ。
旅のブログも色んな人のを読んだ。
どの暮らしもしっくりこなかった。
けれども、多量の様々な人の暮らし、と向き合うことで、自分はこれは好き、これは嫌だ、というのが部分的に見えてきた。
そういった、この部分は好き、の積み重ねが溜まって、自分にイライラしなくなった頃、私は仕事を変えて、新しい暮らしを始めた。
今、私は自分が納得した暮らしと納得した生き方で毎日を過ごしている。
そして今日、本棚を整理した。
あの時悩んで読んだ多量の本を、とっておきたいものともう卒業するものに分けた。残った本たちは、私が生きていく上での方位磁石のような役割を果たしてくれる一級品ばかりだ。
卒業するものたちは、過去に悩んだ私の怨念を全て吸い取って役割を終えたかのように静かだ。また、誰かのエネルギーを吸い取るために、もしくはエネルギーを与えるために旅立って欲しい。
確かにあのときは、何かを変えたいと思って、この本が変えてくれる、という気がして購入したのだけれど、残った本は案外わずかだった。
けれども、これが本当の読みつぶす、ということなのかもしれない。