くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

ネガティブは本当に悪者なのか

 

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久しぶりに友人に会った。

という日記を書こうとすると、いつもネットワークやら新しい考え方(宗教と相手が言わなくても宗教の一種だと私は思っている。政党とかもある意味宗教だと思っている)を勧められた、みたいな記事になるけれど、別にそういう友達が多い訳ではない。

普通の友達に会った時は、特段日記に書こうと思うくらい肩肘張った頭の使い方をしていない、ただそれだけだと思う。

 

前にも久しぶりに友達に会った、で、日記を書いたな、と思って引っ張ってくる。

kuro-yan.hatenablog.com

 

そう。再び。久しぶりに友達に会った。以前とは別の友人で、こちらはまだ元気そうだ。しかしやけにテンションが高くなっている気がした。

 

何かを第六感で察知していたら、やっぱりきた。新しい考え方へのお誘いだ。

別にすべてがだめな訳ではない、と思う。

一度、地の底まで沈んで、どうしようもなくなったときに、最終手段として、接種して一旦生の淵にのし上がる、くらいの使い方はしても良いと思う。一種の薬みたいなもんだと思うけれど、一生使う薬ではないかな、とも思う。

 

とりあえず、元気な人に薬は進めないのと一緒で、元気な人にこういう勧誘しても仕方がないのにな、と思いつつ、話しはうんうんと聞いてきた。

 

曰く、常にポジティブにいることの重要性をとても強く説かれた。ネガティブをいかに追い出すか、自分がいかに追い出してきたのか、それを語る姿はどこかの魔王を討伐してきた勇者のようだった。

 

ネガティブが自分を支配しているとき、つまり魔王が自分の領域を支配している時は、それを食い止める必要がある。あまりにもネガティブになりすぎると、自分そのものを否定することになり、それは命の否定になってしまうからだ。

これは自分もその周りも幸福にすることはほぼない。ほぼというか、絶対あってほしくない。

支配されている時は抵抗手段として、超絶ポジティブになることはとても大事だ。ポジティブになりまくって、一旦追い出して、そして自分を平常運転できるように環境を整えることが大事だ。

そのとき、さきほどの強い薬の役割を果たす、新しい考え方、宗教は役に立ったりもする。

イエスマン、という映画があるけれど、まさにあんな感じ。最初は必要。

 

けれども、ネガティブはなくした方がいい、というのはまた違う話しだ。きちんと悲しめる、嫌だなあという気持ちを持つことができる、というのは自分の心を気持ちよくさせるために、大切なことだからだ。というのは精神科医の卵の友人の話しだ。

 

痛み、ということがとても分かりやすいかもしれない。

私達は怪我をすると、痛いと思う。膝を擦りむいたら、痛いから消毒をして絆創膏をはったりする。

けれども、痛みが分からなければ怪我に気がつかず、そのまま放置してしまう。放置された膝はどうなるか。運が悪ければ、ばい菌がはいって、足を悪くしてしまうかもしれない。

世の中には痛みが分からなくなる病もあると聞いた。痛みがないと、大けがをして出欠をしていても気がつかず、失血死をしてしまうこともあるそうだ。

 

ネガティブは心の中における痛い、という気持ちを代弁してくれる感情だ。これを捨ててしまったら、本当に大変な怪我をしたときに、自分で気がつくことができなくなる。

 

魔王が自分の心の中に侵入、支配していたら追い出した方が良いけれど、自分の領域を出て逃げ出した魔王を追いかけて殺そう、となると話しはまたちょっと変わってくる。

 

イエスマンでも、最初は自分を変えるために、極端に判断することは大事だけれど、いつまでもそれではいけない、と言っていた。

私達はポジティブにあるために生きている訳ではない。幸せになるためであって、ポジティブは手段の一つだ。

 

インサイドヘッドでも、カナシミはいらない感情のように扱われていたのが、最後にはとても大事な感情として歓迎される。

 

友達はネガティブを捨てきって、私にそれを勧めてきていたけれど、やっぱり私にはネガティブは捨てられない。

 

そのとき、話しを聞くばかりで勧め忘れてしまったけれど、私もこの二つの映画を勧めれば良かった。