くろやんの日記

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ゴミ屋敷ドキュメンタリーは風刺だったのか

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何年前から何だろうか。ゴミ屋敷という言葉をテレビで聞くようになった。本当はもっと前からそんなことは言われていて、血液型のように何年かのサイクルにのっかってメディアで取り上げられただけだったかもしれないけれど。

ゴミ屋敷についてニュースで取り上げられるようになった次には、バラエティでゴミ屋敷を片付けるドキュメンタリー系の企画が出てくるようになった。

大体ゴミ屋敷の持ち主は高齢で、自分では片付けられないことが多かったせいもあるし、困っている老人を若い芸人が片付けて、おばあちゃんがんばってねーと、おばあちゃんのありがとう!っていう言葉が、何度涙を誘っただろうか。

番組が終わるとけろっとするのだけれども、見ている間は私も涙が出てきたりしたんだから、企画した人はやり手であることに違いない。

 

そしてゴミ屋敷の後くらいに出てきたように思うのは、汚部屋だ。

大体汚部屋の持ち主はギャルで、そして部屋を片付ける人も祖母を助けて涙を誘う芸人、というよりももう少しビジュアルがモデル風な人が登場するようになった。

見違えるほどきれいになった部屋をギャルとつくり、お茶の間のおばちゃんやちょっと片付けが苦手な人に対して、イケメン芸能人の株はきっと上がっていたと思う。

 

汚部屋とゴミ屋敷では、ちょっと性質も違うけれど、今思えば、あれほど消費社会を風刺した番組もなかったんじゃないかと思う。

 

特にゴミ屋敷の方は、消費社会の結果です、と言わんばかりな気がする。

 

ゴミ屋敷はテレビにあれだけ出ていたということは、現実世界にはもっともっと隠れてあるということだ。もしも実家に物に溢れた開かずの間がある、という人は、一度見ておいた方が絶対良い。

 

消費される、ということは使い切って、ゴミとして処分されていくところまでで消費、と言えると私は思っている。

消費、を辞書なんかで調べると、使ってなくすこと、とあるので、なくすまでが消費、という解釈はあながち間違ってはいないんだと思う。

 

ゴミ屋敷は、使ったけれどもなくなるところまではまだいっていない。だから、実は消費はされていない。

大量消費社会、と銘打って経済の発展はされてきたけれど、実は消費はされていなくて、各家庭に仕舞われていただけではないだろうか。

まさに、くさいものにふた。

 

汚部屋はまだ寿命がある者が住んでいるし、大体賃貸だから引っ越すときに否応なく処分することになる。

 

けれども、ゴミ屋敷はどうだろう。

空家問題と一緒に、ゴミ屋敷問題も大きな問題になっていきそうな気がしてならない。

 

と、実家に帰って少しずつ片付けをしながら思う。