現在絶賛旅の荷物の準備中だ。
夫の遅くなった夏休みに合わせて、自分の休みも調整し、二人の遅い夏休みがもうすぐ始まる。
行き先は東北地方。奥の細道、みちのおく、みちのく。昔から辺境の地として認知されているし、現在でも仙台以外は辺境の地として扱われるのではないだろうか。もちろん何を、どんな基準で見るのかにもよるのだけれども。
さて、旅の荷物の準備をしていると、他の旅で一緒だった友人たちを思い出す。やたら荷物が多い友人、少ない友人、自転車旅でパンク修理道具は持っていないのにガスコンロ台を持っていた人、富士登山でアンパンマンのぬいぐるみを5体ほどもって歩いていた人。
たくさん旅に出て、たくさんの人と触れ合うにつれ思った。荷物の内容は性格によるものだろう。けれども、荷物量は確実に人間としての経験値かも。と。
最初から想像力が豊かな人間であっても、そうでなくても、器用な人間であっても、そうでなくても、普段どんなに勉強ができても、できなくても、荷物量はその人の人間力を表していると思う。
なぜなら、旅に持っていく荷物の量は自分のことをどれだけ理解しようとしたか、理解しているかの結果だからだ。
自分のことをよく理解しようとしない人は、荷物が多くなる傾向がある。自分が持って歩ける以上の荷物を背負おうとしたり、何が本当に必要で、何が入らないのかの判断がつけられずに不必要な物が増えたりする。そして旅が終わったときに、同じ旅をした人間よりも疲れていたりする。
逆に自分のことをよく理解していたり、理解に努めている人の荷物は、決して少ない訳ではないが、その人自身に対して適切な量になっている。自分がどれくらいまで背負ったら良いか考え、背負って楽しく旅をするための処置をできる限り行う。場合によってコインロッカーの使用を考えて、その場所だって自分で調べる。
これはある意味、最近のミニマリストと同じ考え方なのかもしれない。みんな自分のことを分かっているようで一番分からないのだ。だから探求する。自分が一番心地いいのは何なのか、自分が一番嬉しいのは何なのか、自分が一番楽しいのは何なのか。考えると、荷物の量も決まる。
きっと旅だけじゃなく、部屋の中の荷物もそうなのだろう。