高校のときに学校に指定されていて購入した、世界史の資料集が未だに捨てられない。情報だってもう古いし、気に入っているならば買い替えた方が絶対良いのに、捨てられない。
ミニマリストがそばにいたら、速攻捨てた方がいいよって言われちゃいそうなくらい、多分役に立ってなんかいないのに、捨てられないのだ。
じゃあ全然読まない、見ないのかというとそうでもない。最近は海外旅行から帰ってくると、真剣に読み始める。
そして現代との史実のズレがないか、ネットでも検索して確認をする。という行動を繰り返している。
海外に旅行に行くと、自分が行ったその地域についていかに無知だったか知らされる。言葉は大して知らないし、向こうの歴史にも詳しくない。なんなら日本に来たことがない現地の人の方が日本に詳しい場合もある。
日本語の単語を私が現地の単語を知っている数とは比べ物にならないくらい言える。加えてなぜか、徳川家康を知っていたり、豊臣秀吉を知っていたり、国にも寄るけれど東郷平八郎さんも有名人だ。
しかし私は彼の国の有名人を、誰1人として名前を間違えずに言うことができなかったのだ。
彼はあんなにも日本のことを知ってくれているのに、私は彼の国のことを何も知らない。実際に現地まで私は足を運んだのに。
と自分の知識量に悲しくなって、そして開くのが世界史の資料集だ。
確かあれのあそこらへんのページに載っていたはず、と振り返り始める。多分別の資料集じゃだめな理由はここにある。
私の世界とのつながりは、良くも悪くもこの資料集から始まっているのだ。世界の歴史を初めて知った、私にとって聖書のような存在で、どこにどんなことが書いてあったのか、センター試験前に死ぬほど読んだから、大体うっすらと潜在記憶に残っているようなのだ。
たとえその情報が間違っていても、スタートをこの資料集から始めると、とてもスムーズに調べものも進む。
高校のとき、世界史の先生はおっしゃっていた。
君たちは大人になったらきっと飛行機も今以上に安くなって、どこへでも行けるようになるから、本ではなく事実を見に実際に行動しなさい、と。そのきっかけにこの資料集はなるだろう、と。
いつかこの資料集が捨てられる日は来るのだろうか。