くろやんの日記

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今、教養の意味をもう一度考えよう

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ー教養

国語辞典、Wikipediaなどで調べると、個人の人格や学習に結びついた知識や行いのことを指し、関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もあるとのこと。

 

勉強ばかりでなく教養も身につけなさい。とたまに言う人もいるくらいだから、学校教育と教養というのはイコールではないのだろう。

また、教養とは知識そのものを指すのではなく、知識をもってしてより己のことを知ること、を指す場合もあるようだ。

自分とは何か、とまで哲学的にならずとも自分が何が好きで何が嫌いで、どんなことに快感を覚えて、どんなことに弱いのか、強いのか、そういったことを追求し続けることは大切だ。自分が何者か分からなければ生きる意味を見いだせていないということだ。

生きる意味なんて難しいこと考えたことがないという人と、生きる意味を考え続けている人では芯の強さが違う。だからか、やり遂げる力にも差がある。もちろん初期能力値というものは存在すると思うから、個人差はあるけれど。

 

さて、生きていくにあたって教養は必要なのか。最近面白い発見をした。それは教養がない人、つまり自分のことを知ろうとあまりしない人は、大抵教養は必要ないという。逆に教養がある人は、大抵教養は必要あるというのだ。

 

教養は単純な知識ではない。自分を追求する姿勢そのものが教養のようなものだ。だからこそ、そんな姿勢はいらないと思う人は教養はいらないというのだろう。

 

確かになくても生きていける。別に自分のことを知ろうとせずとも、ビジネスはできるし、コンサルだってできると思う。M&Aもできると思う。お金も稼げる。大して稼げなくても、日本にいる限りプライドさえ捨てればそこそこの生活はできる。病気は別として。

 

教養はなくても生きてはいける。つまり人生において必要条件にはならないのだろう。

 

では、教養があった方がいい理由はなんだろうか。大した理由がなければ、教養は欲しい人が身につければいいし、そうでない人はなくてもいい。

テレビショッピングでどんなに素敵な切れ味の包丁が売られていても、ほぼ全ての家庭で使うような物であっても全員が買う必要がないのと同じように、教養だって全員に必要でないなら身につけない生き方だってありなんだ。

 

教養を身につけようとする人は、己の存在についてよく考える。己の存在を知るということは相対して他の人のこともよく考えられる力が身に付く。自分のことを知る行動と同じくらい、他人を知るには想像力が必要だ。

 

これは人間世界の恋愛において非常に強い武器ではないだろうか。

 

遥か昔であれば、力によって解決していたのかもしれないし、自然界は大抵力で解決されているけれど、人間の恋愛だけは力だけでは決まらない。自分のタイプとあうかどうか、タイプという名の分類分けを脳内でやってのける。

 

タイプは人それぞれだ。相手に経済力を求める人もいれば、そういう人にとっては少数派のお金より愛情に飢える人もいる。つまり承認欲求が強い人だ。見た目も大事なようだけど、見た目の好みだって千差万別だ。

 

ここで自分のことをよく知らない人は、自分が本当に求めている物が見えないから、本当に欲しい物を追うことができないかもしれないリスクが生まれる。間違った者を追ってしまうかもしれない。

また、自分のことを知らない分だけ他人のことも知れないから、運が悪いと騙される。

 

やばい。恋愛に置ける教養の占める位置結構大きい気がしてきた。

 

教養のある人はエロい。という話を以前どこかで聞いたけれども、そういうことだったのか。エロい、というのは言葉のあやで、教養のある人は正しく自分の追う物に対して魅力を発揮できるということなのかもしれない。

 

教養、あなどれない。