くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

足るを知るは己を知る

f:id:kuro-yan:20170905100510j:plain

ー足るを知る者は富む

春秋戦国時代の中国の哲学者、老子の言葉だ。分不相応な真似をしようとすると、年配の方を中心に、この言葉を若者にかけることが多いようだ。特に田舎の方へ行くと、都会とは違うんだから、とか、お前は地方公務員になるくらいが最上だよ、と諭すときなんかに、欲張り過ぎてはいけない、という意味合いで使われるようだ。

実際、今ドキ世代はさとり世代とも呼ばれるように、ある意味「足るを知る」を実践しているかのような生き方をしている人は多いのかもしれない。

 

しかし思うのだ。どこまで自分に入るか試したことがない人間が、「足るを知る」ことなど本当にできるのかと。都会にいようが田舎にいようが、やったことがないけれども、自分はコレで十分、と考えている人が多いようにも思う。

でもそれは、まだ余裕で入るグラスに半分くらいしか入っていないから余裕なわけで、自分で自分の「足る」を「知っているわけではない」のではないか。

 

「足るを知る」が、自分にとっての十分な幸せラインを知るということであるならば、一部の才能ある者でない限り、凡人は溢れる分まで入れてみないと、どこが十分か分からないのではないかと思う。

 

そう考えると、「足るを知る」まで自分のグラスに注ぎ続ける気概がさとり世代から感じられるかというとそういう気もしないわけで、さとり世代を「足るを知る」を実践しているなんて言うもんなら老子に申し訳ないような気もする。

 

逆に「足るを知る」を心から実践して欲しい人もたまに出会う。大抵その人は、社会のために何かをしたいと思っている人が多いのだけれども、多分実際の自分がやりたいことや欲求はもっと小さい幸せを求めているんだな、と感じる人だ。

常識を変えたいと良いながら、けれども結婚するなら昔風の自分を立ててくれる人がいい、とか。美味しいものは六本木に行かなければないと思っているような人とか。

 

本当に常識を変えたい人は、女性に対してもエネルギッシュなものを求めるし、昔の人でも偉人たちの妻はたいていすごい人が多い。時代が違えば、偉人の妻たちは多分会社の一つや二つ起こす人も多いと思う。

美味しい物に本気で執着している人は、素材が採れる現地で食べる。料理に使う水も空気も違うのだから。今は現地にも腕の立つ板前がそれなりにいる。

 

そして実は本当に欲しい物は、常識を変える力やおいしい食事ではなくて、自分自身への承認とか周りからの目線とかだったのでは、という風に気がつけたら、やっとそこから自分の「足る」はどういうラインなのか考え始めることができる。

(承認欲求や見栄は悪いとは言わない。けれども、そうして得た承認や見栄は結構脆い。それでもいいならいいけれど、そこまで自覚して続けている人は多分少派だ)

 

さとり世代はグラスに隙き間を大きく取りすぎると、そこは違う物が入ってきやすい隙き間ができる。自分の軸とか好きなこととかがない無趣味な人ってこんな感じの人が多いな、と感じる。なんというか、ふらふらしているのだ。

逆にグラスに入れ始めて、グラスから溢れているのにグラスが成長すると思って継ぎ足し続けているのが六本木界隈のギラギラ族のイメージだ。もちろんグラスも成長する。けれども、グラスの成長に必要なことは、「注ぐこと」ではないことは明確だ。グラスをいっぱいにすることとグラスを大きくすることは、全く工程が違うのだから。

 

 

注ぐことばかりにとらわれず、しかし注ぐこともグラスを強化し大きくしていく視点も忘れずに、自分の足るを知る旅は続けていきたい、と思う。