くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

電車で突然、おじさんに話しかけられて、本を渡された時の話

 

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本棚の断捨離中、明らかに毛色が違う本が一冊出てきた。

最初は、これなんだっけ、と思ったけれどすぐに思い出した。

そうだ、電車で突然おじさんに話しかけられて、渡された本だった。

 

あれは、まだ私がピチピチかどうかは分からないけれど、女子大学生をやっていたときの話だ。

 

 

「いや、あんたは必ず2台目にロードバイクを買うよ」

 

そう言っておじさんは私に一冊の文庫本を渡した。

1台買うだけでも高かったし、整備をすれば10年は乗れると言われているのに2台目なんてどうして思いつくんだろう。

 

私は「え」と呟いたつもりだったけれど、声にはならなかった。しかし、表情を見て戸惑っていることは察したらしい。

「もうそれ読み終わったからいいんだ、あげるよ」

そこではないんだけど、と内心つっこみつつ表紙を見る。女の子が青空の下ロードバイクに乗っているさわやかな絵が書いてある。自転車小説だろうか。

 

「久しぶりに輪行をする女の子をみたよ、がんばってね」

そして名も知らぬおじさんは電車を降りていった。

 

 

輪行とは公共交通機関を使って、自転車を運ぶことだ。この日の私は自転車を分解して専用の袋に入れて、電車に乗っていた。最後尾の広めのスペースに自転車を置いて、周囲が空いていれば自転車のすぐ横の席に座る。例えガラガラの車内でも、他の乗客の迷惑にならないように目や気を周りに配るのは自転車乗りのお約束だ。

 

ママチャリはそう簡単に分解できないけれど、クロスバイクロードバイク、マウンテンバイク等のスポーツ自転車の分解は簡単にできる。自転車旅は全て自転車で走る場合もあるけれど、こうして電車を使うと自分が走りたい場所だけを走ることができる。

 

やっぱり走るなら、排気ガスだらけの道路よりも、道幅が広くて空気がきれいな道を走る方が気持ちいい。そういうときに、ワープするような感覚で輪行をするのだ。

 

自転車を運んでいると、やはり目立つ。今日もそうだったように、自転車が好きな人の中には話しかけてくれる人もいる。

 

これまで行ったところや、おじさんがどんな自転車に乗っているか、そんな自転車乗り同士の話で盛り上がっていた中でのことだった。

 

「お嬢さんはレースとかは出ないの?」

「全然、部内の男子の応援とかなら行きますけど、自分が出る方にはあんまり興味がないんです」

 

元々が体育会系とはいえ、私にまったくその気はなかった。高校まで部活を一生懸命やり過ぎた反動だろうか。

 

その後、おじさんにレースの面白さを語られたけれども、最後まで私にはまったく響かなかった。応援するのは楽しいけれど、やろうとまでは思えない。なにより、もうすでに1台持っているのだ。レースに出るならクロスバイクではなくロードバイクを買わなければいけない。

 

多くの人が自転車に20万も出せるか、と思うのと同じように、私は20万以上する自転車をわざわざ2台なんて持つか、と思っていた。

 

しかし、私に何を感じたのか、おじさんは2台目に私はロードバイクを買うと予言し、先ほどまで読んでいたのであろう自転車小説を手渡して去っていった。

 

私は、ギアをマウンテンバイク仕様に改造したクロスバイクに乗っていた。荷台もつけて旅仕様だ。素人目にはスポーツ自転車なんて全部同じに見えるかもしれないけれど、装備はロードバイクとは真逆だ。

 

おじさんと別れてから、降りる駅までの時間がまだたっぷりあったので、私は渡された小説を読み始めた。

 

読み終えたらロードバイクに乗りたくなるのかと思ったら、特別な感情はすずめの涙ほども湧いてこなかった。小説は面白かった。自転車初心者の女子高生が選手になるべく奮闘する話だったので、だれでもきっと楽しめる、ライトな読み物だった。しかし、2台目は欲しくならないし、レースに出てみたい気持ちも湧かなかった。

 

輪行の旅を終えて、自転車部の仲間におじさんの話をした。電車に乗っていたら自転車の話をするにとどまらず、本をもらったというネタはウケたけれど、だれもその本を読んでみたいという人はいなかった。

 

1年経って、片道40kmの美味しいカレー屋さんに、なんの躊躇もなく向かうことはあっても、レースに出たい気持ちは湧かなかった。帰りに道の駅で季節の野菜や果物を買うのも楽しかった。旅仕様の荷台がついている自転車でないと、これはできない。

 

2年経ち、九州に行って、いよいよ自転車に年季が入ってきても2台目が欲しいとは思わなかった。阿蘇山を走破した感想は、次は車で来たいな、だった。

 

3年経った頃なんか、自転車に乗る機会が減った。働き始めると学生の頃のようなペースでは乗れない。

もうこのままこの1台を大切に乗り潰そう。次に買うなら、やっぱり旅にも向いているシクロクロスがいいな、と思っていた。学生ではちょっと手が出せないお値段であきらめた種類の自転車だ。

 

4年が経った頃だった。もう本をもらったこととか、ロードバイクのことなんて忘れかけていた頃だ。決して体育会系ではない夫が、会社の人に誘われたという理由でトライアスロンへの参加を決めてきた。ロードバイクを購入し、トレーニングを始めた。自転車整備は私の担当になり、トレーニングにも付き合った。何しろ元が体育会系ではないのだ。運動に関する知識がないので、体の使い方から普段の食事まで、徹底的にマネジメントした。

 

私の徹底的なマネジメントは報われて、毎日の仕事に追われながらも夫はトライアスロンを完走することができた。ピカピカの完走メダルは玄関に飾った。

するとどうだろう。ひっそりと自分ももっと早く走りたい気持ちが湧いてきた。

 

練習に出ると、もう夫の方が圧倒的に早い。ロードバイクは時速30km〜40kmで走ることができる。その気になれば時速は60kmにもなる。私の改造クロスバイクではギアを一番重くしても平地の最高時速は30kmそこそこだ。車体の重さも違うし、ギアも違うし、そして値段も全然違う。

 

山道ばかり、峠ばかりを走っていた頃は、峠の頂上に到達することが快感で達成感があった。私の改造クロスバイクロードバイクより楽に山を登ることができる。マウンテン仕様のギアのおかげだ。けれど、就職でやってきた東京に手軽な峠はなかった。関東平野はその名の通り、ひたすら平野だ。峠到達の快感が得られない。そうなると快感はスピードに求める。しかし、スピードを出すにはやはり軽さとギアの変更が必要だ。平野ではロードバイク方が、という気持ちと、これまで乗ってきた自転車を大切にしたい気持ちが葛藤する。

 

しかし、夫が颯爽と1人でトレーニングに行く回数に比例して、むくむくとロードバイクが欲しい気持ちが育った。

 

そしてついに、購入に踏み切った。ボーナスを貯めて作った軍資金を持って、自転車屋さんに向かい、迷わずロードバイクのコーナーを見て、2台目を決めた。

 

 

「良い自転車を買うと、大抵2台目も欲しくなる」

これは自転車屋さんの台詞だ。

おじさんは私の自転車をみて、こいつは2台目を買う、と思ったのだろうか。確かに、1台目もそれなりのものに乗っていた。型落ちで安くはなっていたけれど、学生が乗るにはかなり良い自転車だった。しかも私は改造までしていた。

 

おじさんの予言が当たったようで、まんまと罠にはまった気分だった。

 

トレーニングにまた2人で行くようになって、私もトライアスロンを始めた。スイムでトラブルがあり、バイクで挽回するも制限時間に30秒ほど足りず、そこで失格となってしまったが、とにかく私はレースにも出てしまった。

 

ふと気になって、あの時もらった小説を読み返した。さすがに主人公の女子高生のように、ケイリン選手になりたいとまでは思わないな、と思いながら冒頭を読み返して、思わず笑った。

 

書き出しは、5年前……春。

 

もしもまたあのおじさんに会えたら、5年後の結末は違えど、レースに出るようになったことを報告したい。