くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

原作が映画化されたときに受けるショックについて

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原作、というと大抵小説だ。たまにマンガ。

作品は人気に火がつくと、ドラマ化とか映画化とかゲーム化される。

映画化は私の中では二種類あって、日本で映画化されるのとハリウッド映画化っていうのがあると思っている。

 

原作があるものを映画化すると、大抵何かショックを受ける。

原作を知らなければ特段なにも思わなかったりするけれど、大抵見た後に原作もチェックしたりして、原作の方がいいな、と大抵思う。

 

私は最近この問題を、読書感想文問題、と心の中で思うことにした。

同じ本を読んでも、人によって読書感想文に書く内容は全然違う。人間関係に注目する人もいれば、その物語の世界観に注目する人、はたまた一つの台詞に付いて、自分にいかに影響を与えたのか注目する人、本当に様々だ。

 

映画も多分同じだ。

監督と私とでは、着眼点が違ったのだ。

 

そう思っても消えない、映画化ショックの正体は一体なんなんだろうか。

 

それは映画化されたことによって、そちらの解釈が正解かのように世の中に普及していくことに対して何か歯がゆいものを感じるのかもしれない。

もちろん自分の見方が正解と思っている訳ではない。でも映画しか見ない人は、その映画での着眼点でしか物語をみようとしなくなってしまう。咀嚼のされ方が少し変化している自分の大好きな作品について、誰かに違う咀嚼のまま、それだけの視点でしか作品が見られなくなってしまうことへの寂しさもあるのかもしれない。

ああ、違うんだよ、作者はそこんところもっと深く文章化してたよ。

ああ、違うんだよ、そこでこういう登場人物のバックグラウンドがあるんだよ。

なんて、補強したくなる。

 

本当は正解なんてない世界なのに、無理矢理正解はこれですって決められて、これまでの自分の咀嚼方法について採点されてしまうような感覚に陥る。

 

読書感想文に100点満点採点なんてないのに、映画化されると途端に100点満点採点に変わったような気がして、そんなん聞いてないわ!みたいな。

 

でも自分の頭の中にしかなかった映像が具現化される嬉しさもあったりして、本当にいいな、と思えるときは映画と原作と両方をセットにして見たくなる。

ああ、小説だけでなく、この2つがそろって本当に作品としてなりたってるな、みたいな。

 

そんな作品との出会いはまだまだ少ない気がするけれど、映画にショックを受けてばかりでも映画界隈に申し訳ないから、映画の勉強を少ししてみたいと思う。

映画だって、私の知らない技法でそれらは演出ができていて、小説の伏線に気がつかない子どものように、映画の伏線に気がついていない私がいることもまた事実。

 

原作からのショック緩和策、

映画の勉強をしよう。