特別なことはないはずの1日だった。
仕事から帰ってきて、安売りしていた豚肉が入った袋をキッチンに置いたとき、私は気がついた。
いつもと違う。
何かが違う。
家に誰かいる?
辺りを見渡して、すぐに気がついた。
いつも何も置かないダイニングテーブルの上に、クリアファイルが置いてあった。
私がいつも座る席に、丁寧に、ただそれだけが置いてあった。
ただのファイルだったら、きっと私は気にしなかった。
でも、何かただならぬメッセージを感じた。
そもそもテーブルの上に物を置きたがらない夫が、ただ1つ、置いている。
しかも私に向けて置いている。
ファイルが私を見つめている。
よくみると、
「あなたが決めることが、未来になる」
というゴシック体が、主張していた。
ごちゃごちゃと荷物が置いてあれば、それはただのファイルだ。
でも、きれいに片付いたダイニングテーブルの上に、私のいつもの席に、見えやすいように、ただ一つだけ置かれたファイルには、何かメッセージ性がある気がしてならなかった。
中身は?
ファイルに何か挟まれていないか確認するが、空だった。
今日の夫の帰宅は遅い。
その前に私は寝る予定だ。
それまでに、このメッセージの意図を解きたい衝動にかられた。
夫は、無意味なことはしない。
色がピンク色だから、私が使った方がいいと思ったのだろうか。
それなら、もっと雑多にテーブルの上におく。
わざわざかしこまらせて置いたりしない。
何か、ファイルに入れて欲しいものがあったのだろうか。
住民票、婚姻届、戸籍謄本。
それは先週、用意してすべて渡した。
また、必要になるなら、LINEにメッセージが入るはずだ。
履歴にそんな頼まれ事はない。
ふと、ゴシック体の文字を確認する。
「あなたが決めることが、未来になる」
そういえば最近、将来の夢を語り合った。
どんな場所でどんな生活を送りたいか。
どんな仕事をしたいか。その夢を叶えるために、現状のままでいいのか。
今、やるべきことは何なのか。
話し合うときの約束は、それは無理って絶対に言わないこと。
たとえ相手が、億万長者になりたい、とか。
宇宙人と友達になりたい、とか。
赤レンジャーになりたい、とか言っても。
絶対に言わない。
無理は基本的にはない。
20年や30年で、世界はがらりと変わる。
ガラケーは消えてスマホになったし、ビデオはDVDに、音楽はもう電子的なやり取りが主流だ。
VRでカメハメ波も出せるようになった。
未来を私達は予想しきれないのだから、無理と断言するのは傲慢なのだ。
その話をしたとき、私は将来のキャリアについて悩んでいた。
現状維持か、それとも挑戦するか。
挑戦するなら、いつ、挑戦するのか。
適切な時期はいつか。
そもそもそれは、自分たちの幸せにつながるのか。
紙に書出しながら、頭を悩ませた。
でも、あれほど悩んだ先週末を忘れて、私はいつもの平日を過ごしていた。
悩まない、それも自分の頭の中をクリアにする方法だ。
そんな、現実から目を背けてしまったかのような行動をとる私への、メッセージなのだろうか。
「あなたが決めることが、未来になる」
決断によって未来は変わる。
目を背けず、決断せよ。そう、私に伝えたいのだろうか。
粛々と自分の課題を振り返りながら、私は夫より先に布団に潜り込んだ。
朝、目覚めると夫はまだ寝ていた。
朝ご飯を食べようとテーブルを見ると、ファイルはまだ置いてあった。
しばらくあのまま置いておくつもりなのだろうか。
私への戒めなのだろうか。
夫は自分に厳しい。そして自分という存在に等しい妻の私にも厳しい。
昭和終わりの生まれのくせに、たまに昭和初期生まれの日本男児のような発言をする。
真剣に考えて欲しいのだろうか。
キャリアはある意味、生きる道だ。
決断をきちんとせよ、ということなのだろうか。
まだ休息時間を堪能している夫に、いってきます、と声をかけて私は仕事に向かった。電車に揺られながら、自分の未来に関する決断について、考えていることを文章にして、メッセージを送った。
これでファイルは役目を果たすだろう。
特別なことはない1日だった。
仕事から帰ってきて、白菜が入った袋をキッチンに置いたとき、私は気がついた。
まだ、ファイルがある。
ファイルはまだ私を見つめ続けている。
慌ててLINEをチェックする。メッセージは特にない。
朝の私の考えについて、グッドポーズのスタンプが押されただけだ。
頼まれ事もない。
私は何かを見落としている気がする。
なぜ、このファイルだけがこんなにも丁寧に鎮座しているのか。
なぜ、このファイルが昨日から私の頭を支配しているのか。
「あなたが決めることが、未来になる」
この言葉以外に、目立つものは特にない。
ファイルの色はピンク色。
でも私の好きな色は黄色。
早く夫に、聞きたい。
なぜ、こんなにもこのファイルは丁寧に鎮座されたままなのか。
そして夫が帰ってきた。
夫から真意を聞き出すとき。
い、ざ!
聞いたとき、私は机の上の彼の存在にやっと気がついた。
「あなたが決めることが、未来になる」
ゴシック体よりも大きくファイルに写っていた。
私は見つめられていた。
夫が言いたかったことは、
妻夫木くん、かっこいいよね。