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けいぞくはちからなり

8月に思い出す友達が特別に思えてしまう理由

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友達の名前が思い出せなくて、困っている。

一緒に遊んだんだけど、名前なんていうんだったかな、って子をふと思い出すのは、なぜか8月だ。

 

大人になってから、夏休みの特別な空気が懐かしくてしょうがない。

大学生になった頃から薄くなって、大人になった今は、あの頃とはまた違った、少し爽やかさに苦みを加えたような空気になった。

切に戻りたいとか、やり直したい、という気持ちはないけれど、やっぱり小学生、中学生、高校生の頃のそれぞれの夏休みはなんだか特別だったように思う。

 

 

時間に限りがあったからかもしれない。

3年間という期間が決まっていて、留年が当たり前ではない世界では、1年1年の意味が深く、特別なものに感じていた。

大人になった今は、全ての環境がある意味コントロールできることに気がついた。

自分から手を上げない限り、文化祭実行委員にも体育祭の実行委員にも、ならない。果ては参加者になることさえない。

自分とよく相談して、自分の好きな範囲で自分の時間を使うことが、ある意味上手になるのかもしれない。

限りがあると、その中で自分のできる精一杯の力を出そうと思う。

明日一日眠ることになってしまっても、今日の一日がとても大切なものであれば、力を入れる価値があるのだ。

 

でも、それだけではないとも感じる。

それは五感全てが大人に成長してしまった今では、もう分からないくらい、感覚的な何かが決定的に違うのだ。

 

そういえば、昔、担任の先生に、空をよく見ておけと言われたことがある。

先生曰く、大人と子どもの目は違うということだった。

成長するにつれて、目に細かい傷がついてくるから、大人より子どもの方が世界を色鮮やかに見ることができるらしい。

だから、今見ることができる、素晴らしい景色をたくさん見ておけ。

そういわれた。

大人になると、なんとなく分かる。子どもの頃に見た景色はなんだかキラキラしていた。多分目の傷のせいだけじゃない。

でもまた、違う見え方ができるようになったので、大人は大人で楽しいんだけれどもね。

 

子どもの頃は、ずいぶんと季節や自然と自分が近しいものだったようだ。

時間という概念が体からすっぽりぬけている。

自然には時間、という言葉はあまりにも陳腐なような気がしてならない。

どっちかっていうと、巡る、という言葉を使いたい。

そもそも時間という考え方だって、人が後から作ったものだもの。

人の間でだって、時間の共通理解は全員でできている訳じゃない。

でなきゃ、西と東であんなに歩くスピードに差が出ないと思う。

 

時間を消費するのではなく、季節という大枠の、風とか雲とか、植物の巡りに身を委ねるという気分は、恋しいようで、ちょっと勇気もいる。

 

懐かしいとは思うけど、やっぱり戻りたい、とまでは思えない。

あの夏にできた友達の名前は、思い出すときに思い出せる。

それも巡り合わせ。