くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

中学生の時、恋バナが大好きだった女の子は恋愛には向いていなかった

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私の事です。

私は中学生の時、というか今でも恋バナが大好きです。

 

小説やマンガを読むよりも、恋バナだけはリアルな話しを聞いている方が楽しくて、その人のどんなところが好きなのか、どうして好きになったのか、その経緯を明るく、照れながら語る人間の姿が好きなのかもしれません。

人それぞれ、どんな小説やドラマにも負けないストーリーがあって、時にそれはものすごい感動を私に与えてくれる事もあります。

 

この世に、そんな話しがあったのか、と。

 

そんな恋バナ好きの私ですが、中学生の頃、人の恋バナを聞いて回って、あれやこれやの情報を持っている、いわゆる情報屋ポジションの学生ではありませんでしたし、それでそれで、と会話の中心でそれを盛り上げるタイプの学生でもありませんでした。

どちらかというと、真面目で、そんな私情に満ちた話しをさほど仲良くもない友達に過ぎない私が聞いて良いものか、と考えていた節もありました。

 

高校に上がると、恋バナはよりリアルに、より鮮明に自分の耳元に届くようになりました。少女マンガの世界の女の子達と、ついに同年齢になったのです。

とはいえ、進学したのは『君の名は』で三葉が通っていた高校顔負けの田舎の進学高だったので、実際多く描かれているような少女マンガの展開はやっぱり物語の中だけのものだったのですが。

高校に上がったら私も。と色々なことを期待はしたものの、一度も男の子とデートさえをすることなく、女子高生というポジションを失いました。

今思えば大きな機会損失だったかもしれません。特に大きな後悔はないですし、多分戻っても同じような高校ライフを送る気がするので、過去に戻りたいという欲求はありませんが、生まれ変わったときにまた女子高生をやれたら、もっと遊んでやろうと思います。

 

時代は女子高生だけでなく、『女子大生』にもプレミアが付き始めた頃でした。校則という存在も消え失せ、さらに一人暮らしという状況で手に入れた女子大生ブランド。

それに高校までとは桁違いの学生の数がいるキャンパス。先輩も後輩も色んな人がいるサークル、ゼミ、そしてアルバイト。

これはいよいよ、ハチクロのだめカンタービレで妄想した世界が待っている。と心躍らせて大学に入りました。

 

 

しかし、恋バナ好きの私には非常に残念な事に『動物のお医者さん』的なキャンパスライフを送る事になりました。

冒険もある。かっこいい先輩もいる。授業も楽しい。サークルも楽しい。

ついでに友達から聞く恋バナもちょっと大人で、レベルがあがった。

 

けれども大学もやはり田舎の大学を選んでしまった私。自分自身の恋愛イベントは発生しませんでした。

 

大学も三年になる頃。私は大学での恋愛を諦めると同時に、自分は恋バナは好きだけれど、恋愛には向いていない事を考え始めました。

 

じゃあ、何なら向いているのか。結婚願望はありました。

思えば、付き合うってつまりどういうことなんだろう。

と考え、

付き合うのゴールとは?

と自問自答し、

 

その答えとして、

付き合うとは、

『一緒にいることによって相互的にお互いにプラスの影響を与え続ける関係性』

という結論を出してしまった私に、ただ楽しく付き合う、将来の事を思い描かない楽しい恋愛、を実践するのは向いていなかったのだと思います。

 

そうした関係性を半永久的に維持できるくらい、自分の精神状態が自立できて、そうしたことを考えている人に運良く出会えたら、むしろ結婚した方が良いとも思いました。

 

こうして、恋愛に向いていない事に気がついた私は、

ただひたすらに自分磨き(主に内面。外見は社会人になってから巨額の投資をすればすぐに変わると思っていた)に励み、

結果、大学を卒業する前に現在の夫と、遠距離恋愛を開始。

遠距離恋愛が終わり、お互いの距離が近づいたところで、それぞれ部屋を借りて住むのは非合理的、という判断のもと結婚に至りました。

 

恋バナに燃えた私は一体どこに行ってしまったのか。

そもそも私は恋バナの何に燃えていたのか。

あの、中学、高校時代に恋愛にあれよこれよと思考をつかった時間は、結局何に活かされたのか。

 

全然分からないですが、大好きな夫が隣にいる、というだけでこれまでの時間をなかったかのように今を平然と幸せに生きる事が出来ているので、よしとしたいと思います。

 

どんなに好きでも、向いている事と向いていない事がある。

恋バナ、及び恋愛はそんな教訓を私に授けるイベントだったのかもしれないです。

 

 

少女マンガの終わり方と日本の女の子達の未来

 

一人暮らしを始める前の断捨離によって、マンガ雑誌に対する所有欲を失ってから、マンガ雑誌を買う習慣が自分の中からすっかり消えた。

それ以降気に入った作品の単行本だけを買っていたのだけれども、借りて読むという手段が登場してからはレンタルが基本になり、そして現在はネット上で借り手読むことができるので、冊子の形でマンガを買うのはワンピースと進撃の巨人くらいになった。(物語が複雑なのでたまに前の巻を読み返したくなる)

 

マンガアプリもよく利用する。中高生で流行っていると思わしきアプリをダウンロードしたりして、今時の中高生がどんなものにはまっているのか、中高生ネタにもついていけるおねえさん、を目指してキャッチアップを欠かさず行っているのだ。

 

そんな中で気になったのが、少女マンガのエンドの傾向だ。

 

問題や謎を解決する事が主軸の少年マンガと比較すると、少女マンガのほとんどは恋愛の話、と言っても過言ではないと思う。

主人公が美人で始まるかおブスで始まるかは私が中高生だった頃も多様にあったけれど、最近は終わり方も多様になってきた気がしてならない。

 

セーラームーンはちょっとまた別次元のマンガと思っているから割愛

 

流行った少女マンガの終わり方は大抵、気になっている人と付き合う事が出来た、というところか、結婚する事が出来て、エピローグ的な部分にヒロイン&その彼氏(夫)にそっくりな子どもが登場したりして終わりを迎える事が多かったように感じる。

とか

  とか

とか

 

続編からは微妙に変化したけれど、一旦終わったときにはだいぶハッピーエンドだったよね。これも。

 

 

スポ根マンガでさえ、終盤には心を通わせていたかっこいい先輩や幼なじみと、ちゃんとくっついている。

 

男性と付き合う、誰かと結婚する。子どもを産むことがゴールであるってみんなが夢としてみたいが故にマンガで多く描かれ、結果多くの少女達がそれを夢見るから、結婚=ゴールという式が完成して、苦しくなっているんじゃなかろうかとも思う。

 

だからといってこんなん読ませるのやめた方が良い、とは思わないし、楽しめば良いと思うけれどね。マンガに罪はない。

 

最近はネットのおかげで、楽しいと思う人がニッチな傾向があっても、そのニッチ層にきちんと届くシステムが上手く出来たと思う。

きちんと届く→読んでもらえる→連載できる

の流れが出来たのか、ネットに置ける女の子向けのマンガというのは結構多様な設定だったり、流れだったりが多い。

昔、女の子同士や男の子同士の恋愛としてメインストリームにいたのって、

カードキャプター桜くらいだった気もするけれど、今はそういうマンガはネットではいっぱい落ちている。

 

今の若い子の方が人権感覚が育っているのは確実な気がするので、また20年後、30年後は世界の捉え方が変わりそう。

私も古いなあ、とか頭が固いなあ、と思われるおババにならないように、今時の子が得ている情報はきちんとキャッチアップしていきたいと思う日々です。

たまにお茶するくらいの、女子中高生の友達が欲しい。

 

 

成人を迎えたあの日の私に伝えたい3つのこと〜拝啓20歳の私へ〜

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今日、外を歩いていると綺麗な振り袖姿の女性を何人か見かけました。ついでにどこかの会場で講演をする予定なのか、地元の政治家もちらりと見かけました。

 

せっかくの成人の日、ということでもしも未来の私から、過去20歳を迎えた私にメッセージを送る事ができるなら、どんな言葉を送るか、考えてみました。

 

 

拝啓 20歳の私へ

こんにちは、20歳の私。冬ですが、風邪を引かずに元気にやっていますか?

未来の私は元気に、毎日学ぶ事を忘れずに過ごしています。20歳の頃よりも、楽観的に、難しい事は考えずに生きていますが、外国に友達が出来たり、統計の勉強をしていたり、今のあなたが専門としている事以外の学習もたくさん積み重ねて、それなりに賢く世の中を生きています。

さて、20歳になる私へ、今の私から3つのメッセージを送りたいと思います。長いと、多分あなたは飽きるでしょうから、本当はたくさん言いたい事はあるけれど3つに絞ります。

 

 

1つ目。『他の人がやろうとしないことを率先してやる姿勢で生きる事』というあなたが20歳でやろうとしていたことは正しいです。そのまま続けてください。

 

 

あの時、色んな人が色んな事をしていて、私はそれをやらなくていいのだろうか、私もみんなと同じようにあんなことをしなくて大丈夫だろうか、という不安を抱える日もあったし、今も抱えているかもしれません。

けれども大丈夫です。人間やはり、心からやりたいと思って手を出した事でない限り、心に強くは残らないようだし、学習効率も悪いです。その時、その時に自分が本当に好きでやってみたいと思った事を大事にしてください。

 

 

そういえば、20歳の時、あなたは成人式に参加しませんでした。迷った末の決断のように見えましたが、本当は自転車旅行に行きたくてたまらなくて、なんて説明をしたら両親が納得するか、考えていたかもしれないですね。成人式、夏でしたもんね。

結果的に参加しなくても大丈夫でした。

大人になってみると、以外と成人式に参加していないという人は他にもいるし、むしろ着飾るお金が浮いてラッキーだったくらいに思っています。

 

 

お父さんに着物姿を見せなくて大丈夫だったか、という心配もしていましたね。写真も撮ったりしない決断をして、本当はお父さん、写真くらい撮りたかったかなあ?と。

 

 

その問題も大丈夫です。

 

 

彼氏のかの字の欠片も見当たらない20歳だと思いますが、以外と早く、最高に素晴らしい男性と結婚を決めて和装で写真撮影をしました。お父さんとお母さんも撮影の様子を見に来て、最後には一緒に写真を撮りました。

お父さんは超絶喜んでました。成人式に撮影をしなかった分、倍の喜びだったんじゃないかと推測しています。我慢した分嬉しさ倍増、状態です。

 

 

ある意味では天邪鬼に生きる姿勢というのは反感も買うし、辛い時期もあるかと思います。けれども、ファーストペンギンになれば、美味しい魚にありつけるチャンスは人より多いです。

もうファーストペンギンの話しは知っていますか?ペンギンは群れで狩りをするそうですが、最初に海に飛び込むペンギンをファーストペンギンというそうです。

ファーストペンギンは一番最初に海に飛び込むのでたくさん魚を食べられるチャンスが他のペンギンよりも増えます。けれどもそれと同じくらい、天敵に一番最初に襲われるリスクも大きいです。

 

 

一番最初に飛び込むのは勇気も必要だし、リスクも大きいけれど、成功すれば魚をたくさん食べる事が出来ます。それに大丈夫。日本で生まれて、命を脅かされるような危険なんて、相当な事をしない限り起きません。

今のところ、飛び込む回数も飛び込む場所のリスクも上がってきているけれど、命の危険を感じたのは19歳の夏の自転車旅行中に熊に遭遇した事が一番です。あれ以上の事はまだ起きていません。

 

 

 

さて、2つ目です。『自分が住んだ事のない地域に住んだ事がある友達をたくさん作ってください』

国内でも、海外でも、どっちでもいいです。

自分がいった事もないような地域で育った、もしくは生活した経験のある人、というのは高確立で自分が知らない文化や習慣を知っていたり、それを当たり前だと思って生活を営んでいます。

 

 

そう言う人と会話をすると、当たり前だと思っていたことが面白いようにガラガラと崩れて行きます。この崩れた後にあなたの中に出来る新しい思考法だったり、考え方はあなたの人生をより、豊かに楽しい物にしてくれると思います。

逆に、同じ文化圏の中の人達だけで話していると、自分の中での当たり前が板について、考え方を変える事が難しくなってきます。

人と人、というのは同じ種類の生き物のはずなのに、水と油のようにはじき合うような関係です。

けれども、一生懸命混ぜ続ければ油が細かくなって水と解け合ったかのようになるのと同じように、人と人同士も、根気づよく話し合いや付き合いを続けていると、どんなに違う文化を持った者同士であっても、理解し合える状態がやってきます。

 

 

分かり合える訳ではなくて、理解し合える、ということだから勘違いしないでね。

 

 

けれども水と油がそうであるように、混ぜ続けないとそれらは再び分かれていきます。私も完全に分かれてしまわないように、今でも自分自身を柔軟に、色んな人と色んな世代の人と会話をするように心がけています。

20歳という年齢だからこそ話せる事、分かり合える事もあります。たくさん良い友達と出会ってください。

 

 

 

最後の3つ目です。『20歳はまだまだひよっこ、と思わないでどんどん自立への道を歩んでください』

大人は言います。青二才のくせに、とか。まだまだ若いんだから、とか。

確かに比べれば若いです。青二才だと思って謙虚に過ごす事が大事なときももちろんあります。

 

 

けれども、もう20歳だ。と思う心も50パーセントは少なくとも持ってください。それがあなたが自立する心を育てます。

 

 

自立とは、誰かや何かに依存する事なく、自分で考えて行動する力、だと未来の私は考えています。

 

あなたの両親はなかなかに自立のさせ方が上手かったので、料理などの生活の事や税金の事なんかは同世代の子達よりも知っている事が多いかもしれません。

勉強が得意ではないあなたですが、これだけは自慢できる事かもしれません。が、未来の私から見ればやっぱりまだまだです。精進の心を忘れないでください。

 

 

世の中の問題を政治のせいだけにしていませんか。

自分が何かにチャレンジできない理由を住んでいる場所のせいにしていませんか。

物事はできるか、できないかではなく、やるか、やらないか、です。できるようにするためにはどうしたらいいか、を常に考えましょう。

 

 

自分が不幸なのは国が悪いからだ、とか時代が悪いからだ、とかって国や時代に依存しないでください。

そうやっている人で幸せそうにしている人をまだ見つけた事はありません。

やっぱり何事も依存は良くないんだと思います。

 

あと、男とか友達に依存しても行けません。あなたに依存したいと考える男や友達ばかりが寄ってくるようになってしまいます。

 

 

あなたが自立していれば、将来必ずきちんと自立をした友人がたくさん出来ます。それは同年代には限らず、です。

もちろん同年代で自立した友人が今、私にはたくさんいます。みんな問題を誰か人のせいにする事なく、自分ごととして捉えて、自分には何が出来るか、という与える姿勢をもって生きている素晴らしい人達です。

いつかきっと、そう言う人達と出会えるから、依存には気をつけてください。

 

 

はやいものでもう3つのメッセージを詰め込んでしまいました。

まだ言いたい事は山ほどあるけれど、いつも全部を伝えられるほど、いつも全部を学べるほど人生という時間は長くありません。

限りある時間の中で学んで、理解する事も大事です。

あなたの理解力があまり高くなく、理解に時間がかかる事は知っています。私自身なので。

時間がかかってもいいけれど、理解しようとし続ける事をやめないでくださいね。いつか分かる日が来るから。分からないときは、その時分かった事だけを実践してみればいいんだから。

さあ、成人として責任ある大人への一歩だね。

がんばれ、とは言わないよ。

 

楽しんで!

大人ってめっちゃ楽しいから!

私はそちらに戻りたいとは思わない!

 

 

敬具

 

自分自身にとっての『知る』ということについて思考整理してみた

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人生は何もしないには長すぎるが、 何かをするには短すぎる

 

山月記』の作者として知られている中島敦の言葉です。

無為徒食に日々を過ごすのと、志を立てて日々を過ごすのでは時間の流れが異なる。
それは「毎日の充実度」とも関係があるのだろう。
同じ時間を過ごすのであれば、少しでも充実した時間にしたいものだ。

 

 

私はまだまだ人生それなりに生きた、と言えるにはほど遠い年齢ですが、何もしなかった時期にはだんだんと人生を長く感じ始めたし、何かに一生懸命なときほど人生って短いな、と強く感じました。

学校の授業なんかもそうかも知れません。何かを学ぼう、頭に入れよう、と思うと、授業一コマ、45分であったり90分はとても短い。

けれども、早く終わらないかな、と思って過ごすととても長く感じる。

学ぼうと思っても長く感じる、という人は、多分一度目標を具体的にしてみると良いんだと思う。

暇、と思っている人は、45分後、あるいは90分後に同じテーマの授業もしくは講義を、このことを全く知らない人、例えばその授業を取っていない友人だったり、この授業を理解するための素地はあるであろう身近な大人、や兄弟に説明して分かってもらう、というアウトプットを一度してみるといい。

アウトプットしようとすると、本当に理解していないとできないから。

 

 

暇だ暇だ、と人生を生きるか、

楽しい、面白い、密度が濃い!と人生を生きるか、

どっちだいい?

と聞いたら、多分9割くらいの人は後者がいいってえらぶんじゃないだろうか。アンケートを取った事がある訳ではないけれど、直感的に三秒で選んで!みたいな感じで聞いたら、ほぼほぼ9割が多分後者だと思う。

人ってやっぱり役割が与えられた方が生き生きとして、幸せ度が高そうだなっていうのは、定年退職で引退した多くのおじ様がたが証明してくれたように感じる。

こんなデータもあるし。

www.dentsu.co.jp

 

じゃあ、楽しい、面白い、密度が濃い!

と思って生きるためにはどうしたらいいのだろうか。

そこで出てくるのが最初のこの言葉。

『人生は何もしないには長すぎるが、 何かをするには短すぎる』

そう、何かをすればいい。

 

何かをするにはどうしたら良いか。

それには何をしたいのか、自分を良く知らなければ行けないし、自分をよく知るには自分が今いる場所についてもよく知る必要が出てくる。

自分が立っている場所が森の中なのか、街の中なのかで、もしも南の島に行きたい場合、行き方、辿り着き方って全然違う。

そもそもどこに辿り着きたくなるかでさえ、物事を知る過程でだいぶ変わる。

 

ドラえもんを知っている子はドラえもんがいる世界に行きたいと思うけれど、コロ助しか知らなかったらコロ助のいる世界に行きたい、と一番に思う。

どっちの世界に行きたい、というのはそれぞれで良いと思うけれど、コロ助しかしらなくてコロ助と出会った人の中で、後からドラえもんの世界に行きたいと思う人は、いるかもしれないし、逆もしかり。

 

話しがそれた。元に戻そう。

 

だから、社会の学習というのは小学三年生でまず自分が住んでいる家の周りの事から始まって、自分が住む市内、県内(もしくは都、道、府内)、国、そして世界へと広がって行く。

広い意味でとらえれば、世界を知るという行為は実は自分を知る、という行為に繋がっている。

 

私達は、今、自分の住んでいる世界についてどれくらい知っているだろうか。

いや、ぶっちゃけよく知らないな、とも思うし、

遠くから友達が家に泊まりにきたりすると、この辺の事について自分も詳しくなったなあ、とも思う。

 

昔、CLAMPxxxHolicというマンガを読んでいた時、

『セカイはそれを知るものの前にはヒトツじゃないのよ』

という台詞があった。 

まさにこれ。

 

その辺にいる小学生や中学生よりは、多分長く生きてきて、色々な場所・地域に住んだ経験もある私は、見えている世界は少し違う。

ど田舎に行くとコンビニがとてもありがたい存在であることを知っているし、

雪はとても重くて時には家をつぶすこともある、楽しいだけの存在でない事も知っている。

けれども、ニュース解説でおなじみの池上彰さんが見ている世界と私が見えている世界も絶対違う。

あんなに世界が動く現場にいた人の見ている世界は、きっと世界は色々大変で一人一人が出来る事はこんな事もあんな事もある、という想いにあふれている、と思う。

 

 

『人生は何もしないには長すぎるが、 何かをするには短すぎる』

密度濃く、楽しく生きて行くためにはやっぱり勉強ができなければいけないんじゃないか。

と思うけれど、割り算でひっかかる、という小学校の卒業さえ不安を覚えた私が、学校を無事卒業してなんとか社会で生きてきた短い経験談から、

 

『勉強ができなきゃいけない訳ではない』

 

ということも分かりました。

もちろんできるに越した事はないけれど、世の中に出ると大体自分より勉強ができる奴というのはわんさかいる。

全国模擬で一位とりました、とかでないかぎり、あまり自分を勉強面で特別視しない方が良いんだろうな、とも思いました。

だって、競争相手は同学年だけでなくて、その下の学年とか上の学年とかにだっている訳で。

 

私が短い社会経験で一番実感したのは、

『勉強はできなくても良いけれど、続ける事が大事』

ということでした。

大学生までは勉強する人がそれなりにまだ日本人の半分くらいはいるけれど、社会人になってからもそれなりにハイペースで勉強を続ける人は、結構少数派。

割り算で引っかかっていた田舎の少女も、みんなが勉強をやめた後もなお続けた成果によって、世の中で言う勉強がよくできた人達と中の良い友達になり、さらなるいい学習体験を得る事が出来る、という好循環に入る事が出来ました。

一度で理解できなくてもいい。

今、賢い人達の中には、学ぼうとする姿勢がある人が好き、という人も結構います。(オバカを排除しようとする人も0ではありませんが)そう言う人は、なんだか分かっていないんだけど、理解しようとする気持ちはあるんだよ、という姿勢に対して、一生懸命答えようともしてくれます。

 

自分で言うのもなんですが、気がつけば今、自分はものすごく得をして生きる事が出来ているなあ、と感じます。

昔、ドラゴン桜で読んだ、『搾取されたくなければ勉強しろ』という言葉通り、別に大学もそれほどの所に言った訳でもないけれど、勉強を続けていたら、そんなに高年収でなくても海外旅行を楽しんだり、たまにいいレストランに行ったりできているなあと思います。

 

何か特別な才能が明らかにあるならば、それがきっと、人生における何かをすることの『何か』であるし、もしもまだ『何か』が分からなかったら、自己認識を深める時期なんだろうな、と思って、知る事をやめないことが大切なんだろうな、と思います。

 

私の『何か』は何だろう。新年の始まりに一度は考えるのですが、これが毎年変わったり、固まったり。まだまだ私も修行が足りないという事で、成人の日を前に自分の頭の中の整理整頓をしてみた日記でした。

いったんおしまい。

 

東北の人が笑わない、という理由について考えてみた

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高校生の時、修学旅行で関西方面に言った時、自由行動の行き先について、誰が言い出したのか、

USJは将来カップルで行けばいいんじゃね」

「その他寺院は前日、前々日までに色々いくから、昔の文化ではなく今の文化を知れるところが良い」

という意見が上がって、よしもとのお笑いを見に行くことになった。

ちなみにそのときの班員は7人ほどで全員女。

3人以上ならどのように班を作っても良い、というルールで、なんやかんや人を集めたらこの人数になった記憶がある。

これ以上は分かれろ、と言われたものの、その理念に賛成する人が多かった故に、多分班が分かれても一緒に行ったんだろうけれども。

 

そんなこんなで東北の女子高生7人でよしもとに行った、という思い出は、そういう班が意外と他にいなかったせいもあり、クラス会で少し話題になるくらいには楽しいものとして記憶に残っている。

 

今振り返れば、高校が私服だったこともあって、7人に修学旅行生感はあまりなかったかな、とは思うものの、言葉が明らかに関西弁ではなかったので、どんな集団に見えていたのだろうかね。

 

そもそもそういう劇場に行く、という文化がない東北の田舎から出てきた7人。普通に面白くて、楽しかった。やっぱりプロは違う。

ただ、面白かったね、で終われば良いんだけど、それだけで終わらない思い出も一つある。

 

当日の最後はフットボールアワーさんだった。

前日までなんと東北地方を巡業していたらしいことを最初のしゃべりネタにつっこんできた。

東北巡業、とにかくみんな笑ってくれない。

会場があんなにシーンとしているのは初めて。

でも終わると拍手は盛大。

反応が掴みにくかった。東北は難しいと先輩達が行っていたのは本当。

 

そして最後にこの一言。

「会場に東北の方、おられます???」

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東北の田舎者らしく、私達は固まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思わず、お互いに目を合わせる7人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰も手を挙げない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、本当にいなかったのか、それとも私達のように、東北人らしく固まったのか、手を上げた人は一人もいなかった。

 

今では高校時代の良い思い出、かつ東北人的なネタとして関西の方と話すときの私の鉄板ネタになっているんだけどね。

 

さて、そんな『東北人は笑わない』

ということについて、この年末年始考えさせられる出来事があった。

 

テレビではお笑い番組がひしめき合う年末年始。

私も例に漏れず、テレビを付けたらやっていたお笑い番組を、そのまま流れで見始めた。全国で有名な漫才の人達を始め、関西圏のみで活躍している方達も多く出た。

 

大阪で一番ウケている、という漫才コンビが出てきたときだった。

さぞかし面白いのだろうか、という期待の下、テレビに視線を向けた。

 

 

漫才が始まって、数秒経った頃。

なぜ、東北人が笑わないのか、ひらめいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聞き取れなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多分、東北よりも、圧倒的に早口なんだと思う。

 

東京に出てきたときでさえ、関東の人はしゃべりが早くて会話についていけないなあ、なんて思ったのに、関西の人のしゃべりは早送りで見ている気分だった。

 

生で見ればまた違ったんだろうけれども。

テレビでは日本語のはずなのによく聞き取れず、笑いのポイントを聞き逃すという事体が発生した。

 

その後に見たサンドウィッチマンのネタのゆっくりさたるや。

優しさを感じてしまった。

 

東北の人は笑わない訳ではない。

多分、聞き取れていないだけなんじゃないだろうか。

 

東北で売れたい、関西の芸人さんは、多分ゆっくり話せばいいんだと思う。

 

 

魔女の宅急便をみてオソノさんになりたいと思った

 

映画年間150本の目標に向けて、毎週金曜日の金曜ロードショーをみることを決めました(笑)

毎週定期的に同じ時間に映画を観れば習慣化するのでは、という目論みと、それなら金曜ロードショーを観れば良いのでは、というところから、今年は金曜ロードショーを全部観る気持ちで一年を過ごしてみたいと思います。

 

金曜ロードショーは、そんなスタートダッシュに嬉しいジブリ祭りから始まりました。今日は『魔女の宅急便

私は原作が結構好きで、6巻までこどものときにしっかりと読んだのですが、意外とその事実を知らない人が多くてびっくりしています。

学校の図書館とかにあったと思うんだけどなあ。

kuro-yan.hatenablog.com

前の記事でも紹介した事があったっけ。

最初の頃はキキになりたいのだけれども、だんだんウルスラに憧れて、今回はなんと、ついにオソノさんに憧れの気持ちを抱くまでに至りました。

この映画を最初に観た当初は、オソノさんは大変年上で自分の母親のような人で、特に憧れの気持ちなんてなかったけれど、今回観たら、なんてしっかり自分が作った基盤の上で生き生きと働いているのだろう、と思った。

もっとお金持ちになる生き方もあるし、もっと自由な生き方もある。

けれどもオソノさんはあそこのパン屋さんでとても幸せに生活を広げていて。大人だからきっといろんな悩みもあるんだろうけれど、そういうのもひっくるめて豪快に笑って生きるあの姿勢になんだかついていきたい気持ちになりました。

この年になったからこそ、

オソノさんのキキに対する、私も空が飛べたらなあ

という台詞の気持ちもすごく伝わってくるし、

困っているなら早く言えば良いよ、うちの部屋を使いなよ

という台詞の暖かさも伝わってきた。

 

しかもオソノさん、あの出産が一人目だとしたら、意外と設定若いんじゃないか、とも思えて調べてみると、26歳。

ジブリは年の割にみんなしっかりしているなあ、と思いつつ、あれだけ壮大な出自をしていたり、環境が壮大だったりしたらそりゃしっかりもするかなとも思った。

 

キキのように能力や才能がありながらも悩める若い人の力になれるような、まっすぐ自分の道を歩いて行く強い女性に私もなりたいです。

 

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人の振り見て我が振り直せ

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新年が開けてすぐの行事が『親戚への挨拶回り』

結婚すると相手側のしきたりや習わしに従って動くから、最初のうちは慣れなかったけれど、年数が経つに連れて慣れてくると、それぞれの家で頂くごはんを味わえるようになったりして気持ちが楽になるもんですね。

 

毎年同じ話しを繰り返す親戚も、訪問先への気遣いを説きながら周囲の親戚には気遣いができていないやつ、と思われている親戚も、まあ人間ふたを開ければ色んな人がいますが、人間観察だと思って一日を過ごすとそれなりに楽しかったりします。

 

毎年色んな人のお話を聞いたりして、自分が嫌だなあと思った事を他人にしないように気をつけようと思ったり、逆に自分がされて嬉しかった事を真似しようと学び直す場でもあります。

 

 

今回『人の振り見て我が振り直せ』と特に思った事は車について。

都会では運転をしないというよりそもそも運転免許を持っていない人も割といる。まあ、電車で全部移動できるし、無理に運転しなくてもエコだからいいと思うんだけどね。

そのせいか、大人の自転車のマナーが思ったより酷い人が多いな、と思う瞬間がある。

車を運転すると、自転車のマナー違反がいかに危険で止めて欲しい事かがよくわかるんだけれど、その危険度合いの認識が免許を持っている人とそうでない人とで結構違う。

(もちろん免許を持っていなくても交通ルールをきちんと守っていらっしゃる方はたくさんいるんだけど)

 

交通ルールは最悪自己責任だけど、今回一番気になったのは車の乗り方。

後部座席でもしっかりシートベルトを締める、とか、あと急に曲がれないこと、とか。今の道曲がった方が近かったのに!とか、急に言われても地元のタクシーの運ちゃんじゃないんだから曲がれないよーと思ったり。

 

私の実家は田舎で車社会のため、18歳を超えると大抵の人が免許を取り、就職のときには軽自動車を購入して毎日バリバリ運転を始めるような地域。

私自身は運転があまり好きじゃないけど、できなくはない、というレベルだけど、だからこそ運転の大変さや、どれくらいコストがかかっているか、という認識はそれなりにある。

運転してもらっていたらやっぱりありがとうの気持ちをもつし、ガソリン代を考えたり、高速代金を計算したり、地図をみたり、大学の頃から友達同士でそういう行為が当たり前に行ってきたけれど、相手が免許をもっていない相手だと、そういう会話も生まれないんだなあ、と文化の違いを感じたりしました。

 

今回運転したのは自分ではなくて、私よりも上手な夫で、夫はそんなやりとりに慣れているのか、後ろからヤジがとんでも聞こえていないかのように運転していたので、私もそんなお釈迦様のように無心で運転できるよう心を鍛えねばな、と思ったり。

 

しかしその後、免許を持たない年配の親戚が、私は車が運転できないからこうして乗せてもらえて本当に助かる。運転してくれてありがとう、とお駄賃を少し頂いてしまって、ああ、私もこんなおばあちゃんになりたい、と心底思った。

 

人の振り見て我が振り直せ

 

私はあの親戚のおばあちゃんのような、素敵なおばあちゃんになりたいなあ、と改めて思えたので、いい学びの機会をいただきました。

 

 

遊びも本気でやれば、価値が生まれる

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宴会芸なんて古い。

芸をしに会社に入った訳ではないのに、どうして会社は芸を求めてくるのだろうか。

仕事ができていればいいじゃないか。

 

意識高い学生であれ、普通の学生であれ、こうした意見を多く聞くのはそういう世代だからだろうか。

そんな世代の真ん中にいながらも、私はこの『宴会芸』という文化については無関心だった。何の役に立つのかは分からないけれど、とりあえず言われた事だしなんかやろう。何か出来るように一芸を磨こう。

 

大学で一芸披露を求められる部活動に入部したせいもあってか、そういうものが当たり前だと思っていた部分もあるかもしれない。別のサークルではそういうことが一切なかったので、ああ、もう古い文化なのかもしれないな、と思いつつ、特に廃止をしようと運動したりとか、そういったことはしなかった。

伝統だしな、と流して、芸を磨いた。

 

おかげで社会に出てから困らなかったので、この『宴会芸』という文化をあまり疑わなかったし、問題に思った事もなかった。

つまり無関心だったのだ。

マザーテレサ曰く、愛情の反対は無関心。

圧倒的に、なんの興味も沸かず、賛成でも反対でもない、というかもはや意見を述べられるほどそれについて考えた事もない、という状況だ。

 

ただ、社会を楽に渡っているような気がしたので、特段反対しようという気持ちが起こらなかった、という意味では『賛成派』だったのかもしれない。

 

社会に出てから、幸い宴会芸にものすごいレベルを求められるような職場ではなかったので、学生時代につくった宴会芸貯金で乗り切る事が出来た。

けれども、友人の中にはものすごいレベルの高い宴会芸を職場で求められている、という友人もいた。

歌が得意な人はカラオケを頑張ればいいのだろうけれど、そうでない人は踊りの練習をしたり、何かを暗唱したり、物まねを研究したり、仕事以外の事を一生懸命になっていて、本当に大変そうだと思った。

 

しかし、数年経ってくると、そうやって会社の仕事以外の事にも一生懸命になった友人達は、人間としての器が大きくなったように見えた。

どちらかというと学生時代には気遣いなんて出来ない方で、方々に迷惑をかけていたのにそんなことはなくなったし、会話の幅も広がった。相手の気持ちをよく考える、素敵な大人になったようにみえた。

 

それが宴会芸によるものなのかどうかは分からない。けれども、こうして年相応に大人としてしっかりしている人たちは、会社の宴会芸を乗り切ったか、もしくは学生時代に思いきり、遊びに本気で夢中になった人達である傾向があるなあ、と私の周りを見ていて思う。

学校で与えられたもの、職場で与えられたものだけでなく、自分が夢中になった者に対して本気で遊びに行ったり、一見無関係そうなことに全力で取り組んだ人は、少し人とは違う視点を持っていたりする。

 

遊びだって、本気でやればスキルが身に付く

 

これは文化祭に言える事かもしれない。

文化祭の面白さは偏差値に比例する、昔誰かが言っていた。もちろん全てがそれに当てはまる訳ではないし、そうじゃない例だってあると思うけれど、いろんな高校や大学の学祭、というものを覗いてみた時、賢そうな人達が集まる学校は結構やっていることが本気だ。

例えば折り紙。幼稚園、保育園児たちの遊びのイメージが強いかもしれないけれど、ある日ネットで東大折り紙サークルの作品を見た時、度肝を抜かれた。

こんなん折り紙で作れるのか、という衝撃があった。

折り紙に限らず、歌でも、スポーツでも。何かに本気になる、夢中になる、という経験はそのスキルだったり、精神だったりを大きく成長させてくれる起爆剤なのかもしれない。

 

そして、もしかしたら『宴会芸』は、そんな遊びを学生を卒業するまでに本気になれなかった人達のための最後のチャンスなのかもしれない。

仕事とは何の関係もない事に夢中になって、それをみんなの前で発表する。

 

いや、でも本当だったらそういうバカは十代でやってこそ楽しいし、失敗の規模も小さいんだから、学生のうちに本気で遊んどいた方がやっぱりいいんじゃないかな、と思うけどな。

 

 

2018年、今年の目標リスト

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今週のお題「2018年の抱負」

今年の大まかな方針は『継続』

それじゃあ『継続』という方針の下、どんなことを達成したいのか、リストにしてみました。

 

・映画を150本観る。

《理由》

昨年100本観る事ができたけれど、習慣化することによってもっと観れる気がした。自分の中に教養ストックを増やしたいので、さらに映画を観る本数も増やしたい。

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・本を100冊読む。

《理由》

今年こそは。これも自分の中の脳内ストックを増やすため。今年はブクログ、というアプリをダウンロードしてみました。100冊と言わず、たくさん読みたいな。

booklog.jp

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・日記を毎日書く。一つの日記で3000字だとなおよろし。

《理由》

とにかく続ける事、が昨年までであれば、今年はそれに加えて、意味ある文章を書く、という目標も付け加えたい。1000字くらいだとちょっと軽いかな。3000字くらいあると、読み応えがある。という理由で3000字。

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・日常会話の英語に困らない英語力を身につける

《理由》

昨年友達との会話で困ったから(笑)もう、本当に。夫の友達に会うときに、しゃべれないと本当に困った、という実体験を積み重ね、そろそろしゃべれる人材になりたいという思いから。というかしゃべれないと、あと30年もしたら仕事なくなりそうだしね。

スカイプ英会話で始めようと思うので、まずどこの会社が良いのかとか、調査から始めよう。

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・切り絵の作品を12作る。

《理由》

殺風景な部屋に何か芸術的なものを飾りたい。でも買ってきたいと思うほどのものとなかなか出会えない。それならば芸術を自分で作ればいいんじゃないか。絵はさほど上手くないけれど、切り絵ならば自分にでもできるんじゃないか。という安易な発想から決めました。切り絵。まずは専用カッターと下敷きを買いに行きます。

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美ジョガーになる。

《理由》

自転車やるし、フルマラソンも走るのに、なんだかあまりスタイルが整わない。それは大会に向けて短期的にしかトレーニングしていないからだ。今年は定期的に大会に出るとかして、自分の体を美ジョガーにしたい。あの大会とかで美しく走るお姉様達のようになりたい。

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おおまかに思いついたものはこんなところでしょうか。

楽しく生きるためのツールを増やして行く1年になるといいなあ。

 

 

 

あけましておめでとうございます。今年の目標は『継続』

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あけましておめでとうございます。

2018年。平成30年がついに始まりました。つまりは平成生まれもついに30歳になる人が出てくるという訳で。

 

ゆとりだなんだと言われている人達が世の中をしっかり支えてくれようとしている時代になっているわけですね。

よくよく思えば今の団塊の世代以下だって、新人類やら何やら言われて大人になっているんだから、どんな世代に対してもこうだからだめだっていう思い込みは外して生きていきたいものです。老人も若者も。

 

さて、お正月元旦と言えば?

ニューイヤー駅伝

サッカーの天皇杯決勝

初詣

おせち料理解禁

お雑煮

お年玉

親戚への挨拶回り

何を答えるかでその人の趣味趣向まで読めてしまうんだから、一年の計は元旦にあり、とは昔の人も上手い事言ったもんですね。

 

今年、我が家はサッカーの天皇杯決勝を見に行きました。

特に大のサッカー好き、という訳ではないのですが、友人に誘われてのお出かけです。元旦にどこかに出かける、というのは始めてだったので新鮮でした。

元旦なのにやっている居酒屋もあったりして、本当に頭が下がる思いです。でもお休みでもこうしてだれかが働いているわけで、こういうときに、かわいそうだから休みにしよう、となるのもいいですが、こういうときだからちょっと割高を払って店員さんに還元してね、の方が経済は回るのかなあと思ったり。

学生の頃は年末年始バイトしてましたもん。旅行に行きたくて、お金貯めたくて。貯め時なんですよね、この時期って。

 

サッカーはおおいに盛り上がりました。いつもテレビでしか観ていなかった場所に行ってみるというのは大変新鮮なもので、それなりに行く大変さはあれど、試合も全体を通してどちらが勝つか分からない展開で延長戦まで行く良い試合だったので、本当に楽しめました。

友人が大阪側なので、今回座り席ながらもサポーター席に近いところに座ったので、周囲のユニフォームを着用した年季の入ったサポーターの方と一緒に一生懸命応援し、ゴールが入ると立ち上がって周囲の人とハイタッチ。

知らない人と盛り上がれてなかなか楽しい元旦でした。誘ってくれた友人に感謝です。

寒かったけれど、仕込んだホッカイロと応援していたチームの勝利のおかげで楽しい元旦でした。

 

さて、今年の目標は『継続』

昨年から書く事を続けて、書く事に対するハードルはかなり下がったように思います。今年は意味ある記事、だれかのためになる文章を書けるように、この日記も『継続』して行きたいと思います。