くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

行事だってミニマム化したい。私のバレンタインの楽しみ方

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今週のお題「バレンタインデー」

 

ミニマリスト、という言葉もだいぶ人口に膾炙されてきたと感じる今日この頃。ブログ巡りをしているとたくさんのミニマリストの方と出会います。

みなさんそれぞれ、お部屋がめっちゃ綺麗だったり、冷蔵庫及び食材の管理方法がとても効率的だったり、というかそもそも冷蔵庫ありません、みたいな人もいたり。

物が多いと、その分決断回数が増えて、脳への負担もあるので、私自身も、どうしたら脳の力を節約できるか、使いたい部分にだけ決断の力が発揮できるように、無駄を減らそうと考えています。

(有名な話がスティーブジョブズザッカーバーグが、着る服を決めていること、なんかですかね。たしかにファッションに強い興味がない限り、自分自身が着る服をある程度制服化してしまうと本当に楽です)

 

ただの面倒くさがりやと言ってしまえばそうなのかもしれません(笑)

 

 

同じように最近私の中で考えているのが「行事のミニマム化」

ミニマリストさん達の多くは、日本の行事を楽しんでいると思いますし、持っている物の中で行事を楽しむ工夫もたくさん紹介されていて、いつも参考にしています。

でも、たまに、この行事は特に参加したいと思わないな、みたいな行事もあります。

 

例えば最近だとハロウィン

ちょうど自分と同世代の人達はみんなかなり盛り上がっていて、十月が近づくと仮装パーティやら仮装集会に散々誘われるのですが、まだ行った事がないです。

いつか、大好きなスターウォーズの仮装で参加してみてもいいかな、とは思うのですが、特段日本のハロウィンという祭りに参加したい欲求はないので、家の中を飾り立てる事もないです。

スターウォーズもやるなら本気で、トルーパースーツに十万くらいかけて、スターウォーズのセミプロ仮装集団に入隊したいので、そこまでいける人脈とか、仲間ができたら参戦したいと思っています(笑)

 

 

そして今回バレンタイン。

一番バレンタインを頑張っていたのは高校生の頃でしょうか。部活の先輩に上げたり、男子部員にまとめてあげたり。

その頃からめんどくさがりで、男子部員十人ほどに一人ずつ渡すのが面倒で、昼休みに同じ部活の男子部員が集まっているクラスに行って、代表の子に一つ、どーんとホールケーキとフォークのセットを渡した記憶があります(笑)

面倒なので喧嘩しないように分けてね、と(笑)

学校にホールで持って来た子なんていなかったことに加え、私は母親がお菓子学校で学んで教えられる資格を持っていた事もあり、母指導の下で作ったせいかそれなりにクオリティも高かったため、私が作ったチョコレートケーキは他の部活の男子達からはとてもうらやましがられた、と後から聞きました(笑)

ザ・体育会系な私から、というのもなんだかギャップがあったようです。それが一番の思い出かもしれません。

ちなみに女子の先輩には一個ずつ包んでお渡ししました。

(最近高校でも厳しい学校がある事を知りました。私の学校は基本的に校則がほぼない、かなり自由な校風でした)

 

男子はこの日、自分からアクションを起こすような習慣はまだないため、男子達にこうして義理チョコを渡す習慣は続いた気がします。

それぞれのホワイトデーのお返しに何がくるのかも密かに楽しみにしていました(笑)それぞれキャラが出て面白いんですよね。

男子でもすんごいお菓子作りが上手な子がいて、その子のお返しは毎年特製チーズケーキだったのですが、それが美味し過ぎて、それ欲しさに義理チョコを渡す女子が多数いたのも記憶にあります。

私も渡して、ホワイトデーにもらってました(笑)

 

今思えば、学生でもできる、お歳暮みたいなもんだったのかもしれないですね。

 

女子同士のいわゆる友チョコ、に関しては、先輩の中には面倒だから友チョコはもらったらホワイトデーにお返しする、としていた人もいて、私も上級生になってからは面倒なので、もらったら返すシステムを採用しました。

後輩でもめんどくさがりキャラの子はそんな感じだったなあ。

もらった場合のみ返すシステムがある分、お歳暮よりも強制感がなくていいのかもしれない。ま、学生でそんな強制があったら辛いけれど。

 

大学生になってからはバレンタインという習慣はほぼ自分の中で消えました。本命もいなければ、友チョコを渡す文化があるような集団にも属さなかったので。

大体バレンタインに何かお菓子を作って持ってきてくれる子は、バレンタイン以外にも何かしら持ってきてくれていたりしてたり。

 

 

いよいよ本命、となった頃には、バレンタインを前にもう夫との結婚は決まっていたし、夫からそんなに甘い物が好きじゃない情報を手に入れていたので、バレンタインという行事はデパートでおいしいチョコレート売り場が展開される週間、というイメージとなりました(笑)

ちなみに、いわゆる本命を渡す夫とは、これまでこんな、ミニマムバレンタインを過ごしてきました。

 

 

1.夫の好きなものを作る日

甘い物が好きじゃないなら料理をするか。何か好きな物を作るよ、みたいな会話で始まりました。

ちなみに夫の好きな食べ物はカレー。そして鶏肉。なのでバレンタインは鶏肉がたくさんはいっているカレーです。かなり楽チンだし、お手軽ですが、相手が喜んでいるのでオッケーです。

 

 

2.デパートで自分が欲しいチョコレートを買ってくる日

ご褒美チョコってやつですね。いや、この時ばかりは本当に世界の珍しいチョコ博覧会を日本で開催しているんじゃないかってくらい、デパートの地下が楽しいです。チョコレートの勉強にも鳴ります。夫がチョコ好きじゃないのですが、自分で食べてみたくて買ってみたゴディバのチョコレートは本当に美味しかった上、ちょっとつまんだ夫も喜んでいました。

高級チョコを一緒に食べる日になっていますね。完全に。

 

 

そんなこんなで必ずしもこうしなければいけない、みたいな縛りを考えず、行事もミニマム化したり、場合によっては別に参加しない、みたいなスタンスにしてからは無理なく楽しめるようになった気がします。

 

昔は告白とかは基本男性から、みたいな部分があったところを、この日だけは女性からもいいよね、みたいな始まり方だった、みたいなコラムをどこかでよみました。

今では女性から告白するというパターンもかなり一般化しましたし、そもそも海外では男性から女性に花とかを贈る日でもあるっていうイベント。

男であれ女であれ、こういうこじつけがないと一歩が踏み出せない人にとっては、クリスマスに続きチャンスなんだと思うので、素敵な一日になることを願うばかりです。

 

 

結婚してから、一般的なお母さん像が完璧過ぎて驚いた

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kuro-yan.hatenablog.com

news.yahoo.co.jp

 

昨日も日記で書いてみた【あたしおかあさんだから】の詩の件。

なにやら作者が謝罪する事態にまでなったようですね。

ちょっと前にあったサザエさん問題もそうだけれど、時代にそぐわないから反対って主張するところまではありだけれど、創った人、生み出した人を否定するところまでいってしまうと、ちょっと社会主義っぽいような。

いつの時代も、何かを主張する、クリエイトして発表するということは心が強くないとできないのかもしれないですね。それこそ時代によっては死を覚悟しながら信仰したり、書いたりした人達がいたんですもんね。

個人的には謝罪まではいらなかったんじゃないかなあ、と思います。世間の声が個人に届きやすい世の中って言うのも考えようなんだなあと思います。

 

さて、はてなのトップにこんな記事が出ていました。

www.netlorechase.net

こちらの記事を読みながら、そういえば私の母親ってどんなんだったろ、と考えるきっかけをいただきました。

 

母はその時代の流れの中では、ごくごく普通の大衆に属するような属性の女性だったと思います。

高卒で事務で働いて、大卒の父と結婚後、父の転勤のせいもあって退職。その後は専業主婦で、私と弟、2人の子どもを育て上げました。絵に描いたような核家族像です。

唯一ちょっと一般的なイメージと違うのは、父側の田舎に住んでいたせいで、母側の実家の方が都会で、田舎のお婆ちゃん家、ではなく都会で電車にもさっそうと乗れるお婆ちゃん家、でしたが。

夏休みはおばあちゃんの家に言って、おばあちゃんと映画をみたり、プラネタリウムに行ったりするのが定番でした。カブトムシは自分の家の周りに死ぬほどいて、山菜やきのこがあるのが日常な私にとって、電車に乗るおばあちゃんは格好良く見えました。

 

さて専業主婦の母ですが、結婚してから、うちの母は結構いいように手を抜いていた、ということが判明してきました。

 

《小学校に上がってから、朝食は自分で、ルール》

パンやごはん、おかずなどは冷蔵庫や食品置き場にあって、朝は基本的に自分で用意して自分で食べるルールでした。

弟が幼稚園を卒園するまではわりときちんと作っていたりしましたが、小学校が遠過ぎて、私が弟よりもだいぶ早く家をでるようになったこと。

弟が小学校に上がる頃には、小学3年生の私が簡単な目玉焼きくらいは作れるようになっていたこと。

きちんと使い方を学んだ上でのルールだったので、特に困る事はありませんでした。

聞くと、母は朝が弱いらしく、もっと寝ていたかったから、というところが大きかったようです。

休日は父と9時すぎくらいまで寝ていたように思います。ただ、私も弟も毎日の朝食ルールによって自分でごはんの用意ができるようになっていたので、自分たちで用意をし、朝7時からの日曜日のアニメを見ながら食べていました。

 

 

《中学校、朝練したいのならお弁当は自分で、ルール》

中学生になると、私はもっと早起きになりました。地形的に危ないという理由で自転車通学が禁止だったため、徒歩一時間の通学路。雨の日も雪の日も歩いていました。

最初はお弁当を作ってもらっていたのですが、部活の朝練がしたくて早く行きたいと言ったところ、材料などは用意するから自分でやって欲しい、と母はギブアップ。

これを言われる前に、母が用意した弁当の中身が全部ミニトマトだったり(多分畑で豊作だったのでしょう)、という朝に何かをする限界があったのでしょう。

人には得て不得手がある、ということと、母自身から「お母さんは朝が苦手だから協力して欲しい」という話し合いがあった上で、私自身がそれでも朝練がやりたい、という意欲を持っていたので、朝食、そしてお弁当も自分で作るようになりました。

これは後に大学生になったあと、そして社会人、結婚した後までつづくいい習慣になりました。(私は職場で必要がない環境だったのですが、夫があったら嬉しい、でも無理はせず、の環境だったので作り続けています)

 

 

《夕ご飯はお父さん、休日は大体そう》

我が家はお父さんが料理をする家でした。父の方が料理上手で、魚のさばき方は父に教わりました。(煮物とかは母ですが)

なので夕ご飯は大体父、ただし、片付けが一切出来ない父だったので、洗い物や部屋の掃除などのその他の家事は全て母でした(まあ、専業主婦ですもんね)

そんな洗い物も、食洗機が登場してからは我が家にいち早く導入されたパソコンを使っていろいろ遊んでいたようですが……

kuro-yan.hatenablog.com

遊んでいるといっても、それがスキルとなってフリーな仕事を獲得していった訳なので、とても生産的ですよね。今思えば。

 

そんなこんなのエピソードが、結婚してから当たり前ではない事が分かりました。

ごはんもみそ汁も自分でよそうルールがあった我が家。好きな量を自分でよそった方が、量が自分に合う、みたいな感じでそうでした。ごはんが足りなければ自分でフライパンを握って作り足すことも。材料は冷蔵庫にあります。

結婚してから、こてこての九州男児がいる家庭で育った夫に、ごはんをよそって欲しいと頼まれたときは死ぬほど驚いたと同時に、ドラマみたい!と最初は楽しく「はい、あなた」とか言ってやっていました(笑)もう飽きましたけど(笑)

今では夫が私に合わせてもらっています(笑)たまによそってあげるけどね。

他にも夫の母の、母としての完璧さには頭があがりません。教科書のようです。

箸置きをちゃんと使う、とか。ランチョンマットを一回一回違う柄にする、とか。料理の品数は3品以上死守、とか。

私なんて、汁物に具材たっぷりにしちゃったら、夕飯米と汁物のみってふつうにやります。(具材は豪華です。豚肉、人参、ほうれん草、白菜、などありものの野菜をどんちゃか入れます。そして味噌があれば大丈夫)

あれですね、宮沢賢治の『雨にも負けず風にも負けず』に出てくる、玄米なんちゃか、みたいな食事風景です(笑)

かと言って、私に強制してくる事はないので私自身も家では楽に、夫の実家に行ったときは、「ドラマみたい!」と文化の違いを楽しむようにしています。

 

 

母の上手いズボラエピソードは他にも色々あったような気がしますが、基本的にはできることとできないこと、をはっきりと主張する、ということが大事なのかもしれません。

また、父が家庭の事情によって実の母親ではなく乳母的存在の女性に育てられた事から、母親神話が嘘である事を体感していたのも大きかったのかもしれません。

というか、昔の貴族ってみんな自分の母親に育てられていないけれど偉人はいっぱいいるじゃないですか。そんなもんだと思います。母親がいた方が良い、ではなく、大人がいた方が良い、となればいいなと思います。

(いなくていい、という事ではないと思います。身近に大人があんまりおらず、一人でいた子どもはやっぱり若干語彙力が低めの子も多いようです。両親が積極的に本等を与えていたらまた違うようですが、放っておかれっぱなしだと会話をしないので知らない言葉が多いようです。そういう子は漢字の読みも苦手だったりします)

 

母の沽券のためにも書き記しますが、部活動の練習試合の送迎はほぼ毎回欠かさずに参加してくれていました。他に共働きで忙しくて送迎が出来ない人もいた中、専業主婦の母なりにできることをがんばってやってくれて私を応援してくれていたのです。

できること、できないこと、子どもの発達具合とか、アレルギーとか、色々条件は違うかもしれませんが、子どもは子どもで結構やればできるもんだし、私も弟もそれなりに健全に育ちました。

私にはまだ子どもがいませんが、できたら多分、母のようにそれなりに手を抜くのでしょう。もちろん抜けないまでが大変なのでしょうが、世の中の母親像がもっと気楽な物になったらいいな、と思います。

 

最後によく言われる子育て四訓でしめたいと思います。

子育て四訓

 1.乳児はしっかり 肌を離すな

 2.幼児は肌を離せ 手を離すな

 3.少年は手を離せ 目を離すな

 4.青年は目を離せ 心を離すな

子育て、であって母親四訓ではないんですよね。世の中のお母さんが少しでも気楽に楽しく子育てができますように。

 

 

 

【あたしおかあさんだから】より、教育界隈に「がんばる姿で感動したがりな人」が多い理由について考えてみた

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www.huffingtonpost.jp

銀行、建築、食品、IT……一口に社会人、と言っても様々な業界があって、その業界ごとにいる人の雰囲気って違う。

というのは社会人になってから強く感じる事の一つ。

業界内でも部署にとるところで誤差はあるものの、それぞれの業界によって、カラーは絶対ある。

 

というのを考えさせられたのは、最近ネット上で話題になっている

「あたしおかあさんだから」という詩。

色んな人の意見を目にしながら、その中で様々な方が言っていた、学校を含む教育界隈ってこういうがんばる姿で感動したがりな人が多い、ということについて、確かに。と思いました。

教育関係の人と出会うと、大体過程が大事で、結果は二の次。そんなんばっかじゃ社会でダメだよ。という声もよく聞きます。実際そういう人結構いるし、私自身、そういう人と会うと、えーそうじゃないのにな、とか。そこは結果もきちんと追わないと、とか思わされる事多々あります。

なぜそういう人が多いのか、考えてみました。

 

 

そもそも、がんばる姿を褒めてもらう以外の報酬がない現場

民間や私立はまた別かもしれませんが。教育業界における大多数をしめるであろう、公立の小学校、中学校、高校の先生達。

中学校の部活の顧問問題、からご存知の方も増えてきたようですが、公務員の中でも学校の先生達には残業代というものはありません。

けれどもここ数年、子ども達に教えなければいけない内容、というものは減る事はなく、増えています。

いや、ゆとりじゃん。とか思うかもしれませんが、例えばパソコン関係(情報)、英語、そしてこれからはプログラミング。教科以外だと、様々な行事。今の学校業界、行事がない月はほぼないそうです。これってやりたいと自ら増やす先生よりも、向こうの学校ではやってたのになんでこっちはやっていないんだ、という保護者からの要望によるところが大きいのも実情のようです。

細かいようですが、お箸の使い方や鉛筆の使い方。年配の教育関係者に聞いたところ、最近はできることできない子の差が激しいのだとか。

家での差も大きい分、幼稚園、保育園でも年長さんになると園内で補う形で小学校の仕組みを取り入れたりする場面も増えてきているようです。

そんなこんな、増えているのに、じゃあ何を減らしたのか。いや……何も減っていない。

そんなブラック企業、いくらでもある、と下を見れば切りがないですが、そのブラック企業と同じような環境の中、モチベーションは報酬でなければ過程を褒めてもらうしかない。

という現場から、学生のときはさほどではなかった人も、そういう傾向になっていくのでは、と考えました。

それなりに勉強ができていて大学でもがんばって単位を取らないと教員免許って取得できないですから、学生の時点では比較的真面目で勉強もできる人が多いのだと思います。しかも人前で話す度胸もある。今や人手不足気味な民間でそれなりのお給料がもらえそうな人でもその業界に行く、というのは情熱がないと簡単には選べないと思います。

(そういえば一昔前には、でも、しか先生っていう言葉がありましたね)

 

 

教育業界がほぼボランティアで成り立っている

お金ももらえなければ、もちろん雪が降って電車が遅れそうな前日は自腹でホテルに泊まる事さえ推奨され、偉いとされる。

仕事の為だけなら正直やってらんねえって素直に思えますが、教師の相手は子ども。しかも基本、みんな子どもは大好きでこの業界に入ってきます。

自腹とか嫌だけど、子どもに罪はない……そんな思いからほぼボランティア的に活動する幼稚園、保育園、小学校、中学校、の先生は多いように思います。

「子どものためだから」

というのが全ての教育関係者への免罪符のように、お上、地域からふってくる。うーん。怖い。

そしてそこまでがんばったら、どうにかして自分を肯定しないと自分自身が精神崩壊してしまう、故の、がんばる姿で感動したがり、につながっているのでしょうか。

 

 

いざ、子どもを目の前にすると、過程も褒めてあげたい。

子どもがいる方は、分かるーそれ。と言う方が多いような。いざ子どもを目の前にすると、頑張っていたらそれを褒めてあげたくなります。

フルマラソンで最後まで走りきってラスト100mまできたけどフラフラな選手に応援するときの感情と少し似ているかもしれません。自分の事じゃないけれど、頑張っている人をみると応援したくなる。

何でもかんでも過程を褒めればいい、という癖は変だな、とは思いますし、時と場合によってきちんと結果も重視したいものですが、教育関係者、というのは出来ない状態にあった子ども、という存在と二人三脚のようにがんばって、100パーセントの結果が出る事もあれば、50パーセントだったり、まれに目標に対しては0パーセントだったりします。

でも、本気で頑張った人(と場合によっては自分も相当頑張っている状態)に、冷静になれればいいのですが、人間中々難しい。

しかもそれが一人ではないし、一年に一度というわけでもない。たくさんの人が相手で、さらにそれは毎日のように起こる。

0であってもエジソン的な、失敗する方法をみつけたんだよ、の言葉をかけるのがいいのでしょうが、考えたりするうちにいろいろねじ曲がってしまうのかもしれませんね。

大人相手には結果も求めて欲しいとは思いますが。

 

 

過程を大事にしたり、子どもという柔軟な存在を目の前に働く教育業界の方はある意味芸術家とも似ているのかもしれませんね。

もっとこんなものがあれば教育にいいのに。

もっとこういうことができれば教育にいいのに。

すごく大事な考え方で、そういった思いの先に生まれた工夫で日本の教育って成り立っている。授業研究という文化は日本独特だそうです。

そう、先生方って年に一回(サボっている方もいるそうですが)授業を研究して発表しているんですよね。ある意味全員学者なのです。

うーん。たしかに大学の先生ってちょっと芸術家というか、浮世離れしているというか、机上の空論というか。

その机上の空論から大発見が生まれたりする訳ですが……

とはいえ、日本って今相当な赤字国家なので、日本という国が赤字である以上、公の機関というのは苦しくなりがちだという事実も抑えてほしいな、とは思いますが。

 

 

というわけで、教育界隈に「がんばる姿で感動したがりな人」が多い理由について考えてみました。

個人的に感じる、エリア別理不尽との対処法

 

curazy.com

ツイッターで発見してからちょくちょく見ているこのお方のマンガ。

絵柄等、賛否両論様々あるようですが、私は結構好きです。

 

色々なマンガがある中、『理不尽な人と出会った時の対処法』というものが、強く共感できたのと同時に、これはエリア別に特徴がある気がしてならない、と感じました。

エリア別とは言っても、これまでの私の短い人生でお会いした人に限るので母数は少ないですが。

 

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まずこの作者、さわぐちけいすけさんの対処法

理不尽とは、もはや災害であるから逃げるのが良い(というか逃げてよい)

頑張らなくていいよ、という意味かと思いますが、私は強く共感するとともに、東北人ならではの対処法っぽいなあとも感じました。

(この作者さんは東北出身のようです)

私自身も長年、この逃げるという手段を多用して生きてきました。理不尽や相手がやいやい怒りを露にしている状況は、基本的には災害。ありますよね、自分が特別悪かった訳でもない、自分に原因はなくても怒られる時。

私のスタンスとしては基本的に素直に聞きます。明らかに自分に原因がなく、さらに相手が怒りに燃えているときは、傾聴するというよりは、聞いているようで言葉を右から左へ流します。

(昔、そんな芸人いましたね。ムーディー勝山。こういう時、自分は積極的にムーディー勝山になりきります)

けれども関東に出てきてからは、これってやり過ぎるとよくない面もあるんだなあ、と考えさせられる事もしばしばありました。

というのも、東北人があんまりしゃべらない、自己主張しない、意見しないっていうスタンスが、ここから育ってしまっているのではないか、と感じるからです。もちろん理不尽なときは逃げは大事。これは大前提ですが、いざという時や、みんなで課題解決に向かっているときは積極的に自己主張も大事にする癖も付けた方がいいな、と思いました。

 

 

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こういう時に真反対の性質として例に上がるのが関西人。

関西の人は、理不尽にも真っ向から立ち向かう人が多い印象があります。もちろんおとなしいかたもたくさんいますが、基本的に理不尽なできごとを災害、としつつも、立ち向かったり、反撃の機会を伺っていたり。

転んでもただじゃ起きない精神なのでしょうか。逃げたとしても、必ず後で自分の利は取る。そんな気概を感じる方が多いような気がします。

理不尽という災害の大嵐が来た後に、実はこんなところからお宝がでるんでっせ、へっへっへ。

と言わんばかりのお得情報を、彼らから吸収させてもらうこともしばしば。逃げても、ただじゃ逃げない。というがめつい精神がちょっぴり養われた気がします。

 

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意外とメンタルを崩しやすい関東の人たち。

尊敬するほど、逃げないし、耐える人達に見えました。

(東北人も耐えるときは耐えますが)

とにかく逃げない人が多い印象。かといって、関西の人程反撃や、後から利益回収的な行動も少ないような気がします。

見た目も行動もスマートで、上京して来たばかりの頃は、心底尊敬しました。

基本的に人口密度が高い場所で育っている人が多いせいでしょうか?

ある意味では人の間で生きる、ということに気を配れる人が、田舎よりも多いような気がします。

そのせいか、精神が疲れている人が多い印象もあります。

上京するまで、都会の人が山とか田舎にきたいと思う気持ちが全く分からなかったのですが、今なら分かります。

今では私も定期的に実家に帰りたくなります。

 

 

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虎視眈々としている印象なのが九州の人。東北と同じくらい、というか距離的には東北より都心部から離れているから、東北人と同じような気質かと思いきや、全然違いました。

九州の人たちは本当にみんな熱い人達が多いです。さすがは明治維新を起こし始めた地域、とでもいうのでしょうか。

それでも関西の人程ぐいぐいもしていないけれど、いつでも狙ってる。感半端ないと思っています。理不尽が降ってきても、逃げる姿勢は見せつつも、形勢逆転をいつも狙っているような印象です。

一緒くたにして申し訳ないですが、四国の人も似たような印象の方が多いです。とりあえず同じ田舎なはずなのに、東北の人だけどうして逃げ気質なんだろうって思うくらい、転んでもただじゃ起きない精神がある気がします。

 

 

 

終わりにも書きますが、これは完全に私の私見

各地域の人達のいいとこ取りをして、賢く、強く、自分らしく生きていきたい。

 

美味しくて楽しかった、もう一度行きたい場所。ベスト5【国内編】

 

お題「もう一度行きたい場所」

お題スロットを回してみました。

「もう一度行きたい場所」ということで、国内も海外も合わせるとありすぎるので、一旦国内で絞って考えてみました。さらに、一つになんか絞れないので、ランキング付け。日本も素敵な場所、いっぱいある。

 

第5位《マイ自転車を持って、一月ほど籠りにいきたい、長野県松本市

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昨年単身赴任の友達のところに遊びに行った、長野県松本市。写真は松本市からは離れた場所にある渓谷ですが......

松本市内の街並は、海のない鎌倉。お店も小道もお洒落で、クラフトビールのお店とかカフェとか、いちいち可愛い。それも多分長野の中では物価が高いのだと思うのですが、東京から行くと気にならない。

しかもサイクリングロードや、峠道なんかがすごくキレイで、自分の自転車を持っていって、夏の間とかしばらく滞在したいと思いました。松本を拠点に、様々な場所をサイクリングしたい。

スーパーとかも充実していて、街中には綺麗なお水が流れていて、短い期間で別荘感覚で「住む」という視点からもポイントが高めでした。

(実際に住民票を移して、とまでは思えませんでしたが。鎌倉と一緒で昔から住んでいる人達との色々が面倒そうな気もしたので)

海鮮の物はありませんが、お水と空気が美味しいのでなんとかなりました。今は物流もしっかりしてますしね。

 

 

第4位《行けなかった島がある。しまなみ海道(広島・愛媛)》

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これもまた昨年行ったしまなみ海道。こちらも今度はマイチャリを持っていきたいし、行けなかった島にも行ってみたい。海が穏やかなせいか、風も穏やかで走りやすかった。

宿泊した民宿のごはんがすごく美味しかったのもまた行きたい理由の一つ。東北育ちの私にとっては珍しい食材・調味料が多く、それもまた面白かったです。

桜、新緑、紅葉シーズン。どれも素敵そうなので季節ごとに見える景色を制覇したいですね。

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第3位《あそこの居酒屋は美味し過ぎて教えたくないくらい。大分県別府市

学生時代、自転車旅行で行った九州。最後に立ち寄ったゴール地点が別府市でした。温泉で自転車での疲れを癒して、入った居酒屋が忘れられない。酒も酒のアテも美味しい。あのお店にもう一度行きたい、と忘れられないお店がある。

www.hotpepper.jp

ここ。教えたくないけれど、本当に美味しかった。お腹空いてたからかな。あとは色んな梅酒がたくさん置いてあって面白かった。次また行ったら絶対リピートする!

温泉自体は別府も良かったけれど、泉質は湯布院の方が好みかも、と思ったり。湯布院と別府は近いので、また温泉巡りにいきたいなあ。

 

 

第2位《大人の教養を身につけた、空いているせいかみんな優しい。愛知県瀬戸市

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二人暮らしを始めたばかりで、いいお茶碗が欲しいと思い立ち、関西方面車旅行を計画したときに組み込んだ瀬戸市。夫は、ええ?瀬戸物?それって楽しいの?と懐疑的でしたが、GWなのに空いていたせいか、模様の意味や値段によっての違いを説明してもらってお気に入りのお椀と湯のみを購入。ただのおっちゃんの商売上手だったのかもしれないけれど、模様の意味なんかはとても勉強になりました。

行くたびにお気に入りを買ってきて、ちょっとずつ家のお皿をアップデートしていきたい。やっぱりいいお皿に盛りつけると、料理が十倍増しで美味しそうに見えるんですよね。

 

 

第1位《まだまだ行き足りないし、夏以外の時期にも行ってみたい。北海道》

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堂々の第1位です。一番長い滞在もしているし、回数的にも行っているはずなのに、まだまだ行き足りない。海の幸も山の幸もおいしくて、そして安い。さらに景色はきれい。そして小麦を作っているからパン等の洋物も美味しい。

こんなに良い場所って他にないと思ってしまう。沖縄も行ったけれど、私は沖縄より北海道派でした。沖縄も良いところなんだけどね。もう一度、と言われると北海道を選んでしまうよ。

 

 

改めて並べてみると、沖縄がランクインしていなかった。

というわけで、美味しくて楽しかった、もう一度行きたい場所。ベスト5【国内編】。気が向いたら【海外編】もやります。

 

 

『意識が高い』はもうポジティブな言葉に戻れないのなら

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意識高い、って言う言葉。意味そのままに捉えたら、日本語を習い始めたばかりの外国の人がその意味のまま理解したら、すごく賢い、いい言葉なはずだけれども。

 

残念ながら今日の日本では、そういう意味じゃない。

 

意識高い(笑)が後ろにつくくらい、ちょっと変。おかしい。方向性間違っている。みたいな意味合いで使われている。

toyokeizai.net

四季報でもこんなにこき下ろされる始末。

記事の中の、『「意識高い系」の研究』(文春新書)を上梓した古谷経衡氏は警告する。とあるところをみると、ここでの意識高い系とはこういう人らしい。

(1)自分のプロフィールを誇張する。

(2)SNSで意識の高い発言を連発する。

(3)人脈を必要以上に自慢する。

(4)学生団体を立ち上げて前のめりに活動する。といった特徴がある。
一見、行動力があり、優秀に見える。だが、中身は薄く、行動が空回りしていることが多い。

 

確かにいるいる、こういう人〜

と自分も思うけれども、教育関係に携わってきたせいか、とりあえずやるべきことが分からず、もがいている人をみると、適切な人を紹介したり、チャンスになるような言葉を贈ったりしたくなる。(1)〜(4)って、デバイスが変わっただけで、中学生や高校生にもいるし、もっとミニマムな話しに戻せば小学生にもこういう子いる。

(けれどもそう言う話を聞いているようで聞いていない、みたいな人だったりするから、意識高い系(笑)ってなっちゃうのかもしれないけれど)

 

 

そんな私も学生の時、この言葉をかけられたことがある。

(1)〜(4)まで、見方によっては全部やっていた。本人としては必要以上にやったつもりはないんだけどね。

そして……結果として私が始めたプロジェクトで、私は当時自分の周りにいた同世代には散々嫌がられて、嫌がられて、嫌われた。変革は拒まれた。LINEグループから外された。けれども私が始めたプロジェクトを推進し続けて、今やとても大きなものになっていて、日本全国からその筋の人が集まるようになった。

当時は後輩からは喜ばれるものの、同級生達からの目は鋭く、もはやプロジェクトを止めたいとまで思っていたけれども、なんとか形になるまで続けて後輩に引き継いだその結果だった。

以降数年、その土地には戻らなかった。

けれども、そうやってプロジェクトが大きくなって、たくさんの人に喜ばれるようになった時、始まりを協力してくれた先生であり、今もそのプロジェクトを陰ながら引っ張り続ける方に、「はじまりは君の一本のメールだったんだよ」って言われて、それだけで報われた。

私はそのことについてFacebookを更新する事はなかった。意味ないって分かってたしね。

今でもFacebookを更新する事はもうない。どんなに面白いイベントがあっても、どんなに素敵な本があっても、それを誰かに伝えるという事で「意識高いね(笑)」って言われる事が嫌になったからだ。

私は弱いのかもしれない。

だれかに批判されるのが嫌で、嫌で、隠す。

そういう言われ方しかされた事がないから、自分が何かをやろうとすると全ての行動がそういう「意識高い(笑)」に見えてしまっているのだろうと仮定して、行動する。

私はすごく人からの反応、というものを気にしているんだろう。

嫌われたくない、とか。八方美人なんだとおもう。

(嫌われてもプロジェクトを進めきったあたりは違うのかもしれないけれど)

そうしてFacebookに書き留められない日々の自分の思いは、こうして匿名のブログという形で消化されている。

 

 

そんなこんなでずっとFacebookの更新は止まっていた時、同窓会があった。あんまり気が進まなかったけれど、幹事の子に、ずっと会っていなさすぎてみんな会いたいと思っている、という言葉をかけられ、それなら、と参加した。

同窓会の参加は初めてだった。

 

みんなからかけられる言葉は優しかった。むしろSNS関連を更新しなさ過ぎて、みんなは私が生きているのかどうか心配した時期もあったし、あとはタグ付けされる事が多かったけれども、タグ付けする方々が謎の人物(どっかの社長さんとか、その筋では有名な人とか。その人がすごいだけで私はたまたま一緒にうつっただけなんだけど)ばかりで、けれども私からの記事更新は一切なく……

結論、すごく話しを聞きたかった、と言われて、私はちょっと救われた。

やっぱり、意識高いね、とは言われたけれど。

 

 

「意識高い」という言葉とはいろいろあったけれども、

これから、いわゆる真に意識高い人間になりたいとは思えないし、だからといって、こうして自分が考えている事や思った事を文字に直さずにはいられない。

ひ孫に向けて書いているけれども、(モチベーションの為にも)公にしたい気持ちは抑えられない。

 

 

「意識が高い」はもうポジティブな言葉には戻れない。けれども、私は「意識高い」を止められない。なぜなら、私にとって「意識高い」と言われるような行動は生きる上で必要な行動だからだ。

途上国で毎日水汲みに、5km先の井戸まで歩いている、という話しを、意識高いね、と思うだろうか。いや、思わないだろう。だって、水は必要な物で、そこまで行かないと自分や家族の命に関わるからだ。

私にとって、「意識高い」と呼ばれる行動は、私が生きる為に必要な行動で、危機管理意識から取る行動なんだと思う。

 

ポジティブな言葉に戻れなくても、私はこれからもやめられないのだろう。

けれども、できるかぎり人に迷惑をかけずに生きていきたい。

 

まだまだ葛藤は続きそうだ。

www.weddingpark.net

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ついにデビュー。御朱印帳、はじめました

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2018年のやりたかったことの一つ。御朱印集め。

きっかけは昨年、複数人で鎌倉に遊びに行った時、ちょっと年上のお姉様が何やら素敵な冊子を持って、それに何か書いてもらっている!見せてもらうとなんと素敵!それぞれの神社ごとに違う?え?それ見て比べてみたい!

旅行に行った先で神社に行くって割とあるあるかなあ、と思うのですが、こんな楽しみもあったら勉強にもなるしもっと楽しくなりそう。

 

集めたい、というよりは、神社等に行ったときに、お参りする以外の楽しみも増やしたい、みたいな不純と言えば不純な動機ですが、始めて見ました。

 

 

本日は節分の上に大安ということで、始めるにはいい日かなあ、と。

実際に行く前にはこちらの記事を参考にさせてもらいました。

とても分かりやすく、御朱印のあれこれを知る事が出来ました。

www.nek654-yurulife.com

 

今回はそのお姉様おすすめの神社に行き、いよいよデビューです。

教えてもらったのは、赤坂にある、豊川稲荷東京別院

www.toyokawainari-tokyo.jp

こちらでございます。

 

御朱印帳は今や文房具屋、Amazonでも買えてしまうのですが、お姉様のおすすめに従って、神社で購入……ではなく、神社で受け取ってきました。(買うって使わないんですよね)

 

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色々な柄が置いてあってどれも可愛かったのですが、これにしました。なんとも華やかです。そのうち外国の方とかの間でも流行りそうですよね。

海外でお寺とか宗教関係の場所に行くと、現地の人だけの入り口があったり、外国人にはかなり敷居高めになってたりする所も少なくないのですが、日本では対応が日本語なだけだし、案外こういう宗教への入り口って門戸が広いのかもしれないです。

 

お参りをして、この御朱印帳を受け取ってから、御朱印を頂きにいったのですが、お金を納めるだけですし、やり方だけ浸透したらそのうち外国の方にも普及しそう。

 

実際に受け取ってみると、御朱印はなんだか強そうでした(笑)気分としては、オーキド博士からポケモン図鑑をもらったような感じです。(ごめんなさい)

 

今回検索をしてみたところ、結構御朱印巡りって流行っているみたいですね。

そのうち御朱印を巡る桃鉄的なアプリゲームが出てきてもおかしくないんじゃないかって思いました。歴史やその土地の文化の勉強にもなるし、案外良いかも。

 

 

最後に気になっていたのが、

御朱印って集めてどうするの?っていうところです。

matome.naver.jp

 

こちらの記事によると、家では神棚保管。もしくはそれに準ずる場所

我が家は天井まで高いテレビボードの上が、方角的にもそれらしい位置なので、そこに飾りました。

スターウォーズグッズと共に、神々しく飾ってあります。

 

最後は自分が死ぬときに棺桶に入れて火葬してもらうのがいいようですね。死後の世界に行ったときのアイテムになるのでしょうか。ますますRPG感あります。

とにかく、集めに集めて子や孫に処分を困らせるような事体にはならなさそうなので安心して集めたいな、と思います。

 

 

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私のゲン担ぎ、新しい靴をおろす時には

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今週のお題「ゲン担ぎ」

 

勝負の前にはショパンを聴いてチョコレートを食べる

電球の替えの買い置きはしない

玄関のはたきに靴を置きっ放しにしない

改めて自分の生活をふりかえってみると、自分なりにゲンを担いでやってることが意外とありました。もう無意識レベルでやってます。

 

勝負の前、主に高校までの運動部時代はずっとこれでした。

勝負の前はショパン。しかもなぜか「木枯らし」

自分のプレーのリズムと何かシンパシーを感じていたのかもしれません。色々聴いた中で一番これが落ち着きました。

そんでチョコレートを食べておくと自分なりに集中スイッチが入りました。試合時間が長引いたときに粘れるしね。

 

電球の替えの買い置きは基本的にしません。

なんか買っておくと早く切れる気がして。今、リビングの4つの電球中、3つ切れているのでそろそろ買いにいこうかな......

 

玄関のはたきに靴を置きっ放しにしない。

これは風水だったかな。玄関は常に綺麗にしておいた方が、いいものがたくさん入ってくる。これは結構そうかなって自分の中では思っています。

綺麗にしておけるという事は、自分の心の中がちゃんと余裕があるってことでもあるので、そういうバロメーター代わりにもしています。

 

無意識レベルなので、観察したらもっと色々あるかもしれないです。

それから、これらのゲン担ぎは他にもやっている人が多そう。

 

 

そんな中でも私の家族以外でやっている人を見た事がないのが、

『新しい靴をおろす時に、トイレで魔法をかける』というゲン担ぎ

父方は誰も信じておらず、母と母方の親族がみんなやっているので、そっちから伝わっている事のようです。

新しい靴は朝におろす(午前中におろす)ということに加えて、

 

新しい靴を履く前にトイレに行き、

靴をもって、靴の裏をトイレの床に、とん・とん・とん

それから「いいことありますように」と一言。

こうしてから靴を履き始めます。

 

ショッピングセンターなどで靴を購入して、そのまま履いて帰りたいときでも、私は一度トイレに行って、このおまじないをしてから、履き替えてトイレから出てきます。

 

なぜなんでしょうね?

母に聞いても、おばあちゃんがそうだから。というし、

おばあちゃんに聞いたところ、悪いものから守ってくれるから、みたいなことを言われました。

そのいわれまでは分かりませんでした。

 

まだ同じ風習を持った人に出会った事がないので、もしも同じ事をした事がある人がいれば、どうしてそのような習慣が生まれたのか、知りたいです。

 

 

女子会で勝ち組扱いされる事が本当に戸惑う件について

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私は定期的に女子会に行く。結構仲が良いメンバーで、それなりに精神的にも自立をしているメンバーで、楽だ。

話題も恋愛だけにとどまらない。最近の政治経済情勢や、それぞれの業界の動向。最近勉強している事、など。自分たち的には自分たちが楽しいと思う事を話す集まりだから、特段自分たちでは普通の女子会だと思っているけれど、先日別の女友達にその女子会の話しをしたら、意識高い系女子会、と言われたので、そうなるのかもしれない。

 

とにかく、そんな堅い話しで盛り上がる女子会でもたまに恋愛の話しが出る。

お決まりの「最近いい人いる?」

の会話だ。

 

私はここからは聞き専になる。(聞く方専門、聞き手、などの意味)

だって既婚者だからね。

 

最近良い出会いはない、とか。今度合コンで会った人とデートをする、とか、友達でもなければどうでも良いような話しも、友達同士だから楽しい。楽しい。

というのも、私自身が分かりやすい女子会経験が薄いせいもあるのかもしれない。たまにそれぞれの業界の話しが出たりするから私も楽しいけれど、恋愛話しだけだったら、場合によっては飽きている。

あとメンバーが少ないのもいい。多人数との会話で私が対応できるのは多分四人が限界だ。

 

話しがあっちこっちに盛り上がった末、最年少の彼女が言った。

良い出会いが欲しい〜

お決まり文句だ。

 

私としては、時が来ればなんとかなるよ、と一言。

私もぜーんぜん恋とは疎遠だったけれど、なんとかなったし。

と元気づけるつもりが、彼女的にはそうには思えなかったらしい。

冗談まじりだし、彼女の事が好きだから、

きっと普段考えているうちの二割で、そこまで言わなくても良いよね、みたいな一言が思わず出たんだと思う。

それくらい、普段の彼女からは想像できない一言だった。

いや、くろやんさんに彼氏ができないはずがないですよ〜

みたいな一言だったと思う。

 

衝撃を受けたけれど、私はすぐさまそれ以上言っても仕方がない、と思い、へらっと笑って流した。

彼女だけじゃない、出会って仲良くなって、恋バナが始まって、私も全然だめだったし、と言うと、そんなわけないって必ず言われる。

 

 

女子会を含め、そんな彼女達との出会いは社会人になったあとだ。

学生時代全くモテず、デートさえしたことがなかった私、という存在を想像しがたいのだろう。

初めてちゃんとお付き合いした人がそのまま今の夫だ。

この字面だけみると幸せそうだが、夫とは私の大学卒業まで海外遠距離だったし、やっと二人でいられるようになったのは社会人になってから。

そして先に社会人として歩いていた夫が、その財力をもってして、モサく、ダサい私を変えていったのだ。

最初の頃と言えば、高田馬場で早稲田の学生がたむろするようなレストランでも超オシャレ過ぎて、緊張のあまり食いしん坊のくせにほとんど何も食べられない、という風になるくらいの田舎娘だった。

初デートでは、何食べたい?の質問にラーメン!と即答したのが気に入られたらしい。私は単純に、東京に来て、テレビでやってた有名なラーメン店に行きたい、みたいな発想しかなかっただけなんだけどね。

 

今思えば、いつも小綺麗な夫の隣にいる私は、彼女というよりも田舎から都会のお兄ちゃんのところに遊びにきた妹、っていう感じだったかもしれない。年の差もちょうどそれくらいだ。

 

彼曰く、私の良さは学生には分からない。というか学生のうちは絶対モテないタイプ、とまで言われた。社会人にウケるのが何なのか、社会人になってから恋愛をしたことがないし、既婚者となった今では、もう自分がモテるかどうか何て分からない。

 

けれどもずっと、モテなくて、彼氏もできない私、というのは確実に存在した。

男の飲みといえば、彼女持ちの男の相談に乗ってのサシ飲みだ。彼女も嫉妬しないほどの女だった。相手が私だと、ちょっと安心されてたくらい。それは私が女性側ともすぐ仲良くなれるくらいだったせいもあるかもしれないけれど。

きっと敵意とか、一切感じられないくらい女らしさ、女臭さを発揮していなかったのかもしれない。

 

たまに彼女もいない男友達に、二人での飲みに誘われて、その当時最大限におめかしをしてドキドキしながら話しをしたこともあったけれど、結局、そいつが好きになった子にどうやってアプローチしよう?という相談ばかりだった。

別に友達として大切だったから、真剣に話しも聞いたし、その後上手く言った話しを聞いて嬉しかったけれど、どこか寂しい自分もいた。

 

あきらめて、卒業したらすぐに婚活をしよう、と方向性を決めていた矢先、今の夫と出会った。

すぐに海外にいっちゃったけど。

 

大学までの学生時代の恋愛遍歴をみるだけなら、私は完全にいわゆる「勝ち組」ではない。

 

 

けれども割り切らなければいけない。

女子会における恋愛話、というのは答えや結論をつけてはいけないものなのだ。

そこに存在できるのは「共感」のみなのだ。

それは頭では分かっているつもりだけれども、ついつい口に出してしまう辺り、私はやっぱり女子会があまり向いていないのかもしれない。

 

同時に、最近Twitterで流れていたある一言が頭に思い浮かんだ。

「なんの苦労もしていない人」が存在していると思っている時点で、想像力が弱すぎる。

今調べてみたら、あの社会派ブロガーちきりんさんのお言葉でした。

 

私はいわゆる勝ち組なんかじゃない。

色々あって、がんばって、きっと勝つべくして勝てた。

そこまでにあった様々な出来事や自分の頑張りは、想像力のない人に渡さなくてもいいんだ。なんて、勇気がでてきました。

 

そう思うと、「勝ち組」「負け組」なんていう言葉も、想像力の問題なのかもしれない。本当は勝ちも負けもないのかもしれない。

 

 

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目標まであと132本。今月観た18本の映画達【1月のまとめ】

 

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2018年の1月も今日で最終日。立てた目標はこまめにフィードバックしよう、が今年の行動目標でもあるので、年間150本映画鑑賞を中心に今月の振り返りをしてみた。

【今月鑑賞した映画たち、18本】

魔女の宅急便      イリュージョニスト

ゲド戦記        グスコーブドリの伝記ますむらひろし原画ver)

ぶどうのなみだ     海月姫

キャロル        英国王のスピーチ

JAZZ大名         ルパン三世カリオストロの城

BANK JOB                         南極料理人

THE FIRM                          コララインとボタンの魔女

イヴの時間       ピッチ・パーフェクト

パコと魔法の絵本    シャニダールの花

 

人に勧められたり、昔に観たのを再鑑賞したり(去年から100本チャレンジしているので、去年鑑賞したものとは被りなし)なのでジャンルは様々。今月はちょっとアニメ映画が多かったかな。

初鑑賞でかつ、想像よりも面白かったものを強調してみました。

 

イリュージョニスト

 売れなくなったマジシャンと田舎で暮らしていた少女が出会うところから始まるお話。ほとんど会話がないアニメーションでしたが、心に響く物がありました。モノがあふれる現代に生きているという事はどういうことか、色々考えさせられる大人向けなアニメーションでした。

 

BANK JOB

イギリスで実際に起きた事件が元になっているお話だそうです。様々な偶然が重なりつつも、絶妙なバランスで全ての事件が絡み、繋がっていく瞬間は爽快さを感じるとともに、こうしてすごい事件が起きてしまったのか、という驚きがありました。映画が終わった後、THE BANK JOBというタイトルが含む意味が色々あったことにも気がつかされ、本当に面白かった。まさに、事実は小説よりも奇なり。 

 

THE FIRM  

ハーバード卒の優秀な弁護士が就職した先は、素敵な田舎でのんびりとして、妻と一緒に心にゆとりがある生活……のはずが、実はとんでもない職場だった。FBIも巻き込んで、主人公が知的に危機を切り抜けていくのが面白かった。アクションも良いアクセントなくらいの量で、大満足。

 

イヴの時間

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 前に日記で書きました。

 

 

なんだかんだ、良いペースで観る事が出来ていますが、油断は禁物。大抵1月ってやる気に満ちあふれているから、何でもがんばっちゃうものです。大事なのは継続。ということで来月、再来月がとても重要だと、気を引き締めて二月を迎えたいものです。

 

他の目標はどうだったかというと、

読書冊数はあと7冊及ばす、目標は未達

オンライン英会話を含む語学学習に関しては、今月はどのように学習をしていくかの計画に充てました。2月からいよいよ本格スタートです。

 

その他、今月特に考えた事と言えば、はてなブログのpro化について。

無料版でも全然満足しているのですが、私にとってpro化するメリットは、書いていた日記達が突然消えてしまうかもしれない、という危機からある程度守る事が出来るという事。

なにせ私の目標はこのブログの駄文達を、少なくともひ孫の代まで残す事。そのうち選び抜いた記事だけでも書籍化してひいおばあちゃんからのプレゼント、みたいにして残そうという壮大な計画を立てていますが、それで興味をもったひ孫に記事を色々読みあさってもらうのが最終目標。

そのうち独自ドメインで管理はした方がいいな、とかって計画していますが、その為には私が死んだ後でも管理がしやすい状態。

すなわち、ドメイン代とプロ代金くらいはブログで稼げている状態が一番好ましいな、とか思いました。pv数が伸びたらそのうち考えたいと思います。

 

ありがたいことに、名もなき私のブログに読者登録をしてくださった方が138人(2018年1月31日現在)、ブックマークをつけてくださる方、スターをつけてくださる方、そしてコメントをくださる方もいらっしゃる状況。

ひ孫に読ませる為に、あと半世紀は続けたいと思っている私にとって、モチベーションの源になっております。

 

ただの日記ですが、温かく見守って頂ければ幸いです。