くろやんの日記

思考・映画・ごはん・旅・自転車・読書・ライフハックのメモ帳

MARVEL映画は映画館でみたい

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最近、映画価格の高騰に驚いている。

駄菓子屋以上のインフレが起きているのではないかと私は疑っている。

 

もちろんクオリティが上がっているので、価格高騰に異議はない。

価格高騰に異議ありっと元気に主張したいのは日本の新幹線料金くらいだ。超物価が高いスイス(ついでに一人当たりGDPも超高い)より高いってヤバいでしょ。

 

最近の映画は飛び出してくると思っていたら、IMAXとやらで音質はめちゃめちゃリアルになったし、ついでにものによっては水や風も吹き出してくるようになった。

もう、一つのアトラクションだ。2時間のアトラクションに乗ると思えば、妥当な価格だと思うのだけれども、もはやこれまで通りのノリで映画館に行くと、消耗感が半端ない。終わった後は映画の内容を語り合うよりとりあえず休みたい。それぐらい、すごい。

 

こんな進化した映画館でみるアクション映画はもう半端ない。

IMAXや4DXは、ハリウッドで作られたようなごりごりのアクションをみるためにあるようなもんじゃないかと思うくらい。

マーベル作品なんかはもう金曜ロードショーでみても満足できないかもしれない。

というかアクション映画は家庭でも3Dでみたい。

 

スパイダーマンホームカミング、なかなか面白かった。

 

 

机の上の彼

 

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特別なことはないはずの1日だった。

 

仕事から帰ってきて、安売りしていた豚肉が入った袋をキッチンに置いたとき、私は気がついた。

 

いつもと違う。

何かが違う。

家に誰かいる?

 

 

辺りを見渡して、すぐに気がついた。

いつも何も置かないダイニングテーブルの上に、クリアファイルが置いてあった。

 

私がいつも座る席に、丁寧に、ただそれだけが置いてあった。

 

ただのファイルだったら、きっと私は気にしなかった。

でも、何かただならぬメッセージを感じた。

 

そもそもテーブルの上に物を置きたがらない夫が、ただ1つ、置いている。

しかも私に向けて置いている。

ファイルが私を見つめている。

 

よくみると、

「あなたが決めることが、未来になる」

というゴシック体が、主張していた。

 

ごちゃごちゃと荷物が置いてあれば、それはただのファイルだ。

でも、きれいに片付いたダイニングテーブルの上に、私のいつもの席に、見えやすいように、ただ一つだけ置かれたファイルには、何かメッセージ性がある気がしてならなかった。

 

 

中身は?

ファイルに何か挟まれていないか確認するが、空だった。

 

今日の夫の帰宅は遅い。

その前に私は寝る予定だ。

それまでに、このメッセージの意図を解きたい衝動にかられた。

 

夫は、無意味なことはしない。

 

色がピンク色だから、私が使った方がいいと思ったのだろうか。

それなら、もっと雑多にテーブルの上におく。

わざわざかしこまらせて置いたりしない。

 

何か、ファイルに入れて欲しいものがあったのだろうか。

住民票、婚姻届、戸籍謄本。

それは先週、用意してすべて渡した。

また、必要になるなら、LINEにメッセージが入るはずだ。

履歴にそんな頼まれ事はない。

 

ふと、ゴシック体の文字を確認する。

「あなたが決めることが、未来になる」

 

 

そういえば最近、将来の夢を語り合った。

 

どんな場所でどんな生活を送りたいか。

どんな仕事をしたいか。その夢を叶えるために、現状のままでいいのか。

今、やるべきことは何なのか。

 

話し合うときの約束は、それは無理って絶対に言わないこと。

たとえ相手が、億万長者になりたい、とか。

宇宙人と友達になりたい、とか。

赤レンジャーになりたい、とか言っても。

絶対に言わない。

 

無理は基本的にはない。

20年や30年で、世界はがらりと変わる。

 

ガラケーは消えてスマホになったし、ビデオはDVDに、音楽はもう電子的なやり取りが主流だ。

VRでカメハメ波も出せるようになった。

 

未来を私達は予想しきれないのだから、無理と断言するのは傲慢なのだ。

 

その話をしたとき、私は将来のキャリアについて悩んでいた。

現状維持か、それとも挑戦するか。

 

挑戦するなら、いつ、挑戦するのか。

適切な時期はいつか。

そもそもそれは、自分たちの幸せにつながるのか。

 

紙に書出しながら、頭を悩ませた。

 

でも、あれほど悩んだ先週末を忘れて、私はいつもの平日を過ごしていた。

悩まない、それも自分の頭の中をクリアにする方法だ。

 

そんな、現実から目を背けてしまったかのような行動をとる私への、メッセージなのだろうか。

「あなたが決めることが、未来になる」

決断によって未来は変わる。

目を背けず、決断せよ。そう、私に伝えたいのだろうか。

 

粛々と自分の課題を振り返りながら、私は夫より先に布団に潜り込んだ。

 

朝、目覚めると夫はまだ寝ていた。

朝ご飯を食べようとテーブルを見ると、ファイルはまだ置いてあった。

しばらくあのまま置いておくつもりなのだろうか。

私への戒めなのだろうか。

 

夫は自分に厳しい。そして自分という存在に等しい妻の私にも厳しい。

昭和終わりの生まれのくせに、たまに昭和初期生まれの日本男児のような発言をする。

真剣に考えて欲しいのだろうか。

キャリアはある意味、生きる道だ。

決断をきちんとせよ、ということなのだろうか。

 

まだ休息時間を堪能している夫に、いってきます、と声をかけて私は仕事に向かった。電車に揺られながら、自分の未来に関する決断について、考えていることを文章にして、メッセージを送った。

これでファイルは役目を果たすだろう。

 

 

特別なことはない1日だった。

 

仕事から帰ってきて、白菜が入った袋をキッチンに置いたとき、私は気がついた。

 

まだ、ファイルがある。

ファイルはまだ私を見つめ続けている。

 

慌ててLINEをチェックする。メッセージは特にない。

朝の私の考えについて、グッドポーズのスタンプが押されただけだ。

頼まれ事もない。

 

私は何かを見落としている気がする。

なぜ、このファイルだけがこんなにも丁寧に鎮座しているのか。

なぜ、このファイルが昨日から私の頭を支配しているのか。

 

「あなたが決めることが、未来になる」

この言葉以外に、目立つものは特にない。

ファイルの色はピンク色。

でも私の好きな色は黄色。

 

早く夫に、聞きたい。

なぜ、こんなにもこのファイルは丁寧に鎮座されたままなのか。

 

そして夫が帰ってきた。

 

夫から真意を聞き出すとき。

い、ざ!

 

聞いたとき、私は机の上の彼の存在にやっと気がついた。

「あなたが決めることが、未来になる」

ゴシック体よりも大きくファイルに写っていた。

私は見つめられていた。

 

夫が言いたかったことは、

妻夫木くん、かっこいいよね。

 

 

どうやったらこの呪いが解けるのか

 

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暑い日に電車に乗って空いていると、クーラーがとても気持ちがいい。

気持ちがいいまま空いている席に座ると、目の前にとても大きな白い紙袋持った男性が座っていた。 

白い大きな紙袋に、大きくI forgot と書いてあった。

主張は大きいけれど、文字の色は灰色で、若干の謙虚さがある。

 

文字だけではなかった。小さい赤い風船の絵が、Iとforgotの間を飛んでいた。

 

男性の年齢は30代前半か、疲れ切った20代後半くらい。

スーツが身の丈にきちんと合っていて、ネクタイのセンスもいい。営業マンだろうか。

 

紙袋はペシャンコで、中身は空っぽのようだった。けれども、男性はビジネスバックを足元に置いて、I forgotの大きな紙袋を手に持っていた。

ただ、投げやりに持っているのではなかった。I forgotが前に座っている人に見えやすいように持っていた。

 

 

なぜ、こんなにもI forgotが頭から離れないのだろう。この場合、きっとI forgotはデザインだ。ただ紙袋に印刷された星マークとか、ハートマークとか、ネズミのマークとかと変わりないはずだ。

 

でも、なぜ、こんなにもI forgotと書かれたあの紙袋のデザインが忘れられないのだろう。

その辺の日本人が、New Yorkとか、Speedとか書かれたTシャツを着ていても、いつもなら気にせず通り過ぎてしまうのに。

その辺の外国人が、武士道とか、烏賊とか、ぎっくり腰とか書かれたTシャツを着ていても、電車が2駅も3駅も通り過ぎるくらいに考え込むことなんてなかったのに。

 

 

そういえば、前にも、忘れられない文字によるデザインと、出会ったことがあった。

 

場所はイタリア。そのあとに行ったスイスでも見かけた。

あまりにもたくさんの人が着ていたそれには、見たこともない日本語が書かれていた。

 

異様だった。

 

金髪美女からフサフサにヒゲを蓄えた老人まで。

その文字デザインのカバンを持っている人もいた。

人が集まる駅では、必ずその文字が目に入る。

 

こう書かれていた。

 

Superdry極度乾燥(しなさい)

 

大体が黒地に白、もしくは白地に真っ黒のゴシック体で書かれていた。

いや、この場合は描かれていた、となるのだろうか。

I forgotより主張は強かった。

見た目はもちろん、意味も。

 

極度乾燥までは何とか分かる。

そんな四字熟語ないけど、原宿あたりで最近誕生したのかもしれない。

 

でも、(しなさい)はどうして?

なんで、かっこで、囲まれているんだ?

どんな意味が隠されているんだ?

そもそも極度乾燥(しなさい)ってどんな状態?

 

すぐにネット検索をしたかったけれど、ポケットwifiを持たない旅だったので、フリーwifiがある場所に着くまで、悶々と考え続けた。

 

検索をかけると、答えはすぐに見つかった。

Superdry極度乾燥(しなさい)は、服のブランドだった。

スーパーグループという会社が作ったもので、しかもこのブランドのヒットもあってか、上場もしている。

 

そしてこれは、日本ではなくイギリスのブランドだった。

 

よくある、外国人による訳し間違え、から誕生したのかと思いきや、日本語を間違えてしまった訳ではなかった。

諸説あるが、発案者がSuperdryな日本のビールにインスパイアされ、文字を並べ、しなさいに()をつけてみたら、この文字列カッコいいじゃん、という具合に誕生したらしい。意図的に(しなさい)にしていたのだ。

 

 

ここまで思い出したとき、はっと気がついた。

 

だから私は、I forgotが忘れられないのか、と。

そして、この場合I forgotが完全に勝利していることにも気がついた。

I forgotはデザインそのものなのだ。

 

今回、I forgotは紙袋に書かれている。紙袋にお店のロゴが入っている大きな理由の一つは広告効果だ。

紙袋は人が持って歩くことによって、歩く広告になる。

 

広告ということなら、見た人の目に残らなければいけない。

そしてI forgotは私の目に残った。

 

意味としては残っていない。

「私は忘れた」

日本語に訳しても意味不明だ。

でもそれはSuperdry極度乾燥(しなさい)も同じだ。

文章としての意味なんてないのだ。

カリグラフィー的な美しさとも違う。

 

ただのゴシック体なのに、美しい。

これはこの文字列でしか完成されない、デザインなのだ。

 

そしてI forgotは文字列だけで構成されたデザインではなかった。

そう、忘れてはいけない。

Iとforgotの間には赤い風船が浮かんでいた。

 

そんなことを考えている間に、電車は終点についた。

乗り換えだ。

 

紙袋を持った男性はI forgotが描かれた大きな紙袋を折ることもせずそのまま持って立ち上がった。

I forgetという言葉が電車から降りていくとき、ああ、いっちゃった。と心で呟いていた。

心の具合は、うっかり風船を自分の手から離してしまい、空に飛んでいかせてしまった時と同じだ。

それはきっと、あの赤い風船のデザインの力だ。

 

Superdry極度乾燥(しなさい)といい、I forgotといい、ここまで私の頭を支配するデザインの力は、よくよく考えると恐ろしい。

 

きっとまた乗り換えて、降りる予定の駅で降りて、目的地に着いても、その日一日I forgotを超えるものに出会わない限り、I forgotについて考えてしまうのだ。

 

 

考えていた通り、目的地である夫の実家に到着し、義母とのお茶タイムが始まっても、脳内の5%くらいをI forgotが支配していた。たまにSuperdry極度乾燥(しなさい)も顔を出す。

夫の実家で飼っている猫のブラッシングをしている間もI forgotが頭をよぎる。猫は気持ち良さそうだ。

 

これは、あれだ、暑い日にビールのことをつい考えちゃう病だ。

暑い中力仕事をしていると、終わったらキンキンに冷えたビールを飲みたいな、とか考える。考え始めると、ビールのことばっかり考えて仕事を頑張る。

 

でも、ビールは消費した瞬間に満足するけど、I forgotはどうなるの?

買いにいかないとこのデザインの呪いは解けないの?

 

結局、家に帰ってくるまで、帰りの電車の中までも悶々とI forgotについて考えてしまった。

夕ご飯を作りながらも頭の中を流れる。もはや私の脳内CMだ。

 

ドアの鍵がガシャン、と鳴って、夫が帰ってきた。

おかえり、と出迎えて、私の開口一番はこれだった。

 

「ねえ、今日さ、I forgotっていう紙袋を見てさ」

 

私は忘れた、なんて嘘だ。

夫への広告効果も発揮して、I forgotの完全勝利だわ。。

 

たまにごく健康的に、死ぬことについて考えてしまう

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死ぬ、とはどういうことなのだろうか。

 

生きていると、ふと考えるときがある。

多分個人差があるから、5歳で考えたことがあるよ、という人もいれば、70過ぎても考えたことがない、という人もいるだろう。

 

思ったとき、誰に答えを求めただろうか。

小さいうちだと、親や周りの手近な大人に聞くのかもしれない。

大人になってからは、自分で自分に聞くのかもしれない。

 

私が死ぬ、ということについて一番最初に考えたのは、幼稚園の頃だった。

多分まだ、4歳か5歳だ。

 

死ぬとはどういうことか、という問いに、一度でたどり着いた訳ではなかった。まず、季節の巡りを見て、何回これは繰り返すのか、と考えたのが始まりだった。

 

桜が咲いて、暑くなって虫が出てきて、そのうち葉っぱの色が変わって、そして落ちて、雪が降って、サンタが幼稚園にやってくる。

これを繰り返して、生きて、生きた先に死がある。

死の先は?

ここから先は、聞いた人によって答えが全く違っていて、それでいてどれも自分の腑に落ちなかったことだけは覚えている。

 

 

次に考えたのは小学生のときだった。

イスラム教研究者が書いた、こども新聞か何かのコラムに書かれていたことが、自分に衝撃を与えた。

 

イスラム教では、生まれたときから死について考える。

日常生活のうちから死について考える。死について考えるから、死の恐怖から解放される。

 

こんな内容だった。

小学生の私にとって、死とは怖いものだった。

大体漫画の登場人物が危機に迫ると、「死にたくない!」と言うし、いろんな物語で出てくる地獄の様子は本当に恐ろしい上に、大体人間が地獄に行く話が多かったからだ。

 

あの頃より大人になった今でも思う。幼少の頃から何らかに敬虔な態度を取ることを習慣づけていなければ、小学生くらいだと、大体は死ぬのって怖いなって思ってるんじゃないかなって。

 

とにかく、死を毎日考えるなんて、恐怖を毎日考えるのと同じじゃないか、世の中には不思議な人たちもいたもんだ。と、当時は思った。

 

しかし、なぜかこの「死を考え続けること」は私の心に残り続けた。

中学生になっても、高校生になっても、「死を考え続けること」とはどういうことなのか、ふとした時に気になって、自分の中で悶々と考え続けた。

 

気まぐれに思い出すものだから、特に哲学者の本を読んでみよう、とか、様々な種類の宗教の勉強してみよう、とかは思わなかった。気がついて、気が向いたときに、私は死を考えていた。

 

死が生の先にある一つのゴールのように捉えて思考をしていたせいか、私には様々なものに対してゴールや目的を考える癖がついた。

 

振り返ると、どんなことに対してもゴールと目的を求めていた私はすごく傲慢な人間になっていたと思う。ゴールと目的だけを見ていては、その人にとってそれが正しいゴールや目的であるのか、見定めることはできない。

 

ただ、理不尽なお願いだけをする人間になりかけたところで、私の目を覚ましてくれたのは友人の母の死だった。

 

私が不用意な発言をしたり、失礼な行動をとったりしたときに、怒って忠告してくれる、大切な友人だ。もちろん怒られるだけじゃなくて、楽しいことも嬉しいこともたくさん共有した上で、ちゃんと注意もしてくれる友達だ。

お母さんも私がよく知っている人で、車で駅に送ってもらったこともあった。見かけによらず、元気な運転だったのを覚えている。

とても身近で、良くしてもらっていた分、遠い身内が亡くなったときよりも、喪失感があった。

 

私は、母をなくした友人を見て、目が覚めた。

死は確かに生の先にある。だから一つのゴールとしてみたり、死に向かって生きる、という表現に間違いはないのだろう。

 

ただ、友人の姿から、「死ぬ」ということには2つの視点があるのだと感じた。

1つは自分が死の主人公になる視点。もう1つは誰かの死をみる脇役の視点だ。

 

私はいつも、自分が死の主人公になった場合のことをたくさん考えていた。死んでしまったらどこにいくんだろう。死んだ先には何があるのだろうか、と。大体この問いは堂々巡りだ。そして大抵、自分が信じているものの先に、答えを自分で構築するのだ。

 

ただ、いつも一緒にいた大切な友人を目の前に、誰かの死をみる脇役にとっての死を、私は初めて考えた。友人は静かに受け入れていた。もちろん、亡くなった日はたくさん泣いたかもしれない。まだ、心のどこかに何かがひっかかったままかもしれない。

でも、人前および私の前に立つ彼女は、既にたくさんの感情を受け入れた表情をしていた。

終わった後は、手続き色々大変だったー、リフレッシュしたいわーと行っていた彼女と旅行に行った。表情はさっぱりとしていた。

 

自分が死の主人公になって考えるよりも、誰かの死から考えることのほうが、とても悲しいと感じた。

 

小学生の私とは違って、高校生の私は、誰かの死から考えることが怖いと感じた。そして、あのイスラム教学者のコラムの「日常生活のうちから死について考える」とは、自分の死のことだけじゃなかったことに気がついた。

 

それから法律上の大人になるまで、何度か死をみたり、聞いたりした。間接的なものも直接的なものもあった。身近な人もいたし、自分との関わりが遠い人もいた。

 

その度に考えた。死の瞬間が終わっても、その時のことをふと思い出してまた考えた。考えれば考えるほど、答えは単純な気がした。死について考えることは、死の準備をしているようだった。

明日、世界が終わっても満足なように今日を生きたか、という言葉を残した人は真理をついていると思った。

 

生まれてくる準備はお母さんがしてくれるけれど、死ぬ準備は自分でしなきゃいけないのかなあ。

今日も私は、ふと、死について考えている。

 

スターといいね!の違いが分からなくて

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私は毎年、6月が来ると「ああ、今年も半分が終わったなあ」と思う。

多分他にも思う人たくさんいるんだと思うけど、色んなことが始まる4月から数えると2ヶ月ちょっとしか経っていないし、ジメジメしてなんか曇ってて暗いし、特に何かが始まる感もないせいか、私の周りの人は大抵、「6月をそう捉えたことなかったわ」って言う。

多分夏休みが終わった後の9月とかの方が、今年も夏が終わって、だんだん終わりに近づいてくるなーって思うのかも。

とにかく6月に、今年も半分終わったわーって言う人は、私の周りにはなかなか見つからなかった。

 

半分終わったなーって思ったときに、夫婦共通の友人に指摘された一言から、私は日記を書くことを決めた。

もっと、思ったことを言った方が良い。

私は何か思っても自分の中で咀嚼して自分の中で終わらせてしまうことがとても多い。結果、こいつしゃべらないやつ、と結構たくさんの人に思われているようだ。

 

勝手に自己解決は時に人間関係の交通事故を引き起こす。いらぬ誤解、思わぬケガ、離しておけば起きなかったこと、が私の周りには結構あった。

 

しかししゃべろうとして私は気がついた。そうしゃべることがよくわからない。とりあえず自分の気持ちを出すのが下手なのかもしれない、と考え、毎日日記を付けることで自分の考えをきちんと言葉にできる練習をしようと思ったのが、ブログを書こうと思ったきっかけだった。

目標は毎日書くこと。1行でも良いから、来年の6月6日までとりあえず毎日書くことを習慣にすること。

さて、2ヶ月経ってみてどうか。

びっくりするのは、2ヶ月前は何を書けば良いのかさえよく分からない状態で、マジで1行で終わらせることもたくさんあったのだが、今は内容はともかく、結構な長文で日記を書くことができるようになってきた。

自分が進化している。

 

本題の現実世界でのしゃべりはどうか。

これもちょっとマシになってきた気がする。気がするだけだし、いや、わけわかんないことしゃべってるだけだよって思われるかもしれないけれど、元来偉そうなことしゃべっている人だって実は話の内容は大したことなかったりするし、しゃべりがつたなくても幼稚園児の方がめっちゃいいこと言ったりするんだから、私ごときが気にすることではなかったのかもしれない。

 

そんなこんなで続けてきた私だけれども、最近ずっと考えていることがある。

はてなブログを利用しておいてそりゃないだろっていう疑問だと思うけど、

 

スターってなんだろう???

 

なんか面白い記事にはたくさんスターが付いているし、Facebookのいいね!的なやつなのかな?くらいの感覚で、とりあえずこの記事おもしろい!って思ったやつとか、猫の写真可愛い!とか、このレシピうまそ!とかって思ったやつにポチポチつけていたのだけれども、実際のところよく分からない。

黄色い星かわいい!って思って黄色い星つけているけれど、たまにみかける赤い星とか緑の星ってなんなんだろう。いいね!にレベルがついたのかな?

 

とにかく疑問がたくさんだった。

疑問は聞く前にまず自分で調べる、ということで調べることにした。

 

はてなブログ スター 意味

とかで検索すれば良いのに、なぜかはてなブログだけで検索してしまった。

しかもオフィシャルサイトではなくWikipediaを開いた。

はてなブログ - Wikipedia

冒頭分を読むと分かる。なにこのかっこいいキャッチコピー。

はてなブログにはそんなかっこいいキャッチコピーがあったのか。

 

「書き残そう、あなたの人生の物語」

なんて日記にぴったりなブログサービスなんだろう。これからも毎日頑張ろうと思えた。

 

気を取り直して、スターについて調べた。

topisyu.hatenablog.com

なんと分かりやすい!

そしてはてなスター奥深い!そんな色々な使い方や機能があったのか。

紹介しているとキリがなさ過ぎるのだが、そもそもこのスターが必要かどうかを論じている方もいたり、スターって結構奥深いようだ。

実はFacebookのいいね!は必要かどうかも、ここまで熱くみんなで議論されているのだろうか。

 

前よりもスターのことが分かった気がするけれど、やっぱり私には、Facebookのいいね!機能と同じような機能にしか見えないや。

 

 

目に見えないものが一番こわいのよ

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大人になると、楽しいことが増える。そして楽しいことの分くらい、自分が自分でなくなっていくような、危険なことも増える。

物が絡むような目に見える危険は分かりやすいし、元々学校でもある程度教えてもらえる。一応家庭科の教科書にはクーリングオフのやり方が載っていた記憶がある。

でも、大人になった人なら分かると思うけれど、一番危険なのは目に見えないものだ。

 

思想とか考え方とか、これは目にはっきり見える訳じゃないから、自分自身の自我がしっかりしていたり、元々宗教観がはっきりしている人以外は、自分に取って必要かそうでないかの判断が自分だけではつけられない。

そうすると、その考え方を提唱している人に聞くことになる。これって実はフェアじゃない。相手が、離れていくのもまたその人の道、とかって言って人間に執着していなければ問題ないけど、大抵人間に執着している。

一度引き入れたら離すもんかの勢いで引き込む。それが本気で相手の幸せを願っていようとも、本来幸せなんて人それぞれで、その人の幸せをコントロールしようというのは、冷静に考えると結構傲慢な態度だ。

 

そもそも人の幸せはみんな同じ、って思っている人にはこれは通用しないかもしれない。別にそう考えたければそれでもいいんだけれども、人の幸せはみんな同じ、っていう考え方は、行き着くところに殺人や差別があったりした宗教及び思想の歴史は踏まえておいて欲しい。

 

 

大人になって、昔の友人と会うとたまにこんな話になる。

これ、素晴らしい考え方なんだよ。

これやるとみんな幸せになれるよ。

宗教なのか、はたまたネットワークビジネスか。別にそれ自体を私は否定しようとは思わない。それで救われる人がいるなら救われた方が世の中平和になるかもしれない。

昔の友人を失ったような気がして、なんとなく残念な想いになる人もいると思うけど、そういう人はそういう人だ。

 

私は決まってこう声をかける。

素晴らしいし、リーダーがそんなに素晴らしい方ならマーケティングのプロをやとって様々な手法で広めたら良いよ。出版関係とかメディアの人とつながったら強いんじゃない?

ここで食い下がった人と私はまだ出会えていない。本気出したらお金なんてクラウドファウンディングで集まるし、みんなが幸せになるならみんなを幸せにしてやってくれ。

 

私は特段、自分の現状を不幸だと思っていないし、人生をわりとエンジョイしている、と思う。誰になんと言われようと、夜暗くなってから星空を眺めながらをお風呂、よりも夕方のお風呂が好きだし、風呂上がりのビールは最高だ。キンキンビールにキンキンに冷やしておいた枝豆とかもう最高。

ブータンの国では、幸せを感じるために欲を減らせ、という話があるらしいが、多分私は元々そんなに欲がないのかもしれない。いや、欲がないというわけじゃない。欲の量が現状の私に適量なのかもしれない。

 

何が嫌かって、

これ、素晴らしい考え方なんだよ。

これやるとみんな幸せになれるよ。

って誘う人は、必ず相手が現状不幸だと決めつけて、もしくはこれ以上さらに幸せになれるよ、と欲の押し売りをしてくるところだ。

最初はなんだこの傲慢な人間は!こんな人間になりたくないわ!絶対やらんわ!

と思っていたけれど、

最近、そんな相手を、自分以外の人を不幸だと思うことによって自分のことを相対的に幸せだと自分に言い聞かせているギリギリの人、と思うことにした。

というのは、誘ってきた人の話はあまり聞かないようにしていたのだけれども、ある日誘っていた人の心がプツンと切れてしまったようで、心の病気になってしまったのだ。多分、ギリギリの精神状態だったんだろう。私のことを下にすることによって心を保っていたのかもしれない。

なまじ仲が良かった人だっただけに、悲しくなった。

ギリギリのところで命はつながったようだけれども、それでもちょっと相手が肩をよっかけてもいいと感じられるような、毒気のない友達の1人でいればよかったかなあ、と思うようになった。

 

幸せの押し売りに対して嫌な気持ちは変わりないけれど、相手がそれで心が保てて生きていられるなら、存分に心を保って欲しいと最近は思う。

私は医者でもなければセラピストでもないので、できることは限られているけれど、こうして食事に行こうって、目的が何であれ楽しい時間を過ごそうと考えている人は、これからも大切にしたい。

 

 

 

コンクリートよりも気になるやつが東京にいる件

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東京にいると、感じることがある。

高層ビルによる得体の知れない圧迫感。

大きな山は圧倒される感はあるけれど、圧迫感はないのは呼吸の問題かもしれない。なんだかんだ、木とか植物って生きているものだし。

でも東京のコンクリートの固まりにはなんだか圧迫感を感じてしまう。呼吸を止めたくなるのは私だけだろうか。

 

でも、そのコンクリートよりも気になるやつがいる。

圏外の場所から一気に都内まで来ると、何か脳内に響く物を感じる。

各駅で響くモスキート音。

これは何の嫌がらせか、と思うくらい響いている。特に地下鉄に乗るときが酷い。

歩いているとだんだん具合も悪くなってくる。みんな平気ですたすた歩いているけど、この街で生まれ育った人は平気なのだろうか。

 

調べると、ネズミよけ、若者避けのための対策音らしい。

ゴキブリ用のバルサンとかも、人間の体に本当はあんまりよくないように、こういう音も本当は人間にあんまり良くないのかもなあ。

 

 

任期中の妊娠が咎められる心理について考えてみた

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www.excite.co.jp

 

ちょっと前にニュースになってたやつ。

職務放棄、とかっていう意見は国会議員だと休んでてもお金がもらえるってところにかみつく意見で、それはそれでまた違う議論だなと思いつつ、ふと考えさせられた意見がある。

 

それは、任期中ということを踏まえてコントロールできなかったのか、という類いの意見。

 

すごい。

妊娠という生き物の神秘ともとれる現象を、コントロールできるという彼か彼女は一体何者なのだろうか。

もちろん、人間が人間自身の研究を進めて、どうやったら子どもができるのか、という方法論や確率の一般論は進められてきた。

日本では30歳を超えてからの出産も当たり前のようになってきて、不妊治療というワードも検索すると結構たくさん引っかかる。望めばなんとかかんとか、子どもを授かることが可能になってきた。

 

それでも、やはり言われることは、子どもは授かりものだから、という言葉だ。

不妊治療をすれば誰しもが子どもを授かる訳ではなくて、やっぱり運もある。すごく欲しい人になかなかできなくて、望んでいない人が授かることだってやっぱりある。神様は私達人間の都合のいいようにはさせてくれないようだ。

 

そう。いくらがんばっても、一般庶民に妊娠の完全コントロールは難しい。世の中に100%ってやっぱりないから。避妊だって100%じゃないんだから。

 

ものすごい奇跡が起きて、すごい飛行機事故から生還者がでるのと同じくらいの確率で、生き物は生まれたり亡くなったりするんだもの。

 

何が言いたいかって。

新しい命おめでとう!

 

どこで切ればいいか分からないLINEが怖い

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先日、自分より年下の子からLINEでメッセージがきた。

ある雑誌についてだった。たわいもない会話が始まったのは昼を過ぎた辺りだった。

 

お互い社会人なので、すぐに既読がつかなくても焦らない。

きっと相手は仕事中なのだ。

しかし、メッセージを送り続ける中でふと思った。

 

これってどこで終わりなんだろう。

 

そもそもたわいのない会話をLINEですることが初めてだったかもしれない。

 

たわいのない会話をしていた高校生時代はまだメールの時代だった。

当時メールも、すぐに返信しなければいけないルールを存在させていた女子高生の一団がいたらしいが、私はそんな集団とは縁遠く、大抵たわいないメールが終わるのは寝落ちだった。

また、メールは相手が既読かどうかなんて分からないので、大抵長くなると、長文に鳴っちゃった、明日また詳しく直接話そう、とかで終わった。

その後登場したLINEは、大抵業務連絡が多くて、たわいない会話なんてLINEでしたことはなかった。煩わしくなって、無料電話をすることはよくあったけれど。

 

しかしここではたと気がついた。

そうか、現代の中高生はこれに悩まされているのかと。

 

過去、メールでのやり取りが流行ったときも、少し上の世代は直接話せば良いのに、なぜメールを使うのか分からない。メールは業務連絡程度にしか使わない、と言っていた。

今の私もそうだ。LINEは業務連絡にしか使わない。(メールも業務連絡にしか使わなくなった)たわいない会話をLINEでするくらいなら、LINE電話をしてしまう。

 

そうか。

これは、中高生、辛いな。

大人になった私でさえ、この会話をどう終わらせたらいいのか、とてつもなく悩んでいる。難しい問題だ。

 

色々悩んだ末、会話を発展させて、させて、

 

結局LINEは3日後くらいまで続いた。

学生ではないので、毎日顔を合わせる訳でもなく、のんびりのらりくらりと続いた。

 

そしてようやく、

お互い頑張りましょう(^^)

で終わった。

 

長かったあ。

 

 

「エースをねらえ」がスポ根に見えなくなった

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※若干ネタバレあり。「エースをねらえ」

久しぶりに、漫画「エースをねらえ」を読んだ。

タイトルだけならどの世代でもきっと知っているんだろうけど、案外漫画を全巻読んだことがあるか、という話になると、昭和生まれでも多数派にはなれないようだ。

 

私が初めて読んだのは中学生の頃。しかもど田舎暮らしの中で読んでいたので、都会の高校生にはガチでお蝶婦人みたいな人とか、藤堂さんみたいな人がいるもんだと思ってた。100歩譲って藤堂さん、尾崎さんみたいな人はいるかも。

千葉さんが一般のプロメディアよりも先に重要情報つかんでいるとか、現代にそんな描写登場するものならその道のプロからいろいろやいやい言われそうだけど、あくまでフィクション。

 

「エースをねらえ」の解説では、大抵スポ根漫画、と称される。

確かに練習量はきつい。そしてうさぎとびはもうだれもしない。今もしスポ根漫画を書くのであれば、超優秀な分析人物を登場させなきゃいけなさそうだし、その競技の研究も大変な物になりそうだ。

でも、私は今回再読して、「エースをねらえ」はただのスポ根に終わらない、精神成長も伴った、ある意味スポーツをするにおいて大事な要素がたくさんつまった漫画だったんじゃないかと思うようになった。

 

まず初期に、まだぜんぜんへたっぴな岡ひろみが、縁あって当時憧れの遠い存在である藤堂さんと打ち合うシーンがある。

楽しく打ち合うシーンの後の、岡ひろみの気付きが秀逸なのだ。

 

楽しく打ち合えて、お花畑気分の岡ひろみ。藤堂さん手加減してくださったんだわ……あ!みたいな。

そう。手加減してもらっているということは、対等ではないということ。それは想いも一緒で、対等な心を持ったときに、対等に会話ができるというようなことを岡ひろみはここで気がついて、対等に打ち合いたい、打ち合えずとも渡り合えるような広い心を持てるようになりたい、と練習にさらに打ち込むようになるのだ。

 

もちろん手加減してもらって打たせてもらう楽しさはある。全然打てなかったら楽しい。でも、手加減なしで自分の力で相手と対等に打ち合えるような楽しさ。

そう、相手と対等であるが故の楽しさは、感じたことがある人は多いのではないだろうか。

 

他にも、誰かを乗り越える時に起きる摩擦に対応する精神のあり方、自分を伸ばす恋と自分を停滞させる恋の違い、誰かを信じるということ、何かに打ち込むということ。随所随所で、現代人にも考えさせられるテーマが配置されている。

 

もっとも、そのやり方はもう現代に合わないよ、という部分は多々あるのだが、方法論の問題ではなく精神論の問題なのだ。どうやるか、ではなくどのような心持ちで取り組むか、はなかなか革命が起きるようなことでもないようだ。

 

先ほど記録した、岡と藤堂のシーンはかなり初期のもの。

お蝶が岡を励ますシーンも胸にくる物があるし、ジャッキー妹の話や同年代ライバルとも称される宝力との葛藤シーンも現代につながるものもある。

 

女子のスポ根ものって最近、アイドルになる系のものが多く世間に出ている気がするけれど、現代で女子のスポ根ものを描いたらどうなるんだろう。

というか、最近の女子スポ根ものってどんなものが多いのだろうか。

 

何はともあれ、お蝶や藤堂クラスの精神性って高校生かと思うとやっぱりすごい、異次元、超高校級だわ。